その日、赤髪のマケドニア王は非常に機嫌が悪かった。理由は簡単、想い人である使用人の名前と顔を合わせていないからであった。臣下たちはそれを分かっていながら、多忙を極める彼女に声を掛けられずにいた。

「ミ、ミシェイル様…依頼されていた件なのですが…」
「…ああ、何だ」

何も悪いことをしていないのにこの剣幕はとばっちりだと萎縮しながら臣下が玉座へと座る主君を見上げると、そこには地獄の門番のような形相のマケドニア王の姿があった。
冷や汗が背中を伝う。この目線で死人が出るのでは、と彼は唾を飲み込んだ。

「ミシェイル様!本日のご挨拶が遅くなり…あ…!お取り込み中、申し訳ありませんでした…!後ほど…」
「名前、遅い!こちらに来い。貴様の報告は後だ」

女神が舞い降りたお陰で地獄から這い出た彼は名前とすれ違う時、祈るように会釈をして足早に王の間を去った。
入れ替わるようにミシェイルの前に現れた名前は、真っ直ぐに玉座のすぐ側まで歩み寄った。

「ミシェイル様…」
「…遅いぞ」
「約束を…自ら破ってしまい、申し訳ありません……」

それは元々無理難題の約束だった。
毎日太陽が頂上に昇る前に必ずミシェイルの元を訪れること。
彼女はそれを今まで欠かさずに守ってきたのだが今日に限っては仕事が立て込み、彼の元を訪れるのが夕刻になってしまったのだ。一兵士が冷酷なマケドニア王の機嫌を取り持つことは難しいようで、名前以外に彼を元に戻すことは出来ない。

「ミシェイル…様?」
「いや、構わぬ…と言ってもお前は信じないだろう」
「それは……」
「ふっ、言うようになったな。名前」

そんな滅相もないと名前が両手を振って弁解しようにも、何度も様々な兵からミシェイル様をどうにかしてくれ、機嫌を取り持ってくれ、と言われてはもはや隠しようがない。
いよいよミシェイルに嫌われたか、と名前が俯いていると大きな手が彼女の頭に乗せられた。

「え…?」
「なんだ、その顔は」
「愛想を尽かされてしまったかと…思いました」
「何を言っている?俺がいつお前を手放すと言った?」

拍子抜けして玉座に座る彼を見上げる名前の髪を撫で、ミシェイルは彼女をそのまま抱き締めた。名前は不安定な体勢になり彼の上に崩れ落ち、予想外の密着に慌てた。

「ミ、ミシェイル様…!!誰かが来たら、困ります…!」
「困るのは俺か?お前がいないと調子が狂うのだ。困ることなど一つもない」
「そ、そんな…!しかし、私は…!」

名前はマケドニア王国に仕える一兵士でしかない。特別扱いしているのはミシェイル本人であるのだが、彼女自身はそれを良くは思っていなかった上、様々な兵士から疎まれることもあった。
それを知っても尚ミシェイルは名前への寵愛をやめることはなかった。否、やめる理由などないと思っていた。

「俺の前から消えることなど決して許さぬぞ、名前」
「ミシェイル様……」

抱きしめられたまま耳元で囁かれた低い声は名前の好きなミシェイルの優しくも力強いもので、彼女は彼の体に隠れて笑みを浮かべた。
他の者の前で特別扱いされるのはよく思っていないものの、名前も側に置かれるのは素直に嬉しいと思ってしまう。
顔を上げさせられ、かちりと視線が合うと、心を見透かされているのではないかと思うほど真剣な眼差しで見つめられた。

「良いか。マケドニアを手放す時が来ても……俺はお前を離しはせぬ」
「いいえ、ミシェイル様。王である貴方がマケドニアを手放すなど、あってはなりません…!たとえドルーアとアカネイアが攻めてこようとも、それだけは決して…!!」
「名前……俺はお前のその生真面目なところを気に入っているのだ。これからも変わらずにいてくれ」

ふっと細められた瞳に篭る優しい感情は、まるで何かを暗示しているような気がして名前は不安になった。いつかマケドニアが滅び、ミシェイルが失脚する時が来たら。想像しただけでも恐ろしい、と彼女は思った。

「ずっと、お側でお仕えいたします…」



赤髪の孤独な王は一人の女性を密かに愛した。それは生涯続き、彼女もまた彼を永遠に愛し続けた。どんなに困難で険しい道程でも二人が互いの手を離すことは一度もなかった。