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政略結婚だったのだろうかと孤独な獅子王の背中を見て感じることがあっても、私が彼の隣に立つことは許されない。
彼の美しい濁りのない瞳に映しているのは誰なのだろう。やはりグラーニェ様なのか、それともラケシス様なのか、それとも他の誰か?どんなに考えても答えは出ない。当たり前だ。どんなに親しい間柄だとしても他人の心の中まで理解することは容易ではない。ましてや私が彼のことを理解するなど、失礼極まりないことだ。
ノディオンの冬空のキンと澄み渡り、深呼吸をすると名前は肺に冷たい空気が流れてくるのを感じる。
「はぁ…」
「なんだ?大きなため息を吐いて」
「…エルトシャン様……」
「何かあったのか?」
何も無いという意思を示すためふるふると首を横に振ったものの、どうも信用されていないと名前は感じた。真意を探るような視線を向けてくる双眸から逃れるように空を見上げる。
彼のことだから、このため息の真意に検討をつけて話しかけて来ただろうに、本人に聞くなんてどこまでもあざとい人だと彼女は静かに息を吐いた。
「名前。俺は…これで正しかったのだろうか。お前を傷つけてまでここに置いて…」
グラーニェが身篭ったことは既にアグストリアから全土に広がり、地方からも祝いの品が届くようになった。ノディオン王妃の彼女の懐妊は名前たち兵士にとっても喜ぶべきことであった。だが勿論のこと彼女がそれを心から祝えるはずもなく、蟠りを胸の内にしまって日頃の業務に励んでいた。
彼の言う、名前を傷つけたことが何に当たるのか彼女には検討もつかず、ぽかんとしているとエルトシャンはすまない、と謝罪の言葉を吐いた。
「どうしてエルトシャン様が謝られるのですか?私は此処へ来てから何不自由なく生活出来ています。それは紛れもなく…」
「違う!そうではない!俺は…お前と交わした約束を守れなかった」
「…あんなに昔のことを…まだ覚えて下さっていたなんて……それだけで十分です」
それは昔名前が貴族であった頃、エルトシャンは彼女を幸せにすると宣言したのだ。たとえ叶わないと分かっていても彼女にとっては宝物のような言葉だったのだ。それをまさか彼自身も覚えているとは思わず、名前は驚きつつも嬉しさを滲ませた。
「十分であるはずがない。俺はお前のことを裏切ったも同然だ。俺を責める権利もある」
「責めるだなんて…。そんなことをしたくて…、生半可な気持ちで此処に身を置いているのではありませんし、未だに幼い頃の口約束を夢見ているわけでもありません。ただ、私にとって貴方は……」
吐き出すように気持ちを話していた名前は突然言葉を詰まらせた。エルトシャンはその続きがききたくなかった。否、聞きたい思いはあったが聞くのが怖かった。それが真実であった。彼にとっても、彼女にとっても。
しかし現実はそうもいかない。夢物語はあくまでも幻想で、叶うことなどないのだ。
エルトシャンは口を閉ざして俯く名前の顔に指を伸ばし、顔を上げさせた。
「何も言うな、言わないでくれ」
「エルトシャ…」
懇願するような瞳で語りかけ、彼は名前の柔らかい唇へと口付けた。エルトシャンは彼女を愛していた。幼い頃の約束をずっと心に秘めながら彼女を想い続けていた。しかし現実は彼らを結ばせてはくれなかった。名前の家が崩壊し、以前通りの付き合い方が出来なくなり、二人の間には埋められないのほど深い溝が出来てしまった。
「っ……んっ……」
口付けは段々と深くなり、息苦しくなった名前の手がエルトシャンの胸元へと伸ばされる。僅かな抵抗をするも、その腕ごと彼に包み込まれてしまう。
酸素が薄くなりぼうっとする頭で、名前は昔のことを思い出した。
エルトシャンが名前の手を引いてくれたこと。君を幸せにするからいつかアグストリアに来てくれと言われたこと。シグルドとキュアンに気付かれぬよう二人で逢瀬を重ねたこと。
「はぁ…っ……」
「名前……」
「どうして……貴方は……!」
「ずるいのは、名前も同じだ。俺にとってお前は変わらない存在…。昔も、今も…」
泣きそうな瞳が名前の姿を映していた。叶わない夢と分かっていても、彼は彼女のことを忘れられなかった。どんな形でも側にいて欲しかったから、こうしてノディオンへ呼んだのだ。
「いつか私達が生まれ変わることがあれば…その時はきっと……」
「ああ……その時は必ず俺の隣にいてくれ…名前……」
くだらない妄想だと他人に笑われても構わない。もしも生まれ変わった時、貴方のことを忘れていても、きっとまた貴方を好きになる。その時は死ぬまで貴方の隣にいたい。だからそんなに悲しまないで、私の愛するエルトシャン。
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