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目の前に立ちはだかる敵。モルフなのか人間なのかも定かではないそれは、剣を抜いて彼へと振りかぶる。こちらも応戦しようと手中にある剣を握りしめ、攻撃を受けるべく盾にする。キン、と金属がぶつかり合う音がする。終わらない戦争、無限に湧いてくるモルフ、残酷な運命。全て終わったはずなのに、自分は何と戦っているのだろうか、あの記憶は幻なのだろうか。ぼんやり当時の死闘を思い浮かべていると、目が覚めた。敵の姿はもちろん無い。体を起こすと隣に眠っていたはずの名前の姿はない。ほんのり温かいことが先程までそこに居たという事実を示している。レイモンドは夢の情景を消し去るように顔を洗って彼女が居るであろう台所へと向かうと、案の定名前は調理場で食事の支度をしていた。
「名前」
「わ!びっくりした。起きたのね、レイモンド」
「ああ。随分と眠っていたようだ」
「顔色が良くないけれど、悪い夢でも見たの?」
よく気が付くな、と彼は素直に思った。名前との付き合いは幼少からだが常に近くにいた訳では無い。幼馴染のようなものだったが、コンウォル家の解体で別れ、戦争で再会し、今に至る。共に戦ってきた仲間も散り散りになり、各々が自分の選んだ土地で生活している。ルセアやプリシラも例外ではなく、時折彼らからの便りが来るのを2人は心待ちにしていた。
「戦いの夢だった」
「私も時々見るわ。永遠に終わりが来ない戦いの夢。でも、終わった。ニルスとは会えないことがその証。見送ったもの、私たち」
「そうだな。門の向こうに歩いていった」
「元気かしら、ニルス」
名前が呟くのと同時にレイモンドは名前の手を握った。彼女は此処にいる、大丈夫だと言い聞かすように。その心情を察してか、名前はそっとその手を握り返す。こうして2人で平穏に暮らすまで何度も間違って何度もすれ違ってきたけれど、あの日々も決して無駄では無かったのだと思える。長年抱いてきた感情を捨てることは簡単ではなかったが、2人はヘクトルの計らいによってオスティアの外れの小さな街で暮らしていた。
コンウォル家の過去も清算されたとはいえ、戻ってくるものは一つもない。ヘクトルやオズインは当時の彼らへの仕打ちに謝罪しようとしたがレイモンドはそれを制したのだ。当時は彼と同じく子どもだったヘクトルに、そして公爵のただの部下であったオズインにコンウォル家への制裁を加える判断を下せたわけが無い。謝罪はいらないと言う彼の表情を思い出して名前は微笑んだ。
「変わったわね、レイモンドは」
「それを言うならお前もだろう」
「そう?」
「ああ。昔は飛竜が空に見えるだけで隠れていただろう」
そんな昔の話を引っ張り出してこないで、と名前は笑った。今や飛竜が空を飛ぶことは少ない。飛んでいたとしてもベルン兵は自国の復興に必死で他国へ侵略することは考えにくいが、その状況を平和と呼ぶのは些か心許なく、いつその平穏が崩れるか分かったものではない。 ベルンはゼフィール王子を筆頭にマードック将軍が指揮を執っているという噂だ。あの時に助けた少年か、とレイモンドはぼんやりと顔を思い浮かべた。
「実家には戻らなくて良かったの?」
「それはお前こそ。俺の家には誰も居ないが、名前には両親がいるだろう」
「私は貴方がいればそれで良いって言ったでしょう。これは罪滅ぼしではなく、私の本心」
「それならば、俺も同じだ」
真っ直ぐ名前を真剣に見つめる赤茶色の眼差しに彼女は目を逸らした。香ばしい匂いが鼻腔を擽り、食事を作るのと同じくして焼き菓子を焼いていたことを思い出し、釜戸の様子を確認するとそれは丁度頃合に焼けており名前は熱い鉄板をそっと取り出した。
「火傷するなよ」
「大丈夫よ、気をつけてるから」
「随分と沢山作ったな」
「こんな素人でもきちんと包装紙で包めば売れるの。少しでも足しにしたくてね」
「……まあ傭兵家業よりは、まだ良いか」
レイモンドは不満そうではあったが、何も持たない彼らの生活が苦しいのは紛いもない事実で、彼もそれ以上の言及はしなかった。当初こそオスティアや彼女の実家から支援を受けたが、それ以上は受け取らずに2人は切り詰めながら質素な生活をしていた。名前は時折こうして菓子を焼いたり、彼は街の復興の手伝いで収入を得ている。
温かく慎ましい日常を過ごしていても頭を過ぎるのはあの死闘を共に乗り越えてきた仲間の顔。彼は、彼女はどうしているだろうかと。
名前が包装紙を取り出しながらレイモンドの名を呼ぶと、彼が背後で返事をするのが分かった。
「ずっとこの街にいたい?」
「俺は拘るつもりはないが、名前はどうしたい?」
「何処か別の街に行くのも悪くないかと思って。私たち狭い世界でしか生きてこなかったもの。サカやイリアの人達と会ったのも、あの戦いが初めてだった」
「そうだな、また違う場所に行くのも良いかもしれん。ついでにルセアの顔でも見に行くか」
そうね、と名前は焼き菓子を摘んで彼ヘと手渡すとレイモンドはそれを口に入れた。 後味の悪い夢もほんのり甘い菓子に溶けて無くなるような気がして、彼はふわりと香る優しい花の匂いに目を細めた。甘味を好んで食べる方ではなかったが、彼女が作ったものであれば話は別だ。なるほどわざわざこれを買う者がいる理由もわかる、とレイモンドは名前と視線を合わせた。
「美味いな」
「ふふ、ありがとう。今回は貰った紅茶を練り込んでいるから良い香りがするでしょう?いつも買いに来てくれるおばあさんが喜んでくれるといいんだけど」
「常連がいるのか?」
「少し、ね」
良かったな、とレイモンドは名前の頭を撫でてそのまま肩を抱き寄せた。この地を離れれば、家はもちろん培ってきた人間関係や仕事さえも捨て置くことになる。その覚悟なしに彼女が発言するとは思えず、レイモンドは名前の心中を察した。
自分だけが幸せになるのが耐え難い。戦乱に大きく巻き込まれた地では兵士の弔いや荒れた街の片付けに勤しんでいることに違いない。各地を回ってきたからこそ、そんな人達の手助けをしたい。名前の考えそうなことだ、とレイモンドは彼女の背中を擦りながら考えた。
「レイモンド…?」
「フェレを通ってキアラン方面へ向かうか」
「えっ…?」
「何年の付き合いだと思っているんだ」
さも当たり前のように言い放つレイモンドを見て、彼女は目を丸くした。フェレは今回の戦乱の地の中心で、キアランも侵略された場所だ。よもや具体的な名前が挙がるとは思わず名前はぱちくりと瞬きをすると、レイモンドは相変わらず鈍感な彼女に対して軽く笑みを零した。
「でも、どうして…」
「復興の手伝いをしたい。名前の考えそうなことだろう」
「貴方は、本当に…」
「それは俺の台詞だ。お人好しにも程がある」
それでも名前の望むようにさせてやりたいと思うのは、彼の側に居たいと思うのは変わらない。場所など何処だって構わないのだ。互いがそこに居れば2人は幸せだった。すれ違った月日を埋めるように微笑み合うと、玄関の扉を叩く音と彼女を呼ぶ声が聞こえる。きっといつものおばあさんだわ、と名前が包まれた焼き菓子を持って扉と向かうのを、レイモンドは優しい眼差しで見つめていた。
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