手のひらをすり抜けていくような感覚がした。
掴んでも掴みきれない、空気を掴んでいるような手応えのない感触。ふわふわと浮雲のように君は自由に俺の周りを駆け回る。俺が触ったら壊れてしまうかもしれないから、掴めないくらいが丁度いいのかもしれないと思うほど、君の笑顔は眩しかった。
「何考えてるか当ててあげる」
「当たるか?」
「そんなの、言ってみないとわかんないでしょ?」
「それもそうだな。じゃあ、なんだと思う?」
君の丸い瞳に俺の顔が映る。名前はふふ、と得意げに俺に笑いかけた。彼女とは戦争で知り合ったが、あの暗い時でも太陽のように明るく周囲を照らす人だった。そんな彼女の光に当てられて、今ここにいる。
復讐するだけでいいの?とあの時君が俺に問いかけてくれたことで、時間が動き出したのだと思う。復讐して終わりなんて、人生はそんなに簡単なものじゃないでしょ、と名前は俺の決意を簡単に笑い飛ばして見せたのだ。
「今日の夜、何するか!」
「なんだよそれ、適当すぎるな」
「えー!だってアーサーあんまりご飯に興味無いし、何して時間潰すか〜みたいなこと考えそうなんだもん」
「仕方ないな、今夜は名前に遊んでもらうとするか」
それじゃあいつもと同じだよ、と彼女は笑った。名前はそもそもよく笑う人で、泣いているところも落ち込んでいるところもあまり見たことは無い。ただ一回だけ、戦いの後に彼女の姿が見えないことがあった。あの時は血眼になって探したっけ、と俺は名前 がくるくると回りながら服を揺らす様子を見ながら思い出していた。
かつての友人が敵として現れたらしいという話を聞いたが、俺には釈然としなかった。人には復讐の後の人生があると言っておいて、自分はそんなちっぽけなことであの笑顔を失うのか、と。腹が立っていたのかもしれないし、一言文句が言いたかったのかもしれない。だが、森の中で彼女の姿を見つけた時、俺の中にあった感情は全て抜け落ちた。
「でも、今夜はどこかへ出かけたいなぁ」
「どこへ行くつもりだ?」
「全然決めてない!アーサーと一緒なら、どこだってきっと楽しいから」
「それは俺のセリフだ」
ていうか、何考えてか教えてよ!と頬を膨らます名前に、俺は笑って誤魔化した。昔のことを思い出していると知られたら、過去は過去でしかないと説教されるのが目に見えているからだ。
それでも、思い出さずにはいられない。あの薄暗い森の湖に浮かんでいた君の姿を。
死への不安というよりも、あれは神秘的な光景だった。聖域に足を踏み入れたような感覚で、俺は息をするのも忘れてその場に立ちつくしていた。後から気がついたが、近くには彼女の服が脱ぎ捨てられていたし、武器も放置されていた。敵が奇襲してきたら、山賊が現れたらひとたまりもない状況だったのだが、幸運にもその場は静まり返っており、時折梟の鳴き声が響くだけだった。
パシャン、という水音で我に返ると俺の視線の先で名前 がこちらを見ていることが分かった。そしてその時に初めて彼女が何も身につけていないことに気が付き、焦って背中を向けたのだ。しかし彼女は何も口を開くことなく、再び湖に体を預けていた。
「私、バーハラに行きたいな」
「はぁ?突然何で…」
「アーサーの心に、まだ棲み着いてるみたいだから」
「……まったく、敵わないな名前には…。全部お見通しってか?」
全ての始まりであり元凶であるバーハラの悲劇を、忘れなくてもいいと名前は言った。だが、この悲しい思い出にいつまでも心を操られてしまうのは誰も望んでいないことだ、と。
バーハラの悲劇に心を操られるなど、考えもしなかった。自分はその場にはいなかったし、話でしか知らない出来事だ。しかし情景を思い浮かべて腹の底が熱くなる思いは今でもある。まさにこれが操られているということか、と俺は実感した。
あの時、何も言わずに俺の背中へそっと手を当ててきた名前 が何を考えていたのかは今でも分からない。冷えたその手からは何があったかは分からなかったし、聞くなと拒絶しているようにも思えた。だが彼女にとってあの時間は、苦しくて辛い過去を単なる記憶へ変換するために必要だったのだろうと検討をつけたし、これからも俺から聞くことはない。
「バーハラか…」
「セリス様が統治してるんだから、もう綺麗な国に戻ったんじゃないかなぁ?」
「そう…だろうな。あの人なら、きっと…」
「私ね、平和になった世界を回ってみたい。シアルフィにも行きたいし、レンスターにも、トラキアにも行きたい。アーサーは?」
必ずしも誰もが戦いのない世界を望んでいる訳ではなく、戦いを生業として生きている人間も少なくない。名前も以前は傭兵として世界を回っていたと耳にしたことがある。こんなにも平和を喜んでいる彼女が何故傭兵家業をしていたのかと考えたこともあるが、あいにく俺の中に答えは持ち合わせてはいなかった。
「正直なところ、行きたい気持ちと、行きたくない気持ちが半々だ」
「じゃあ行こうよ!その半分の気持ちは、私が誘ったら行きたくなるでしょ?」
「ははっ、強引だな。ま、一理あるかもしれないけど」
「私はね、この世界をもっと知りたい。全部自分の目で見てみたいの!」
ああ、だから彼女は眩しいのだと俺は直感でそう思った。知りたいという欲求に素直に生きているから、真っ直ぐで情熱があるから、俺はその熱に当てられて自分も同じ場所に立っているような感覚になる。
「…太陽みたいだ」
「ん?」
「あ、いや…何でもない」
「私のこと?ふふ、何言ってんの、アーサーだって十分輝いてるよ?」
アーサーがいなかったら私はこんなに元気でいられなかったかもしれないし、と悪戯に微笑む彼女を見て俺も釣られて笑った。シレジアの妖精とはまた少し違う、奔放な姿から目が離せないというのが正しい表現かもしれない。
あの時、俺が湖で名前を見つけなければ彼女はここにいないということだろうか。しかしそれを問うことは二度とない。彼女の過去の記憶は、全て美しいものに変わっていくのだ。聞いたところではぐらかされて、何も成果を得られないのが関の山だ。
「仕方ないな、俺がついて行ってやる」
「流石はフリージ家のアーサー様!お優しい!」
「名前にそう呼ばれる時は大体ろくなことが無いぞ?」
「あー!ひどい!傷ついた!」
吹聴しながら歩き出す彼女に、嘘吐くなよと俺は笑った。名前と共に旅をするようになってから、笑う時間が増えたと自分でも思う。それを伝えればきっと、アーサー自身が大きな壁を乗り越えたからじゃない?と俺のことを肯定するのだろう。
風に背中を押されて彼女の腕を掴むと、不思議そうにこちらを見上げる名前の瞳と視線が交わる。
「どうしたの?」
「いや…名前は捕まえておかないと、すぐにどっか行きそうだからな」
「行かないよ」
「…えっ?」
「私、ちゃんとアーサーのそばにいるよ。だから、大丈夫」
ね?と子どもをあやすように、背伸びして頭を撫でてくる彼女の背中にそっと腕を回した。ふわふわと掴めないなんていうのは、ただ俺にその勇気が無かっただけだ。捕まえた手をすり抜けていかれるのが怖くて、拒んでいたのは俺の方だった。
君には敵わない、と名前の肩に頭を預けると彼女は優しく俺の背中を叩いて、髪を梳いてみせた。その心地よい感触に目を閉じると、ここで寝ないでね?と早速鋭い声がかけられたので、俺はつい吹き出して2人で顔を見合わせて笑った。
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