待てよ、と掴まれた腕へ咄嗟に力が入るのを感じた。衣服の上からでもわかる温かい手のひらの感触ごときが振り解けない理由には到底なり得ない。これは自分の意思の弱さゆえだ、と名前はゆっくり瞼を閉じて観念したかのように腕の力を弱めた。するとそれを感じたからか掴まれた腕がぐいと強く引っ張られ、彼女の体は後ろへと倒れ込みそうになった。

「わっ…!」
「おっと、悪い悪い。お前がまた逃げるんじゃないかと思ってさ」
「もう…逃げないよ」
「本当か?」

うん、と名前は彼の紫色の髪を見つめた。倒れかけた体は丁度ヒュウの胸で受け止められ、彼女がきゅっと瞑った目を開くと、その景色は彼の色で溢れていた。
濃い紫色が太陽の光に当てられてきらりと光る様子が、まるで宝石のようだと名前はその色を見つめながら思った。

「なあ、名前」
「何?」
「どこに行こうとしてたんだ?」

ヒュウの問いに名前は口を噤んだ。後にベルン動乱と呼ばれるこの大戦が終わり、二人は明確に行く宛もなく各地を旅していたのだが、時折名前はふらりと居なくなりそうな素振りを見せるのだ。ヒュウはそんな彼女にだんだん不信感を抱くようになっていたが、今まで共に過ごしてきてこんなことは初めてで、彼は戸惑っていた。
彼女がどこへ向かおうとしているのか、なぜ一人で行こうとするのか、なぜ何も話してくれないのか。
思えば名前のことを何も知らないに等しい、とヒュウは彼女の双眸を見つめた。

「俺には言えないことか?」
「そう…じゃ、ない……けど…」
「けど、何だよ」

名前はヒュウの視線から逃れるように青い空を見上げた。体には彼の腕がしっかりと巻き付けられ、逃げることは到底敵わない。言葉を濁すのには明確な訳があったが、彼女はそれを話すのに抵抗を感じていた。名前が行おうとしていることは決して褒められたものではなく、正義感の強い彼ならば全力で自分を引き留めかねない。

「ううん、やっぱり…何でもない!」
「何だよそりゃ。話そうとしてたじゃねぇか」
「うん…でも、いいの」
「俺が良くないんだよ」

えっ、と名前がヒュウへと視線を戻すと、いつになく真剣な眼差しの彼が視界に入った。この人はいつだって真っ直ぐだ、と彼女は思った。出会った時から嘘が下手で、祖母に弱くて、子どもたちとも対等に話せるほど優しくて。こんな彼だからこそ、私も優しくなれたのかもしれない、名前はその瞳を見つめ返した。

「わたしね、ヒュウに会えてよかったよ」
「え?」
「ありがとう、一緒に来てくれて」
「……ったく、ずるいぜ、名前は」

がしがしと頭を掻いてヒュウは困ったようにため息を吐いた。こんなことは自分だけが知っていれば良いのだ、彼が傷つくようなことはしたくない。名前は素直なヒュウの行動をじっと視界に入れていた。

「俺はまだまだ名前と一緒に行くからな。お前がどんだけ逃げても、また捕まえる。それだけだ」
「ヒュウ…?」
「だから、ここでお別れだなんて台詞は絶対言わせねぇ」

彼の瞳は真剣そのものだった。リキア同盟軍に参加すると言ったあの時よりずっと強い眼差しが名前の心へと突き刺さる。それがちくりと痛い、と彼女は感じた。
別れの言葉を告げることは簡単なことだ。どの局面でもそれの効力は強く、信念が強ければ強いほど相手に有無を言わさぬ力になる。だが、それに優しさは決してないことを名前は知っていた。だからこそ言わずにいようと決めてここまで来た。

「それは…言わないよ」
「嘘だな」
「な、なんで!?」
「お前のその顔は嘘つく時の顔だぜ。俺がどんだけ見てきたと思ってんだ」

彼とともに生きることが約束された世界だったらどんなに幸せだっただろうかと名前はヒュウの言葉を聞いて目頭が熱くなり、咄嗟に俯こうとしたがそれは彼の優しいキスによって阻まれた。