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風に吹かれて花々が揺れ、優しい香りにふわりと包まれる。そこはまるで楽園のように思えた。名前が目を閉じてその空間に浸っていると、がさがさと草を踏みしめる足音が背後から聞こえた。此処に来るのは一人しかいない、と彼女が振り向かずにいると案の定見知った声で名を呼ばれる。それすらも聞こえない振りをしていると、ため息を吐いて隣に腰掛けたのが分かった。
「ナーシェン」
「な、なんだよ!起きているならそう言え!」
「うふふ。驚いた?」
驚いたも何もないだろう!とナーシェンは明らかに不満を口にしてわざとらしく足を組んだが、特に怒っている様子はないと長年の勘が告げていた。そんな不機嫌な彼を横目に見ていると、なんだその目はと言いたげな視線が返ってくる。
こうして何もなくのんびりする日々は、今までに数える程しかなかった。いつもナーシェンは三竜将の仕事や立場に追われ、ベルン王宮や時には郊外まで足を運び忙しい毎日を送っていた。
「ねえ、ナーシェン」
「何だ?」
「平和って、素敵ね」
突然何を言い出すんだ、と彼は落ち着いた口調で返事をした。平和なんて望んでいなかった。彼が昇進していくのが自分のことのように嬉しくて、このまま彼の望む強国ベルンの一角を担う将軍になってほしい、と。だがそれは彼にとっては重圧で、知らず知らずのうちに彼を追い込んでいたのかもしれない、と名前は過去の自分を悔やんでいた。
「いいえ、ただそう思って…。地位も名誉も、何も気にしなくて良いでしょう?」
「それが平和だと言うのか、名前は」
「え?違う?」
「平和など、争いがあってこそ生まれるものだ。屈強な王や将軍が居てこそ、ベルンは初めて平和になると私は思っている」
やはり彼にとってベルン三竜将という肩書きは特別で、彼の存在意義であったのだろう、と名前は感じた。そしてそれが無くなってしまった今、彼が何を感じているか分からない彼女ではない。
隣に座るナーシェンの肩へ頭をもたれると、彼は驚きつつ彼女の頭を退けることはしなかった。
「ナーシェン、私は貴方が居ればそれでいいの。他には何もいらないわ」
「急になんだ?おかしな奴だな」
「ありがとう、私の隣に居てくれて。貴方を追い込んでしまったのは私だと言うのに」
貴方を応援することしか出来なかった私をどうか許して欲しい、と名前は心の中で呟いた。無論ナーシェンが地位に拘るのは決して彼女の為ではなかっただろうが、今となっては何を言い訳しても遅い。既に戦いは終結してしまったのだ。
2人は視線を合わせることなく遠くの空を眺めていた。ゆったりと風に乗って流れていく雲が、次第に遠くへと消えていく。
「今更そんなことを…。全て終わったんだよ」
「ええ、分かっているわ」
「それでも、私には変わらないことがある」
名前が頭を上げて彼の表情を窺うと、真っ直ぐな瞳で空を見つめるナーシェンの姿があった。
まるで昔に戻ったようだ、と彼女はそんな彼を見つめて切なげに微笑んだ。
「私が私であること。そして、名前。お前がそこに居ること」
「ナーシェン…」
「フン。置いていかないと散々言っただろう。さては…信じていなかったな?」
病魔に蝕まれていたあの日々。もはや体が苦しいことは無い。全て終わったのだ。あの戦乱の日々も、病気の日々も、彼の背中だけを見送る日々も、全て。
ナーシェンが隣にいる。
彼の隣で笑い合える。
「ふふ。そんなことないわ」
「嘘をつけ!」
あの世界から三竜将は消えた。ベルン動乱と言われた戦乱の最中に去った2人には、その結末を知る由もなかった。世界が平和になったのか、竜が再び支配する世に戻ったのか、彼女達にとって最早それはどうでもいいことだった。
ゆったりとした時間の中で過ごせるこの世界でやり直すのだ。
ふたりで、もう一度。
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