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近くで遠い彼は彼女の手の届くところにいるはずなのに、その輝きに目が眩んでしまって手を伸ばせないでいる。彼を困らせるのを分かっているので伝えたことはないが、これが持ち合わせた光と影なのだろうと名前は心の隅でそう思っていた。
社交界に出掛けることも多くなったが、エトルリア貴族の中にいる自分が場違いなのは相変わらずで、リグレ家の名声を落としているのではないかと居心地の悪さを何度も感じて身を隠すことも多かった。
その度にクレインは彼女を探し出してくれるのだが、それすらも情けないと名前は彼との付き合いに限界を感じ始めていた。
「名前?どうかした?」
「あ……クレイン。何でも…」
それでもこの柔らかな瞳に微笑みかけられたら最後、残酷な言葉を言い出すことは出来ない。自分が我慢すればいい話なのだ、と彼女は今までの辛い経験を思い出し、過去の日々よりもずっと楽だろうと自身を鼓舞させる。
そんな彼女の様子にクレインが気付かない訳がなく、そっと名前の手を取って彼女の目をじっと見つめた。
「何でもないこと、無いよね?」
「え…な、何?急に…どうしたの?」
「名前、無理しなくていいんだ。それとも、そんなに僕が頼りない?」
そんなことない、ぶんぶんと首を横に振って名前は答えた。クレインは彼女にとって最も信頼が置ける人物であり、最も心惹かれる男性であるのだ。だからこそ困らせたくないのだが、最早隠すことも叶わないのか、と小さくため息を吐いた。
その瞬間にクレインは強く彼女の腕を引き、その小さな体を腕の中に閉じ込めた。二度と離れないように、離れられないように。
「ク、クレイン!?」
「僕は君を手放すつもりもないし、別れるつもりもない。君以外の人を隣に置く気はないよ」
だから、僕の隣にいたくないと思うようなことがあったら言って欲しいと彼は言葉を続けた。いたくないなんて思ったことはないと名前は答えたが、その語尾は次第に萎んで行き、何か思うところがあるのがクレインへ伝わった。
貴族と平民では大きな弊害があるというのは最初から分かっていたことだった。それは逆の立場のクラリーネと彼を見ていても理解しているつもりだったが、クレインは後にリグレ家当主となる人物であり、自由に出来る妹の彼女とは立場が異なる。彼の隣にいるということは、想像以上の苦労があった。
「大変なのも、分かってたつもりだったんだけど…」
「うん」
「居心地が、悪いっていうか…。どうしたら良いか分からなくて…」
恥ずかしさと情けなさで声が震えるのを必死に抑えたが、この体勢ではそんな小さな体の変化の情報まで彼へと伝えられてしまう。クレインは名前を抱きしめる力を強め、彼女の頭をまるで幼子をあやすように優しく撫でた。
涙が出そうだ、と名前は思った。
「名前、僕は余裕があるって思ってるかもしれないけど…。僕も自信がないんだよ。だからこそ、2人で乗り越えていきたい」
そう言うクレインの鼓動は次第に速くなり、名前へと言葉の重みを伝えた。苦しいのは自分だけではない。自分だけが辛いなんてどうして思えたのだろう、と名前はクレインの背に回す腕へきゅっと力を込めた。
「ごめん、私…自分のことばっかりで、クレインのこと…全然考えてなかった…」
「僕の方こそ、名前の感じてる苦労を分からなくて、ごめん……」
完璧な人間など最初から存在し得ないのだ。クレインは何事も要領よくこなしてしまうので忘れていたが、陰でとてつもない努力をし、現当主である彼の父に追いつこうとしている。それがどんなに茨の道であろうと、彼は乗り越えようとしている。名前は一度でも限界などと思った自分を恥じた。
「名前、これからも…僕の隣にいてくれるかい?」
「うん…もちろん。ありがとう、そう言ってくれて。私…頑張るね」
「僕も頑張るよ。君に負けないように、ね」
愛されることの嬉しさや素晴らしさを名前は再度理解したと同時に、クレインの体温や声、強い意思、全てが心の隙間に染み渡っていくことのこそばゆさを感じた。彼女の頭が胸に預けられて、クレインはその愛しい重さに瞼を閉じ、そっと腕の力を強めた。
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