※ニルスが門の向こう側へ戻った後、仲間の竜との会話。ニニアンはエレブ大陸に留まります。
君に伝えようと思っていたことがあったのに、いつの間にかそれが何であったのかも忘れてしまった。エレブ大陸で見て、感じたことは一生の宝だ。例えそれを後世に伝えられなくても、二度と会えなくても、僕にとってその記憶は宝物に違いなかった。
耳を澄ましても鉄がぶつかり合う音はしないし、風が吹いても血の匂いはしない。ただ、彼らが談笑する声も聞こえることはない。
すっかり絆されたな、とニルスは眩しい空に目を細めた。人間なんて嫌いなはずだったのに。期待なんかするべきじゃないと思っていたのに。最後の最後で優しい人たちに出会ってしまったから、姉の決断が少しだけ羨ましく思えるんだ。
仲間の気配を感じて目を開けると、何かあったのかと心配そうに顔を覗き込まれていたので、静かに首を振った。
「また昔のことを思い出しているの?」
「うん。彼らと過ごした時間は、僕にとって大切な思い出だからね」
「そうやって言っていると、また誰かが門を開いてしまうかもしれないよ」
「開けさせないよ。何のために僕が戻ってきたと思っているんだ」
エレブ大陸の人間は決して全員が優しいこともなく逆に冷たいこともないので、運が良ければ再び受け入れて貰えるかもしれない。だが、ニルスは自分の命が尽きるまでは門を絶対に開けないと心に誓っていた。
竜は異界のエレブ大陸では長くは生きられないし、人の命自体もそう長くは無い。次に門が開いた時、ニルスは自分の知らない世界が広がっていることを想像し、思考するのをやめた。自分たちを助けてくれたあの人たちが誰一人として残っていない世界に身を投じることは考えられない。
「ニルスが気に入った人間、どんな者か見たかったな」
「……」
「竜の姿を見ても怖がらない人間がいたなんて驚きだよ。何度聞いても嘘だと思ってしまうな」
「……不思議な人だった。僕たちの姿を見て、穏やかな表情を浮かべていたんだ」
綺麗だね、と見上げる瞳が優しかったことをニルスは思い出していた。エレブ大陸に存在し得ない竜を綺麗だと思えるその心こそが美しいのではないかとニルスは思ったが、口には出さなかった。感嘆でもない、興奮でもない、ただ美しい景色を見た時を共有するかのように、ぽつりと口から盛れ出したような声がはっきりと耳に届いた。
「ニルスももう少し向こうに残っていれば良かったのに」
「僕は、ニニアンみたいに物好きじゃないから」
「そうやって自分へ言い聞かせるのは終わりでいいんじゃない?また行きたいって言ったとしても罪にはならないさ」
「……違うよ、もう…行きたくないんだ」
もしあの場所に君がいなかったら。
気が変わったら来てくれてもいいよ、と言ってくれた場所に、誰もいなかったら。
仮に門が開いたとして、再び会える保証などどこにもない。人との時間の流れはそれほどまでに異なることを理解して覚悟をしていても、簡単に受け入れられるとは到底思えない。
何よりもあの場所に君がいないことが、きっと僕には耐えられない。
「言ってることと、考えていることが真逆のように思えるけれど」
「人は儚い存在だよ。僕たちとは違う。君も分かっているだろう?」
「ここにいる人間と交流をすることはないし、知ってると言っても言い伝えみたいなものだよ。こちら側の人間こそ関わろうとしない」
「それは確かにそうだね。でも…」
ニルスはニルスのままでいいんじゃない?ニニアンとも昔の竜とも違う存在なんだし、無理に繕うことないよ。何が正しくて何が間違ってるかなんて周りが決めることじゃない。ニルスが実際に感じて、思ったことが自分にとっての真実だよ。それが正解かなんて、誰も測れない。
君の言葉はいつも真っ直ぐで嘘がなくて、いつだって僕を励ましてくれたのに、果たして僕は何か返せただろうか。
「愚かな人も温かい人もいる。人間も竜と変わらなかった」
「考え方が変わったんだね、ニルス。昔ならそんなことは言わなかった」
「そうだね、少しは自分の気持ちに正直になれるようになったよ」
「気に入った人間のおかげで?」
いたずらな瞳を煌めかせてその人間の名前は?と聞いてくる仲間に、秘密だよとニルスは笑みを返して天を仰いだ。雲の流れが早く、遠い空で強い風が吹いているのが分かる。
ニルス、知ってる?雲の流れが早い時は、じきに雨が降るんだって。祖母に教えてもらったの。
本当に当たるんだよ、と楽しげな君の表情が脳裏へ浮かぶ。あの時はたしかに雨が降ってきて、ニニアンにもそれを伝えたんだっけ、とニルスは自分も名前と似た表情をしていた気がするなと当時のことを思い返す。
「もうじき雨が降るよ」
「こんなに晴れているのに、おかしいな」
「うん。これは当たるから見ておいて」
君からは貰うものばかりだったのに、嫌な顔一つしなかったし、いつも側にいてくれたような気がする。ニニアンのことで悩んでいる時も、今後の自分の身の振り方を考える時も、決して導くことはせず、僕の意思を重んじてそっと背中を支えてくれた。
雨といえば、と仲間が目を細めたのでニルスがそちらに顔を向けると、遠くから風に乗って雨の匂いが漂い始めた。
「私たちにとっては恵みの雨で、龍神様がもたらす幸運だとされているけれど、人間は違うの?」
「……あ!!!」
「驚いた、大きな声を出さないでくれよ」
「ごめん、ちょっと思い出したことがあって」
君は、大事な時にはいつも雨が降ると僕に不満を漏らしていたことがあったね。それを語る君は少し寂しそうな顔をしていたから、雨は幸運の印だと伝えられただろうか。決して不幸の前兆などではなく、寧ろその逆なのだと。
伝え忘れた気がしたのはきっとこのことだとニルスは記憶を辿ったが、しっかり伝えられたかどうかは定かではなく、情けない気持ちに駆られた。
龍神様がついているのなら、君はきっと大丈夫。僕が幸せを願わなくとも、きっと…
「ニルスが出会ったというその人間、私も会ってみたかったな」
「えっ?どうして?」
「さぞ不思議な存在なんだろうと思ってね。君の考えを変えるなんて。それに…」
「それに、何?」
君がニニアン以外の誰かに固執するのを初めて見た気がするから、と当たり前のように言うので、ニルスはそれを軽く否定した。
エリウッドもヘクトルもリンも、たしかに良い人間だった。助けてもらったことへ感謝して、彼らと共に未来への道を拓きたい、そう思ったことは確かだった。だが、それ以上に個々への特別な思いはないというのが現実で、少なからず懐疑心を抱きながら接していたと言っても過言ではなかった。
だが名前へは彼らとは一線を画しており、ニルスも自分自身で彼女のことを信頼していたと感じざるを得なかった。その理由が明確になることはなかったが、彼女に名前を呼ばれる時は不思議と心が穏やかになったことを思い出す。
「二度と会えなくても、絶対に忘れない。全てを伝えるために戻って来たんだから…」
「伝わっているよ、少なくとも私たちにはね」
「うん…そうかな。ありがとう」
「ニルスがさっき言った通り、雨が降りそうだ。戻ろう」
人間が言うことも信じられるんだなぁと他人事のように呟く仲間の声に嫌悪感がないことに、ニルスは満足して笑みを浮かべた。龍神様の祝福の雨粒がぽとりと彼の頬を濡らす。
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