辛い、苦しい、悲しい、
戦場にはそんな負の感情がそこらじゅうで渦を巻いて戦う人々を巻き込んでいく。彼女もまたその戦乱の渦に飲み込まれた人物の1人であった。敵にも当たり前のように家族や友人、大切な人がおり、彼らと別れて懸命に戦っている。それを容赦なく切り捨てろというものだから戦争は絶対的に残酷なものだ、とクレインは思った。
なるべくなら、名前のように悲しむ人々を増やしたくない。だが、やらなければやられる世界を変えない限りこの連鎖は止まることはない。矛盾している、と彼は自身の弓を握りしめた。

「名前」
「クレイン。何か用?」
「聞いてほしいことがあるんだ。時間を貰えるかい?」
「いいけど……難しい顔して、どうしたの?」

戦争が終わったらなんて悠長なことを、と言われるかもしれないという考えが声を掛けた後に過ぎったが、クレインは真っ直ぐ名前の瞳を見つめた。彼はこの戦いで自分に出来ることが何かずっと考えていた。かの大戦で父はエトルリアの公爵としてベルン王家と会合の場を設けたり、大賢者の弟子としてリキアの公子達を導いた。だが、自分にはそのような人脈はまだない。

「僕は、戦いが終わったら武官を辞めて文官になろうと思うんだ。名前が心から笑えるような国に…世界にしたい。今はまだ、夢物語かもしれないけれど…」
「…クレイン……」
「だから、今は無理して笑わなくていいんだ。悲しい時は泣いてくれていい。ほかの皆が何ともなくても、君が辛い時は泣いていいんだ」

何を言おうか事前に考えていたことがいざとなると思い出せず、クレインは勢いに任せて名前に気持ちを伝えていた。否、伝えざるを得なかったのだ。彼女が1人で背中を向けているのを見ると無性に不安になって仕方がなく、どうしても今言わないといけない、という衝動に駆られた。

「…すまない。僕は君の辛さも分からないというのに、綺麗事を……」
「ありがとう、クレイン」
「名前…」
「嬉しいよ。クレインがそうやって声を掛けてくれるだけで、私は救われてる。本当に…ありがとう」

にこりと笑う名前にクレインはどんな顔をすれば良いのか分からず笑い返せたのだろうかと不安になったが、彼女は何も言わなかった。母の得意な弓の技を引き継いだこの力を役立てないのも失礼なのかもしれない。かといって自分がダグラスのように将軍となって国を先導する未来は想像出来ない。クレインはきゅっと拳を握りしめて揺らぐ心を固めていた。

そんな彼の姿を名前は心配そうに見つめていた。何一つ不自由のない裕福な貴族の家に生まれ、明るく聡明な両親を持ち、活発で可憐な妹がいる彼を悩ませるものは、彼女のそれとは大いに異なっていた。
“名前が心から笑えるような世界”
そう言ったクレインの表情は真っ直ぐで、決してお世辞でなどないことは彼女自身が一番理解していた。

「あのさ、クレイン」
「なんだい?」

名前が声を掛けるとクレインは顔を上げた。悩みを隠している顔だ、と彼女は紫色の瞳の奥に潜む感情を瞬時に感じた。

「1人でやらないで、私にも手伝わせてよ」
「えっ…?」
「クレイン1人でこんな広い国、変えるなんてあまりに難しすぎるでしょ。だから、私にも手伝わせてほしいの。2人だったら、もしかしたら…」
「名前…」

ああ君はそういう人だ。僕の考えることなんてお見通しで、すぐに助け舟を出してくれる。クレインがふっと微笑むと、名前は不思議そうに彼を見つめた。
そんな君だから僕は惹かれたんだ、と彼は名前の手に自身の手を重ねた。冷えた彼女の手の温度が心地良く感じてクレインは一回り小さい手を包んだ。

「クレイン…?」
「君はずるいよ。そうやっていつも僕の先を歩いて行ってしまうんだから」
「…そんなこと、ないよ。私はクレインに引っ張って貰わなかったら、ずっと過去に取り残されてた」

名前がクレインの真剣な瞳を覗くと、先程までの迷いはない。彼女は微笑んでクレインの手を握り返した。たとえどんな苦難であろうと、この手を離さなければ、きっとこの光と歩いて行ける。彼女はそう感じた。

「僕達は2人で一人前なのかもしれないね」
「クレインは十分だと思うけど…」
「えっ、僕が?そんなことはないよ。それを言うなら名前の方が…」
「ふふっ。さっきと同じような話」
「あ…本当だ」

君の笑顔を守りたい一心で世界と向き合うことは、中途半端であった自分自身の居場所を見つけることでもあるのかもしれない。兵を従える未来は見えなくとも、彼女が隣にいる未来なら見える。クレインはそんな明るい世界を思い浮かべて、名前の笑顔を見守っていた。