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走って、走って、手を伸ばしても、届かない。君の姿が飲み込まれていく。無限の闇に、真っ黒な闇に飲み込まれて輪郭がぼやけていく。振り返ることはない。ただ君は真っ直ぐ闇の沼へと進んでいく。待ってくれ、と叫ぼうにも声が出せない。
君の笑顔が、君の泣き顔が、君が俺の名を呼ぶ声が、脳裏に浮かんでは消える。まるで最期の別れかのように、全ての思い出が記憶の中から絞り出されるようだった。
「…はっ……また、あの夢か…」
彼は目を覚ました。それは良く見る悲しい夢だった。彼女と別れてから母国の復興につとめてその寂しさを忘れようと奮闘していたが、こうして時折見る夢のお陰で忘れることは出来なかった。
窓辺まで歩みを進めると、夜の紫色の空に朝焼けの橙色が滲んでいる。もう一度眠ろうとも、目が冴えてしまってそんな気にはなれなかった。
「名前……」
久しぶりに彼女の名を呼んだ、とヒースは思った。戦友と言うには深すぎて、恋人と呼ぶにはあまりにも儚い存在だ、いつも適した言葉が思い浮かばないと彼は苦笑した。
ベルンに戻ってからは彼に言い寄ってくる女性はいた。というより、縁談も幾つかあった。しかしヒースはそれを全て断っていた。どんな素晴らしい人と出会ったとしても、彼女の姿を重ねてしまえばすべてが物足りなくなってしまい、目の前の女性への思いよりも彼女を思い出す時間が増えてしまう。
意中の女性はどんな人なんだと同僚から聞かれても、答える事は叶わなかった。元黒い牙という肩書きは世間に簡単に受け入れられる情報でないことは彼も十分に理解していた。
それでも、彼女を求めてしまう。
さらりと金糸が肩から流れ落ち、その髪を憂えげな瞳で耳へとかける。顔を上げて視線が交われば、エトルリア人の美しい風貌をした彼女が微笑む。そんな何気ない時間すら彼にとっては大切な思い出として心にそっと仕舞われていた。
「君に会わなくなって、どのくらいの季節が巡っただろう。それなのに…俺の心は今でも君を忘れることが出来ないままだ」
ヒースは机の引き出しを開けて一つの指輪を取り出した。それは息を引き取る前のリーダス兄弟から彼女が受け取った物の一つ、彼らの両親の形見だという。まるでこの指輪に捕らわれているようだ、とヒースは思った。
指輪へそっと口付けて彼はまたそれを引き出しの中へと戻した。
気づけば陽が上り、そろそろ鍛錬の時間だと知らせている。彼は水を一口飲んで喉を潤した。そういえば起きてから何も口にしていなかった、と自嘲気味に笑った。彼女のことを思い出し始めるといつもこうだ。
扉を開けると朝の日差しが眩しかった。ここが闇の世界でないことを教えてくれる。彼は鍵を閉めて一歩踏み出した。
「ヒース」
それは聞き慣れた声だった。形の良い唇から発せられる自分の声はひどく特別なもののように思えて、彼はその声の主の方に振り向くのを躊躇った。
しかし、それは紛れもなく彼が望んでいた人物の来訪であった。季節が巡っても変わらない優しさを湛えた声は彼の心臓を刺激した。
心拍数の上がる心臓を脳が鼓舞し、固まる筋肉を動かす様に指示する。彼はゆっくりと声の主へと向いた。
変わらない優しい瞳が彼の姿を映していた。瞳の中の自分はどんなに情けない姿をしているだろうか、うまく表情を作れているだろうか、そんな愚問が湧いては消えた。
先ほど飲んだ水はどこへ行ったのやら、彼女の名前を呼ぼうにも喉がからからに乾いて声が出ない。
「ヒース、」
もう一度名を呼んだ名前を、彼は手を伸ばしてその中に閉じ込めた。そっと背中に回された腕と、彼の鼻腔を擽る懐かしい甘く優しい匂いが更に愛しさを募らせる。
互いの体温と心音が同調するのが分かる。彼女もまた心臓の動きが早い。ヒースはごくりと唾を飲み込んで喉を潤して彼女の名を呼んだ。
「名前」
少し掠れたヒースの吐息が首元にかかるのがくすぐったかったのか彼女は身じろぎして背中に回す腕の力を緩めた。二人の熱い視線が交わり、彼女の瞳にひどく甘い顔をしてにやけている自分が映った。
ずっと会いたかったとか、変わらないなとか、そんな陳腐な言葉は喉元で空気に変わった。
名前の手がヒースの頬へと伸びる。すらりと伸びた白い指に光るものが無いことに少しだけ心が穏やかになった。彼女のひんやりとした指が頬に触れると、その部分が熱くなった。ヒースは彼女の手を優しく取り、手の甲へと口付けた。甘すぎる匂いに頭がくらりとするのを瞬きで押さえつけて彼女の瞳に視線を合わせた。
「会いたかった、貴方に」
名前の薄紅色の唇が動き、彼に囁く。彼女の声もまた、先ほどよりも掠れているように思えた。大きな瞳が濡れているのは気の所為なのだろうか。そして此処でどのような言葉を返すのが適切なのか、彼には分からなかった。ただ目の前の女性への愛しさが募り、自分の瞳に熱が集まるのを感じた。
闇に呑み込まれたとしても、彼は彼女を愛していた。どんなに遠く離れたとしても気持ちは変わることが無く、むしろ彼女を想う心は誇張するように存在の大きさを知らしめた。
どんなに脳が忘れようと努力しても、心がそれを許さなかった。
「ありがとう…。俺もだ」
彼は一言、彼女に告げた。それは精一杯の感謝と、不器用な愛の言葉だった。彼女は優しい微笑みと抱擁でその言葉を受け取った。
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