息抜きしましょう、と連れ出された先でミシェイルは彼女の手を握って歩き出した。マケドニア王と民に分からぬよう髪を結って平服を着ている彼に先導されて歩く道のりはゆっくりで、名前がきらきら光る露店や物珍しい食材を売っている店などを見渡していると、ミシェイルは立ち止まってその手を握り直した。
何か欲しいものがあるのかと問う王に対して名前は首を振った。欲しいものなど一つもない、というよりも欲しいといえばミシェイルが簡単に用意させることは想像出来るが、彼女が彼に何かを強請ることは一度もなかった。元よりただの臣下であり、王に何かを施される立場ではない。

「見てください、あちらは何を売っているのでしょうか?」
「ああ、あれは羽織だな」
「あんなにもきらびやかな羽織があるのですね」
「お前もああいうものが好みなのか?」

いいえ、私は今のもので十分です、と名前は笑った。それにあんなにきらきらしていては敵襲が来た際にすぐに見つかってしまいますし、と言うのでミシェイルはそれは言うなと眉間にしわを寄せる。
束の間の平和に民は笑顔を綻ばせて祭りを楽しんでいる。彼女もそうであれば良いと思っていたが、今でも敵襲という言葉が出てくるところから想像するにさほど気を弛めてはいないようだった。

「ミシェイル様?如何されましたか?」
「いや…行くか」
「はい!」
「愉しそうだな」

民の皆がこうして平和に過ごせているのを見て安心しました、と名前は呟いた。喧騒の中でもはっきりと聞こえた声にミシェイルは思わず彼女の方を見る。まるで民に留意する貴族のような言葉だと。だが名前は彼の視線に気がつくことなく店に並ぶ商品を上機嫌で見ていた。そしてミシェイルは彼女の髪に何も装飾品が付いていないことに気がついた。

「その服は従者のものだろう」
「はい、貸して頂きました。マケドニアの紋章が入っていないものはこれしか無く…」
「俺のものは職人に作らせたと言うのに、自分のものはそれで良いのか」
「お忍びとはいえ、ミシェイル様に粗末なものをお渡し出来ませんから」

手放さないと本人に伝えてからも名前は高価なものを欲しがることはなく、今まで通り臣下として質素な生活を送っていた。無論そのような人物だからこそミシェイルも気にいったのだが、もう少し何かを強請ってくれてもよいのではと思うこともあった。このように平和な世の中であれば尚更だ、と。
しかし、彼女の性格上伝えたところで何かを求めることは無いのだろう、とミシェイルは名前の手を取りながら考えた。

「随分と短くなったな」
「え、髪…ですか?」
「ああ。昔は俺と同じように長かっただろう」
「そうですね…。心機一転、というものでしょうか。あ、決してミネルバ様やマリア様を真似た訳ではなく…!」

分かっているから気にするなとミシェイルは彼女の髪に触れた。暗黒戦争の後名前は長かった髪をバッサリと切り、今では肩の上で歩く度、風が吹く度に艶やかな髪がふわりと揺れる。長い髪の彼女に見慣れていたミシェイルも最初こそ驚いて見間違いかと目を丸くしたが、次第に慣れて今ではこの髪で彼女を認識しているほどだ。

「足を止めてしまったな。行くか」
「ミシェイル様、どうか私のことはお気になさらず…」
「俺が勝手に気になるだけだ」
「そ…それは…」

名前が俯くと髪が揺れて項が顕になる。ミシェイルがその無防備な項にそっと触れると彼女はビクッと肩を揺らして驚き、何事かと身長の高い彼を見つめた。これが愛しさか、とミシェイルがその頭を抱き寄せると、再び驚いて体を硬直させているのが分かった。幾度となくこの小さな彼女に救われたのだと思うと不思議な気持ちだったが、決して悪い気はしなかった。

「名前」
「は、はい…!」
「まだ歩けるか?」
「もちろん大丈夫です!」

平民の祭りに王族が参加しているなど、マケドニアの民が知ったらさぞ驚くことだろう。ましてやミネルバやマリアが知ったら、兄は頭でも打ったのかと目を丸くするだろうとミシェイルは妹達の表情を想像した。全てが名前の発案に拠るもので、民が元気で活気のある街を見れば更に国政に精が出るという彼女の考えは正しくミシェイルを導いていた。

「この風景が当たり前になると良いですね」
「その未来を守るのが我々の責務だ。マケドニアは屈しない」
「はい、分かっています。私もこの国のため、精一杯ミシェイル様のお手伝いをさせていただきます」
「お前には苦労をかけるな」

端に近付くにつれ段々と屋台も人も減っていき、街は閑散としてくる。ミシェイルが足を止めて名前の手を強く握ると、彼女もそれに応えるように握り返す。この平穏がいつまで続くか分からなくても、民の笑顔を届けることが出来て良かった、と名前は彼のゆっくりとした歩幅に着いて行った。

「怖くはないのか?」
「ええと…何が、でしょう?」
「この国と共にあることを、だ。マケドニアは今でこそ活気があるが、いつまた攻められるかも分からぬ。お前はそれでも此処にいられるか?」

ミシェイルの問に名前はふふ、と笑った。そんな覚悟はとっくに決まっている。きっと彼は自分を何処か別の場所に追いやりたいのだろうがそうはいかない、と彼女は身長の高い王を見上げた。

「いつまでも、という言葉に二言はありません。ミシェイル様のため、マケドニアのため、命尽きるまでお供致します。私を手放さないと仰ったのは…」
「俺の私欲でお前を繋ぎ止めておく訳にはいかんからな」
「それで構いません。どうかお傍に置いてください。今更何処かへ行くことなど…考えられません」

愚問だったか、とミシェイルは名前の小さい体を包み込んだ。夏の夜空は2人を見守るように星が瞬き、虫たちは静かにその音色を奏でていた。