※リグレ公爵家中心
穏やかな空模様が広がる昼下がり、空とは打って変わってリグレ公爵家は騒然としていた。無理もない、戦いに出ていたクレインとクラリーネが揃って戻ってきたのだ。彼らの両親が安堵で2人を抱きしめるのを、使用人達の中には涙を流して見守っていた。柔和な弓将軍の兄クレイン、お転婆な妹クラリーネのいない家はとても静かで、2人の帰還には皆が歓喜に湧いた。
やれお祝いだ、祝賀会だ、と使用人達が騒ぐ中でパントはクレインへ少し顔付きが変わったようだね、と微笑みながら声をかけた。
「そうでしょうか?」
「ああ、変わったよ。此処にいては見られない景色を見てきたのだろう?そして、決して会えない人々に会ってきた」
「はい。色々な国を回り、沢山の方に会うことが出来ました」
「今回の経験は間違いなくクレインの糧になる。この家を引き継ぐ時も、そう遅くはないかもしれないな」
目を見開くクレインに対し、冗談だと言ってとパントは笑った。戦争から帰って早々、まだ若い彼にこの家は荷が重いだろうということは承知の上だった。だが、かつて少年だった瞳には明らかに一筋の光が見える、とパントは家にいた頃の息子との違いをひと目で見破っていた。
それが何であるかはパントの知るところではなかったが、きっとこの家に新たな風を呼び込むものだろう、パントが確信を持って微笑んでみせると不思議そうにクレインは父を見つめた。
「父上…?」
「その変化は、誰かに由るもの…だろうか」
「そんなに変わりましたか?」
「うん。気が付かないのはきっと、周りも変わったからだろう。クラリーネも大きく成長したようだしね」
クレインは首を傾げつつ、様々な人に掛けられた声を思い出していた。ディーク、パーシバル、エルフィン、他にも様々な人から温かくも時に厳しい言葉を受け取った。それらが彼の背中を押し、強くしたのだと実感する。
「確かに、僕もクラリーネも沢山の方から助言をいただきました」
「彼らは大切にした方がいい。戦友というのはそう簡単に出来るものじゃないからね」
「父上にも、そう呼べる方がいらっしゃいますよね?マリナスさんから、20年前の戦いのことを少し伺いました」
「マリナスさんか!懐かしい名だ」
クレインは柔らかく微笑むパントを見上げた。父の背中はまだ程遠い。20年前の戦いで、父はエトルリア国王と話をつけて交渉を円滑に進め、世界を平和へ導いた第一人者の一人だ。それはエトルリアで知らぬ者はいないと言っても過言ではなく、魔道の探究をするために魔道軍将を退任した今でも当時の出来事に対して賞賛の声が上がるほどだ。
自分は何かこの戦いで成果を上げられただろうかと振り返ってみても目ざましいものは思い出せず、まだ父には遠く及ばない、とクレインは視線を足元に落とした。
「帰還の祝いの前に確認したいことがあるんだ。少し私の部屋へ来てくれ」
「確認…ですか?」
「ああ。運命というのはいつの時代も私たちを導くものだからね」
ただならぬ雰囲気だ、とクレインは歳を召した父を見上げて頷いた。エトルリア有数の公爵家に生まれ、かつて魔道軍将にも就いていた父。前の人竜戦役と呼ばれる大戦でも、公爵家としてベルン王家にも通じその力を発揮していたと聞く。クレインにとって、そんな大いなる父の存在は絶対的なものであった。
「疲れているところすまないね」
「いえ、構いません。此処に帰ってきたのですから…」
「そうだな。お前達にとって野営はさぞ辛かっただろう」
「そうですね。クラリーネは、特に…」
あの子も随分変わったようだね、としばらく戦いの最中に起きた出来事についての雑談が続いたが、ふとパントは表情を変えてクレインを見つめた。
エトルリア貴族であるリグレ公爵家も、長男が家を継ぐことに変わりはない。クラリーネには少々自由を効かせてやれるだろうが、クレインはそうもいかない。今後は嫌でもこの家を継ぐ者としての自覚を持ってもらうことになる。元より彼自身がそれを望んでいないとは思わないが。とパントは戦いを経て大人びた息子の神妙な表情を瞬きの奥にしまった。
「ところで父上、話とは…?」
「ああ、そうだったね。クレイン、心に決めた女性はいるのかい?」
「…えっ?」
「その様子だと、いるんだろう?」
「あ…い、いえ、その…いる…というより、ただ僕が…」
大人びたとはいえ、息子はまだ若い。話をした途端にしどろもどろな回答になるクレインを見てパントは目を細めた。戦いの間に出会った女性か、もしくは全く別の関わりを持った女性か。どちらにしてもクレインが心を寄せる人物がどんな人なのか、パントには知る権利があった。無論、相手が高貴な人物だろうとそうでなかろうと止めるつもりはなかったが。
「さて、どんな人なのかな」
「…気高く聡明な、エトルリアの方です」
「そうか…うん。では、見合いの話は断っておく」
「えっ!?」
それが目的ですかと問いかけるクレインをひらりと躱してパントはそれもあるけれどねと笑った。あまり付き合いのない家柄だったから元々どうかとは思っていたんだけれど、と彼は息子をじっと見つめた。
家柄が理由で断ろうとしたわけではないが、リグレ家に声をかけてきた経緯が分からなかったので不審に思っていたのだ。見合いの依頼の文を見たルイーズも同じように感じたらしく、不安そうな表情を浮かべていたのを思い出す。
「長旅で疲れただろうから、今日は存分に自室で疲れを取るんだよ。引き留めて悪かったね」
「いえ…。失礼します」
クレインはそっと当主の部屋の扉を閉めた。自分の家に帰ってきたのが不思議で、何年も離れていたかのように感じる。無事に帰って来られるとは思っていなかったからだろうか、彼は自分の両手を見つめて固く握りしめた。
こうして帰ってきたのだから会いに行かなければ、と母よりも薄い金色の髪が風に靡く様を思い出して静かに息を吐いた。
エトルリア貴族が集まる舞踏会で慣れない靴で躓いた彼女へ、クレインが手を差し伸べたことが全ての始まりだった。同年代ということもあり直ぐに打ち解けたが、彼女は深窓の令嬢。クレインは武官ということもあり、その後顔を合わせる機会は減っていった。
しかし、彼が弓軍将として戦地へ出発する時になって彼女は突然現れたのだった。
「クレイン、どうか気を付けて…」
「名前、どうして君が此処に……!」
「昨夜伺ったのです。貴方が西方に向かわれると…。私、それを聞いて居てもたってもいられなくて…」
「家の者が心配するだろうから、直ぐに戻った方が…」
「貴方を見送ったら帰ります。お咎めは甘んじて受けます…。ですから、どうか無事に帰ってきてください…」
名前はそう言ってクレインの手を取った。屋敷で大切に育てられた少女の手は弓を握る彼の手とは違い、細い指と白く滑らかな感触だった。
クレインの頭にはその手を離しがたいと思う感情が過ぎったが、それを振り切って部下を先導して西方に向かったのだった。
「君は今、どうしているだろうか」
僕が帰ってきたことを知らぬ君ではないだろう。君の臣下は優秀だからこの情報とて既に耳に入っていることに違いない。エトルリア本国の命に反旗を翻した上で国へ帰ってきたと知って、君は僕に幻滅しただろうか。それとも、ロイ率いるリキア同盟軍側に付いたことを正しい判断として迎えてくれるだろうか。
「名前……」
クレインは父の部屋を出た足で屋敷を出た。途中で使用人達には驚かれたが、父に見合いの話をされて身体を休める気持ちになど到底なれなかった。名前にも自分と同じようにこの手の話が舞い込んでいるに違いない。明日になって婚姻の儀が行われていたらと思うと胸が苦しくなる思いだ、とクレインは馬屋と足を進めた。
「クレインは一体どこへ?」
「さあ、何処かな。私も聞いていないんだ」
「あら…。ふふ、随分と思い切りましたね」
「慎重だったクレインも、この戦いで一皮剥けたということの証明かな」
「パント様に似てきたのではありませんか?」
ふふ、と笑うルイーズの肩を抱きながらパントは夕焼けの近い空に照らされて走る馬の姿を見つめた。
無事に帰還したクレインの姿を見た名前が屋敷を飛び出してくるまで、あと数刻。
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