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内部の淀んだ空気と違って外は爽やかな陽気だった。名前はうーんと伸びをして胸いっぱいに酸素を取り込み、ふぅと息を吐いた。息の詰まる生活は懲り懲りだとあんなに思っていたのに自ら飛び込んでしまった、と彼女は自分の選択に苦笑するしかなかった。小鳥達がさえずる木陰に一歩足を踏み入れると昔に戻ったように感じるが、それが単なる現実逃避であることも分かっていた。
だが、自分で選んだ道を後悔しているわけではない。名前は太陽に手を伸ばした。
「やっぱりここに居たか。なるほどのんびりしてるわけだ。逃げるなら、今しかないぜ?」
「逃げるつもりなら初めからもう少し遠くまで行くわ」
「ま、それもそうだな。二つ返事で同盟に来ることを決めた名前が逃げるわけないとは思ってたけどな」
「ふふ、逃げないわよ。行くところもないし。でも…もう少し、覚悟が必要だなって」
帝国を出てレスター諸侯同盟の元へ来ようと決めたのは、クロードの存在であった。彼がいたから、名前は祖国から離れ此処に身を置くことを決めたのだ。だが彼自身はどうやらそうでないらしい、というのをリーガン家を中心とした小さな規模の会合で小耳に挟んだのが、つい先程の話。フォドラを超えた規模の話になりつつある、と彼女はクロードに隠された秘密を察知してその会合から抜け出してこの場所にやってきた。
この場所はデアドラのリーガン家の領地で中央部にありながら閑静な雰囲気のある、名前のお気に入りの場所だった。
「覚悟、か…。それは、時間があれば何とかなるもんか?それとも、俺が話したら変わるか?」
「うーん…」
「それなら、独り言だと思っててくれ」
クロードは名前の隣に腰を下ろして、呟くように静かに身の上を語り始めた。パルミラ人でもある彼は、もう既に自分の道を決めた、とでも言うような雰囲気を漂わせておりそんな彼の横顔を、名前は見つめていた。
いつだってそうだ、飄々として自分だけ先を見ているような、置いていかれているような感覚。
「そんな時母さんは…って、おい、名前。何不貞腐れてんだよ、どうした?」
「…不貞腐れてなんかない」
「それがまさに不貞腐れてるって言うんだよ。なんだ?俺がフォドラだけじゃなく、パルミラの未来まで見据えて動いてたってのが不服か?」
「そうじゃないの、ただ…」
名前は口を噤んだ。まるで子どものようではないか。クロードに置いていかれるのでは、愛想を尽かされるのではないかと怯えている自分が恥ずかしく、名前は顔を伏せた。王の器のクロードとは大違いだ、と。
そんな彼女の心を読んでか、クロードはその頭を優しく撫でた。彼は彼なりに名前の手を引いて来たつもりだったが、まだ足りないらしいというのが彼の見解だった。どうも彼女の扱いに慣れない、というよりクロード自身も名前の心は掴みきれていないのだ。読心術に長けたクロードでも、帝国貴族生まれで平民育ちの名前の心情は難しく、人知れず苦労していた。
「ごめんなさい、クロード…私…」
「いいって、謝るなよ。俺も悪かった。名前に何も言わないままここまで連れてきちまったからな。後戻り出来なくしたのは俺の方だ」
「違うの、私…ただ、貴方に愛想を尽かされたくなくて…」
「…は?愛想?」
顔を上げてクロードと目を合わせると、彼は一瞬キョトンとしたと思えば、ぷっと吹き出して声を上げて笑い始めた。何事かと名前が目を丸くして声を抑えるように慌て始めると、悪い悪い、と彼は笑いを堪えて深呼吸していた。
まさか愛想を尽かされると思ってるなんて、名前にはお手上げだ、とクロードは彼女をそっと抱き締めて背中を撫でた。
「クロード?」
「はー、いやいやお前がそんなこと思ってるとはな。愛想尽かすなんてこと、あるわけないだろう?好まない女をここまで側に置いておくほど物好きじゃないぜ、俺は」
「え…?だって私、会合まで抜け出して…。貴方の隣にいるには相応しくない行動をして…」
「なんだ、そんなこと気にしてたのか。ま、大丈夫だろ。そのうちナデルが俺らを呼び戻しに来るさ」
それよりも俺は、とクロードは名前の髪を梳くように指に絡ませた。彼女は不思議な人間で、彼を持ってしても何を考えているのか当てるのが難しく、クロードはそんな名前だからこそこうして惹かれたのだ、と彼女の心の内の想いを嬉しく感じていた。
だが、一方の名前が彼の腕の中で納得のいかない表情をしていることに勘づき、クロードはその頬に触れた。
「どうしたよ、その顔は」
「此処は、どうするの?見捨てるの?」
「ああ…そういうことか、お前のその表情は…。それなら案ずることはない。俺に出来る限り全部手を回していくさ。此処を出るのはその後だ」
「じきに帝国が攻めてくるわ。こうしていられるのだって…!」
帝国が軍旗を掲げて同盟領に侵攻してくるという可能性は高く、クロードも同じように考えていた。だからこそこの会合なのだ。主役の消えた現場で何が話し合われているのかは想像に難くないが、とクロードは苦笑しつつ、焦りをも見せ始めた名前を腕から離し、その肩を軽く叩いた。
レスター諸侯同盟は、俺が守る。と。
「どういう…こと?」
「言葉のままさ。俺が守る。上手くやりさえすれば、大きな損失はないだろう。王国の前に此処を落とすつもりなら、さほど長居も無駄な戦闘もしないはずだ。エーデルガルトなら、デアドラを落として他の諸侯が従えば、此処での戦いは終結したも同然だと感じるだろうしな」
「貴方、デアドラを…!?」
「いずれにしても、俺は戦場に出るしかない。あの女王陛下が納得すると思うか?そうでなきゃ、同盟領の全土が滅ぼされかねないだろ。俺だって無駄な戦いはしたくない。デアドラの被害だけで収まるなら、な」
首都デアドラを差し出して戦いを止める、と言うクロードの言葉に耳を疑う名前であったが、彼の言葉の裏にに捨て駒というような意味は感じられなかったので湧き上がる気持ちを抑えた。首都での戦いがもし負けた場合もクロードの中には想定としてあるようで、負け戦も覚悟しているのでは、と彼女は危惧した。
「無論、俺も負けるつもりはないさ。でも、万が一ってこともあるだろ?名前はその時のために、後方に控えていてほしいんだ」
「後ろに?何故?」
「俺のため、だよ。陛下の鋭い腹心のことだ、俺がパルミラ王になることだって嗅ぎつけてるに違いない。それを上手く使って、生き延びるため…。お前が居れば、冷徹なエーデルガルトも多少は手出ししづらいはずだ」
名前は淡々と魔法を振るうヒューベルトの表情を思い浮かべた。確かに彼であれば、躊躇なく我々を殺しにかかるだろう。だが先生とエーデルガルトであれば、そして自分がその場に居れば、もしかたら救いの手立てはあるかもしれない。いや、違う、と名前は深く息を吐いた。
「私が貴方を救けるわ。必ず、救けるから」
「ああ、頼む、名前。俺にはお前の力が必要だ」
強い希望と、強い光。
遠くからナデルが目を細めて2人を見つめていた。
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