深い森の中でその女性の姿はまるで幻のようにおぼろげな光を放っているように見えた。実際は月明かりと霧が相まってぼんやりしているだけだが、近付いて自分の存在を知られれば消えてしまうような、彼の目には妖精のような儚い存在に映った。
いつか本当に目の前から姿を消してしまうのではないか、そんな不安を抱きながら、息を殺して彼女の方へと距離を縮める。
彼女は特段何をしているわけでもなく、ただ森の中にある開けた場所で立ち尽くしていた。
「名前……」
無意識に彼女の名を呟いており、その声に気付いた彼女はこちらを振り向いた。ふわりと微笑んだその表情は儚く、悲しみと切なさを湛えていた。戦いの惨状を憂えるようなその瞳に映る俺は、一体どんな顔をしているのだろうか。
「ヒース…」
「どうしたんだ、こんなところで」
歩みを進めるとゆっくりと彼女は瞬きをして話し始めた。崩れていく世界を止める術、人の欲で散らばる人の心を一つにする術が、分からないと。
俺にはその言葉の真意が分からなかった。確かにこの世界は人の欲望にまみれており、彼女の言うことの意味は分かる。しかし何故、その解決策を彼女が?
「いつか、平和になった時と、貴方は昔、私にそう言った…。それがいつなのか、私には分からない。こんなに息苦しい世界を平和と呼ぶのなら、」
私は平和は望まないわ、彼女はそう言った。一口に平和と言っても様々だ。表立った大きな戦乱がないから、とはいえ国々の間では水面下で戦いが繰り広げられている。
片や、一国家の国民が穏やかに暮らせているから平和と言えるのか。他国で戦争が起きていてもそれが世界の平和だと言えるのか。自身の家族が失われて収まった戦争の後は平和と呼ぶのだろうか。
「名前、俺は…」
「いいの、貴方に答えを求めている訳ではないから…」
「いや、聞いてくれ。俺にとっての平和は、名前とこうして語り合える日々が続くことだ。これからどんな未来がやってきたとしても、俺はそれを平和と呼びたい」
俺の回答が予想外だったのか、彼女は驚いてみせた。勿論、偽善的な答えが聞きたかったのではなかったのだが、俺が生ぬるい平和を自身の答えとして語るとは思いもしなかったのだろう。しかし、自分の答えはこれ以外に思いつかなかった。各地で巻き起こる争いが無くなることは、恐らく永遠に無い。人間が欲深いいきものであることはよく分かっているつもりだった。俺とて一度は自分の意思で祖国を捨てた身。隊長の行動がきっかけではあったが、結局は自分の意思で、エリウッド達とは戦いたくないという欲を優先した結果だ。名前は暫しヒースを見つめ、ゆっくりと瞬きをして、ありがとうと一言返した。
「俺らしくないだろうか」
「ええ…驚いたわ、貴方がそんなことを言うなんて。でも、本当に嬉しかった。側にいてくれてありがとう」
「いつの間にか、平和と認定することが難しくなったんじゃないか?」
「…そうかもしれない。今でも、分からない。束の間に感じた平和がこの手をすり抜けて、また無くなってしまうんじゃないかって。また戦乱の世が始まってしまうんじゃないかって…そう思うの」
不明瞭な未来を案じることなんてないと言えたら良かったが、俺とて未来に不安を覚えていないわけではない。いつかまた戦いに身を投じることだってあるかもしれない。彼女を守れないことだって、あるかもしれない。失われた命が戻らないことだって、知っているはずなのに。その時に一緒に居られないことが、有り得るかもしれない。
それでも、そんな可能性は胸の奥底にしまって、笑ってほしい。それが何よりも俺が一番に願うことだった。
「すまない、さっき言った平和は撤回する」
「どうして?」
「君と話しているだけで満足するのは、俺だけだ。君が笑ってくれないと、意味が無い」
「変なことを言うのね」
「君には笑顔が似合う。そういう寂しい笑顔じゃない、心が満ち足りた時に見せてくれる笑顔だ」
名前、君が笑ってくれるなら、何処へだって行ける。世界が1つにならなくたって、争いが無くならないとしたって、君に笑っていてほしい。だからこそ、俺もまだ戦わなければいけないのだろう。
「悲しみを、君にだけに背負わせはしない」
「ヒースは優しすぎるわ。それじゃあ私より先に貴方が苦しくて立ち止まってしまうでしょう?」
「そうならないように、強くなったつもりだったんだが…まだ頼りないか?」
「そんなこと…。あなたが頼りないなんて、思ったことない。いつも私の側にいてくれて…私と共にあることを願ってくれる…。私はそれで、貴方に何を返せるわけでもないのに…」
見返りなんて求めていない。ただ君と同じ時間を過ごしていきたいだけだ。それは俺の願望で、希望で。君は君の道を進んでくれればいい。その先の障壁は、俺ができる限り排除していくつもりだから。
だがこれを伝えたら、また苦い顔をするのだろう。俺が進みたい道を自分の存在が阻んでいると、君は言うだろう。
「名前。俺は君を離してやるつもりはない。君が何を思おうと、願おうと、勝手に側にいるだけだ。俺がそう主張すれば、それが真実になるだろう?」
「ふふ…貴方らしくないほど、強情ね」
「やっと笑ってくれた」
「だって、普段そんなこと言わないもの」
風に首輪は着けられない。ふわりとすり抜けてしまえば最後、その風を捕まえることなど出来はしない。名前はそんな存在ではあるが、れっきとした人間だ。この光を見失わないように、無くすことなどないように、俺は手を伸ばしてその存在に触れた。
血の通った温かい手の感触が伝わってくる。消えさせなどしない、君が笑ってくれる日を共に迎えるまでは。
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