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人生の岐路に立たされた時、どのような選択をするかでこの先に待っている結末が変わる。非現実的のようで、人はこの選択を日々行って生きているのだ。今日はどの髪飾りを付けようか、何を食べようか、些細なことが先へと通ずる選択になっていることに我々は気付かない。
彼女もまた、その岐路に立たされていた。そして、それは非常に大きな意味を持つ分かれ道であった。
海辺の砂浜を一人で歩く。
一人分の足跡がぽつりぽつりと砂に窪みを作り、やがて白波へと攫われて再びまっさらに戻っていく。彼女は後ろを振り返り、自分の進んできた道標が消えていくのを見届けた。
此処では太陽が顔を出し世界を照らしている。夕暮れでもそれは同じだ。赤い光に照らされた波間が反射し煌めいており、時折眩しくて目を瞑った。
白夜で過ごす日々は非常に充実しており、彼女の今後の糧となるような経験も多くあった。暗夜だけで生きてきた彼女にとって、光に満ち溢れた風景は常に神秘的で不思議な力を得られるような気がしていた。
そして何よりも、彼女にとって大きな存在となっていたのは。
―タクミ。
白夜王国の第二王子であった。
彼は暗夜王国にも、其処に生きる人間にも嫌悪感を顕にしていた。彼女に対してもそれは例外ではなく、出会った当初は冷たくあしらっていたものだ。しかし時間を重ねる度にその態度は変わっていった。
いつしか隣に肩を並べるようになり、顔を合わせるようになり、背中を託せる相手になっていた。
戦いの終わった今はどうだろう。彼女はぼんやりと波間を見つめた。
―もはや何の関係もなくなってしまった。王子様と、敵国の兵にすぎない。
ザザーンと押し寄せる波を見つめていると、それは靴に押し寄せた。一瞬で靴の中の湿度が上がるのは不快だったが、彼女は再び歩き出した。ずぶ、と緩い砂へと足を踏み出せば再び波が彼女の足を濡らした。
と思ったのは束の間で、すぐに波は引き、また押し寄せる。
―いっそこのまま、攫われてしまえばいい。私自身も、この想いも、全て無かったことになれば楽なのに。
夕暮れは少しずつ紫色に変わりつつあった。戦いの最中、彼は白夜王国の夕暮れを見せたい、と彼女の手を引いて丘へと導き、見せてくれたことがある。それはひどく特別な光のように思えたが、今は違う。煌めく光こそ同じかもしれないが、その輝きに込められた核は異なるように思える。
―いいえ、きっと私の心が汚れているからそう思うのね。この光は美しいままあの日と何も変わらない。変わってしまったのは、私。
彼女が頭上に広がる紫色を見上げると、向こうの空はさらに暗く、夜の帳が降りているようだった。まるで白夜王国が、暗夜王国に支配されるようにも思える。しかしその時間はあっという間に過ぎ、再び眩しい太陽が姿を現すと、この国は光に包まれる。光の連鎖はこの国にとって当たり前のこと。
濃くなる紫色に安心している自分に気づくと、心の底では暗夜王国が住みやすいと感じていることが分かる。過ごした時間を考えれば当たり前のことなのだが、少し寂しく感じてしまうのは、この国の風に当てられすぎたのだろうか。
「綺麗…」
夕陽がじわりじわりと地平線の向こうへと沈みゆく様を見ていた彼女から、ほろりと感嘆の言葉が漏れた。いつしか波間は彼女の足首ほどまで押し寄せていた。
「此処にいたのか。随分探したよ」
随分、という割には息も上がっておらず急いで来たような様子はない。いつから見られていたのだろうと思い名前が眉をひそめると、彼は彼女の腕を強く引いて波から引き上げさせた。
“大切なものは失ってから初めて気付くものだ”
と誰かが言った。しかし失ってしまっては遅いのだ、何もかも。人はそれを知りながら、結局現実に甘んじて時間を無意味に過ごしてしまう。
「タクミ……」
決して誤ってはならない分かれ道だということは、彼女が一番分かっていた。彼の後ろに広がる夜色の空に浮かぶ星達はヒソヒソと内緒話をしているかのように小さく輝いている。きっと太陽が完全に沈んでしまえばこの光は強くなるのだろう、名前はぼんやりと考えていた。
タクミの姿は沈みゆく光に照らされていた。表情は柔らかく、彼女のすべてを許すかのような優しさを湛えていた。
「答えは既に出ているはずなのに、どちらかを選ぶことを恐れている」
「何の話?」
彼女を照らす光は目の前にあった。
闇に閉じ込められていた世界から眩い光の世界へと誘ってくれた彼から離れるという選択をすることは出来なかった。たとえそれが、かつての主を捨てることになったとしても。
「それでも、私は後悔するのでしょう。一つを選べなかったことを」
「よく分からないけど、後悔するなら全部を守れる道を選んだら?どっちかなんて僕なら選ばないな。大事なものは全部守りたい。」
「…そう、ね。その道があるなら…」
「名前は諦めすぎだよ。もう少し欲張っても誰も咎めたりしない。それに、もし咎める人がいたら僕が何とかする」
太陽はとっくに沈んでいるはずなのに、タクミの表情は彼女の視界から消えることは無かった。それは彼自身が名前の光であるということを表しているのだろう。
「タクミはいつも私に夢を見せてくれるのね」
「なんだよそれ。僕の方こそ名前から色々なことを教えて貰って世界が広がったんだ。だから……」
「だから…何?」
「次は僕が名前の世界を広げてみせるよ。白夜とか、暗夜とか、そんなものに囚われない世界に」
彼女が抱えていた大きな選択肢は、彼の一言であっという間に白波へ消えていった。何一つ失うことのない、見違うことのない一本道が、そこにはあった。
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