ベストラ侯は優しくもなかったが、特段厳しくもなかったと彼女は語った。それは恐らく彼女が紋章を有していたからであり、その価値というのは計り知れないものなのだろうと。とはいえ彼女自身は紋章へ大した興味もなく、むしろどちらかといえば嫌悪しているようであった。それがあるから余計な気苦労をしてきたと。
アッシュがそう語る名前の横顔を見つめると、同い年のはずの彼女は自分よりいくつか上に思えた。平民と貴族、王国と帝国。様々な立場の違いがあるからこそ彼女を知りたいと思ったし、話したいと思った。

「まあ、気苦労してきたのは私だけじゃないし…そんな些細なこと我慢しなきゃいけないとずっと思ってたの。でも違った。人の顔色ばかり見て生きてても何にもならないわ」
「それは…」
「私が貴族だから言えること?」
「い、いや…ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。でも、平民は貴族の顔色を窺わないと生きていけないから…」

ヒューベルトの妹である彼女は、兄と道を違えて今この軍にいる。そう遠くない将来に彼と対峙する時がくると分かっていても名前は飄々としていた。フレスベルグ家に仕えてきたとはいえ名前は紋章持ちの女で、その存在はベストラ侯だけでなくアランデル公からも珍妙な存在として兄とは全く違う扱い方をされてきた。それゆえ帝国への忠誠も薄く兄と訣別することも即断したのだというが、アッシュにはそれが信じ難かった。1つの痛みもなく実兄と別れることを決断できるものだろうか、と。

「そう…ね。無遠慮な言葉だった。ごめんなさい、アッシュ」
「僕の方こそ、君の言いたいことは分かっていたのに…。片意地張ってごめん」
「いいの。今のは私が悪いから。貴方が士官学校に入ってこうして今此処にいることがどんなに大変だったか、私には…いえ、貴族にはきっと分からない。これから先も体験することもない」
「うん、そうかもしれないけど…君には君の大変な日々があったんだ。それは僕にも分からないし、きっとこの先も経験しない」

じゃあ引き分けでいい?という名前に、アッシュは控えめに笑って頷いた。帝国の参謀である兄とは似ても似つかない笑顔で名前はそれならよかったと呟いた。士官学校時代にエーデルガルトが皇帝に即位したあの時からもう5年も経つのだ、互いに一度は別れた道が再びこうして交わるなど予想もしていなかった、と彼女は隣にいるアッシュを思った。

二度とベストラ家には戻らないと言うと兄は特段驚いた様子もなく、名前にいつもと変わらない視線をよこした。そも彼が一番アランデル公を憎んでいたはずなのに手を貸すのはおかしいと彼女は意見したのだが、エーデルガルトのため仕方なく今は協力関係に甘んじていると彼は言った。
では、いつか消すつもりだったのだろうか?とすれば兄と自分の道の行く先は同じだったはず、と想像して名前は頭を振った。

「名前?」
「私はまだまだあの人の足元にも及ばないということ」
「あの人って…ヒューベルトさん?」
「そう。きっと全ての結末を想定した上で、敵陣へ向かう私をあっさり見送ったのでしょう。でなければ、あんなに用意周到な人が私をみすみす見逃すはずないもの」

兄と別れたとしても、家を捨てることになっても、此処へ来たことを名前は後悔していなかった。だが、もしこの軍が勝利して帝国が解体した時に自分の居場所は何処にあるのだろうと想像すると、いよいよ虚しさすら現れてくる。何を信じて此処に来たのか、兄と共にフレスベルグ家に仕え続けて命を落とすことの方が正道だったのではないかと、その後続くであろう長い時間の方が苦痛そのものではないかと。

「ねえ、アッシュ」
「何?」
「貴方は…この戦いが終わったら何処へ行くの?ローべ家を再興するの?それとも他の道に?」
「うーん…名前、難しいことを聞くね。ローベ家に関しては、僕に相続権はないし、王国を裏切ったことに変わりはないし…。そう言う名前は?」

聞かれると思った、と名前はくすくすと笑いながら天を仰いだ。ベストラ家という名前は今後彼女を苦しめるであろうことは容易に想像できた。父を見殺しにして兄を捨てた彼女だけがその呪縛から逃れるなど許されることはないだろうと重荷を背負う覚悟はあったのだが、いざそれを背負った時に生きていけるのだろうかという不安が付き纏っていた。
貴族は生まれながらにして貴族なのだというフェルディナントの言葉を思い出し、名前は静かに息を吐いた。

「信じる道を辿ってきたつもりだったのに、いつの間にか迷路に入り込んだ気分なの」
「えっと…何、それ…。よく分からないんだけど…」
「アッシュ、私は今、貴方が羨ましい。私も信じる道が欲しい。信じられるものを…全て置いてきてしまったような気がして」
「僕だって…この戦いで死ぬかもしれないし、生き残っても世界がどうなるか分からない。だから、僕に出来ることを精一杯しようと思う。名前も、無理に考えなくていいんじゃないかな…って、ごめん!僕何か勝手に決めつけて…!」

慌てて謝るアッシュを名前は大丈夫だよと言って落ち着かせた。自分に出来ることを精一杯やる。アッシュは士官学校時代からそう言って騎士団の手伝いを進み出たり、いつも誰かのために行動していたし、名前はそれを見ていた。あんなことをしても評価には繋がらないのに、と級友が嘲笑っていたのを思い出した。
そんな彼だったからこそ名前はアッシュが気になったし、今もこうして隣にいるのだろう、と当時を振り返った。

「そうね、自分に出来ること…ね」
「うん、僕に出来ることなんて…全然大層なことじゃないだろうけど…それでも、求められるなら応えたいし、助けになりたいと思うんだ」
「アッシュは凄いわ。私はいかにして自分の背負う業を減らせるかと考えてしまうもの。貴方を見習わないと生き残っていけそうにないわね」
「名前も凄いよ、僕には家を飛び出すなんて到底出来ない。でも、信じる道が無くなっても死ぬことは無いよ。僕がこうして生きてるのが証明だ」

そうね、と名前はアッシュの薄緑色の瞳を見つめた。風が2人を誘うかのように通り抜けてゆき、彼の灰色の髪が毛先を弄ぶかのように揺れる様を彼女は最後まで見続けていた。穏やかな顔でこちらへ視線を向ける名前にアッシュは気恥ずかしそうにしながらも応えた。
同じ色のはずなのに、その視線もその髪も全く違うと彼は感じた。兄と同じ色素の薄い色の瞳、光に当たると暗緑色にも見える髪。帝国の貴族は苦手なはずだったのに、切なげに微笑む名前に心惹かれて今もこうして隣にいる。

「ありがとう、アッシュ。私、あなたに出会えただけで此処に来た甲斐があったわ」
「それは僕もだよ、名前。君と出会わなかったら僕は自分の道を進めなかったかもしれない」
「ふふ、ここもお互い様なのかしら」
「そうみたいだね」

笑って歩める道がすぐそこにあることに2人はまだ気が付いていなかった。身分も立場も気にすることなく歩んでいけるその道は、いつでも2人の傍で扉を開けて待っている。互いに手を取り合い、同じ速度で歩けるその日は近い。