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ガリアの広い森をライはひたすら走っていた。いかに獣牙族が夜に目が利くとはいえ、森の中は些か分が悪い。昼でも迷うことがあるのに、夜は獣がそこらじゅうで動き回る音や鳥の羽ばたく音がして気が散る、とライは息を吐いた。
目的地は間もなくだったがそこに目当ての人物の気配はなく、ライは速度を落として森の中にぽつんと佇む小屋に近づいた。扉は簡単に開き、暗い家が彼を迎え入れる。
“クリミアに行く”という言葉を聞いたのは、ついこの間のことだった。行ってしまう前に引き留めるはずだったのに、王から直々に司令を受けて今まで業務に励んでいたのだ。
クリミアであれば他の国よりはラグズへの差別意識も薄く、足は運びやすい。とはいえ、あれほどガリアへの愛国心を持っていた彼女が何故、とライは暗い家の椅子へと腰掛ける。そこにはまだ彼女の匂いがついた物が沢山残されており、てライはその一つである手拭きを手に取った。
「名前」
呟いた声は誰に届くことも無く、闇へと吸い込まれる。クリミアの何処にいるのかは告げられることなく、それは彼女はベオクと共に暮らす生活に戻ったということだ。ラグズに育てられた彼女が変わったことに対して、本来なら喜ばしいことだと祝福すべきなのだろうが、ライにそれは出来なかった。
テリウス大陸の中でベオクは最も短命な生き物だ。ライたち獣牙族もラグズの中では決して長い方ではないが、ベオクと比べればその何倍も長く生きる。 ライは一族の中でも異質なほどベオクに友好的であり、彼はそれを貫いていた。ベオクにもラグズに差別意識を持たぬ者がいる、人によって違うのだと。
『ベオクは同じベオクを平気で裏切って、攻撃して……。同じ種族なのに、おかしいよ』
『それについては、オレも同感だな』
『ライに私はどう見える?』
同じ同種殺しに見える?と名前は聞いた。ライは首を振って否定すると、それでも戦争は…と話を続けようとする彼女を抱き寄せてライは言葉を遮った。ラグズとベオクの溝は深く、ラグズの中で育った彼女にとってそれは到底理解し難い現実であった。ライ自身もラグズ同様ベオクにも個体差がありそれぞれの思想があることは一定の理解を示していたが、ここまで大きく争うのは彼の想像の範疇を超えていた。
しかし、皮肉にもラグズもベオクも窮地に立たされた時こそ本性が分かるというのは同じことで、ライは何度も強いベオクの心を目の当たりにしてきた。
『負に飲み込まれさえしなきゃ、名前は大丈夫だろ?おまえが私利私欲で命を奪うやつだなんて誰も思っちゃいない』
『それは、そうだけど…。時々“なりそこない”が夢に出てきて私に言うの。“お前もなりそこないだ”って』
『あいつらはオレ達がちゃんと弔ってやるよ。余程のベオク嫌いじゃなきゃ、お前のこと嫌いな奴はいないって』
『ライ…ありがとう、ごめんね』
名前の腑に落ちない表情が今でも鮮明に思い出せる、とライは目を瞑った。風に乗って雨の匂いが周囲に立ち込めており、きっと数刻もすれば降り始めるだろう。それを確認しようと立ち上がって扉を開けると、遠くに松明の灯りが揺れているのが分かる。こんな時間に誰が、と思って目を凝らしたと同時に雨が降り始めて遠くの灯りは消え、大地に根付く草を段々と濡らしていった。
走ってこちらに向かってくる影には見覚えがあり、ライは目を見開いた。見紛うことの無いその姿、匂い。
「名前」
「……ライ?どうして…此処に?」
「もう行っちまったのかと思ったぜ」
「えぇ?まだ住む家も決まってないし…こんなに残したままでは行けないよ」
クリミアは晴れてたからこんなに降ってくるなんて思わなかった、と名前は濡れた外套を脱いで乾かさなきゃと言って高い場所に掛けようとするのでそれをひょいと横から奪い去る。それは雨を吸ってずっしり重く、ライはこんなものを着て帰ってきたのかと感心しながら高い場所へと引っ掛ける。
「で、決まったのか?家は」
「うーん…それが、まだ」
「どうしてもクリミアに行くのか?」
「…私も、前に進みたくて。此処は居心地がいいけど、それじゃいつまで経っても同じ私のままだから…」
名前がきゅっと手を握りしめるのをライは見つめていた。前に進む、その言葉が何を示しているのか分からない彼ではなく、名前がベオクとして生きていく決意をしたのだと感じる。ガリアとクリミアはそう遠くはないが、決して気軽に足を運べるほど近くもない。ガリアを離れれば会う機会は格段に減ることは十分に理解が及ぶ。ライはそう考えて濡れた名前の髪を撫でた。
「決心したのか」
「……うん」
「なんだそれ、煮え切らないな」
「私も、エリンシア様のように前に進みたい。ラグズとベオク、共に生きていける世界がいい。でも……」
口を噤む名前の脳裏に浮かぶのは、ラグズを半獣と罵り痛めつけるべオクの姿。自分を育てた母の姿が重なり、首を振った。忘れもしない悲しい記憶。逃げろと自分に声をかけて化身する母、それを武器を持って鬼の形相で追うべオク達。
ライは名前の冷えた体を抱きしめた。クリミアに行っていたせいか、いつもの彼女よりベオクの匂いが強く残っている。いつか完全にべオクの世界へ行ってしまうのだろうか、彼女がベオクに溶け込むことを祈っていたはずなのに、いざとなったら何故こんなに胸が詰まるのだろう、とライは自分の感情に答えを出せずにいた。
「あんまり他の“誰か”と比べるなよ。お前が辛いならそれが答えだし、真実だ。それは測れるものじゃない」
「甘えたことばかり、言ってられないから」
「誰に?」
「それは………ライ、に」
まるでガリアから出て行くなと言われたいみたいでしょう、と名前はへらりと笑った。口にすれば此処に残ってくれるのだろうか、彼女の笑顔が見られるのだろうか、と思ったが、それは名前自身の成長を妨げる要因になりかねない。ベオクの短い生涯の中、こんなにも変わろうと努力していることを邪魔したくはない。
だが、そう簡単に結論づけられるほど自分の感情は纏まってはいなかった。ライは背中に回した腕の力を強める。
「オレは、名前の近くにいたいと思ってる。今も、これからも。それが叶わなくても、お前のことは見守りたい」
「……私ね、本当に感謝してるの、ライ。貴方に会えて、本当に良かった。貴方がいなかったらアイクさんやエリンシア様にも会えてないし、私は死ぬまでベオクが嫌いだったと思う」
それは、一生の別れのような言葉だった。この家を出たら最後、二度と会わないという彼女の決意にも似たその言葉は、ライの心を大きく揺さぶった。生まれて数十年、ここまでベオクの言葉が響いたことはなく、彼は静かに大きく跳ねる自分の鼓動と彼女の言葉に耳を傾けた。全知全能の神は、なんて非情なのだろうと居もしない神に向かって悪態をつく。アスタルテが全知全能の神であれば少しは世界が違ったのかもしれない。そんなことを頭の隅で考えながら。
「それで終わりか?」
「え?」
「オレは名前を手放したりしない。どこまでも追いかけるぜ」
「ライ……」
「獣牙族をナメてもらっちゃ困る。覚悟しとけよ、名前。どこに行っても必ず見つけるから」
だから静かに居なくなるなんて、絶対に辞めてくれと心の中で呟いた。この感情に折り合いが付くことはない。一生秘めたまま生きていくことになるのは承知済みだ。どんな手段を使ってでも必ず居場所は見つけてみせる。二度と失わないように、見失わないように。
「側に居させてくれ、名前」
「…ずるいよ。ライは」
「ああ、 分かってる」
一筋の雫が、ぽつりと床の色を変えた。
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