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部活に行くのは憂鬱だったが、研磨には一つだけ密かな楽しみがあった。彼女の家で洗濯されたことで、自分の制服からほのかに彼女の匂いがするのだ。今朝もジャージを着た時に思ったのだ、自分の匂いではなく彼女の家の匂いがすると。部活が終わって制服に着替える時、もしかしたら彼女の匂いに包まれるのではないか。だが心配なのはあの部室に置いておくとあの臭いに飲まれるのではないかということだった。研磨はそれを阻止するべく体育館にリュックを持ち込むと当たり前に何事かと黒尾に聞かれたが、もちろん話せるわけもなくちょっと色々と誤魔化して端にそれを置いて部活に参加した。

黒尾はどちらかと言えば変態な方だと思うが、あれが通常の高校生の性への興味なのだとしたら、自分は相当興味が無いのだろうと研磨は感じていた。だが彼女の家の匂いを守るために荷物を部室に置かないところを考えると、自分も大概ではないかと静かにため息を吐いた。

「研磨、昨日お泊まりどうだったんだ?」
「げ」
「げってなんだよ。そりゃ聞くだろ」
「まあ…普通」

普通ってお前なぁと呆れた顔の黒尾を他所に、研磨は早く朝練が終わらないものかとちらりと時計に視線をやる。まだあと30分位といったところだろうか、ため息を吐きたいのを我慢してTシャツの端で汗を拭うと、少しだけ今朝の匂いが残っているような気がして、彼は目を細めた。
お泊まりがどうだったかと聞かれて何て答えるのが正解なのかは分からない。だが、昨夜のことを思い返しても、風呂で盛りそうになったこと以外は普通だった。いつも通りセックスをして、寝て。特段黒尾に報告するようなことは無い、というのが研磨の見解だった。

「普通つっても、この前ほどの溌剌さはありませんけど、そこんとこどーなんですか研磨クン」
「…何?その遠回しな感じ」
「いや?昨日してねーのかなって」
「したけど」

したんかよ、とツッコミを入れる黒尾を面倒くさそうにあしらいつつ順番に回ってきたレシーブを上げた。思えば髪の毛からもなまえの匂いがしていたのだが、すっかり消えてしまった。彼女はなぜ学校が終わったあとまであんなにいい匂いがするのだろう、と不思議に感じつつ引き続き練習をこなしていると、ついにその時間にも終わりが訪れた。

本当はリュックを部室に持ち込みたくないが部室以外で着替えるわけにもいかず、研磨は1人静かにリュックを開ける。すると鼻腔を擽るのはいつもなまえから香る匂いそのもので、にやける顔を我慢しながら研磨はワイシャツに腕を通し、ベストを着た。

「なーんか怪しいんですケド」
「はぁ?何がだ?」
「あいつ昨日なまえん家に泊まったくせに普通すぎねぇか?飯食ったけど。みたいに言うんだぜ?」
「ちょっとクロ…夜久くんに変なこと言わないで」

なまえの匂いに包まれて幸せな気分なのに、それを台無しにされた気がして研磨は心底嫌そうに眉をひそめて部室を出た。彼女と一緒に住めばこの匂いが永遠に続くだろうか、一緒に住むためにはどうしたらいいだろうか、そもそもまだ彼女の父親には会っていないのでそこから始めなければならないだろうか、など様々なことを考えながら教室へ入って静かに自分の席に荷物を置いた。

溌剌じゃないと黒尾に言われたが、そもそもいつ溌剌としていたっけと記憶を辿る。お互いに気を遣ってすれ違っていたのを見かねた黒尾のおかげでそれが元に戻った時のことを思い出し、恐らくその時だろうと検討をつけた。
あれからなまえとは至って普通の付き合いをしていると自負しているし、間違った方向に進んではいないと研磨は考えていた。親にも会わせたし、公認されているし、無論自分は彼女の父に会っていないが、なまえにとって特別な存在でいられていると思える。だが、大人達は当人のいないところであれこれ噂を広げるものだ。決して若気の至りと言われたくはない、と研磨は1限目の授業の教科書を用意しながら思った。

なまえは特別だった。言動を想像できるようで、想像出来ない。元気だと思ったら不安定な要素を見せたり、か弱い女子に見えたと思えば自分よりハッキリと物を言ったり、なまえは色鮮やかだ、と研磨は感じていた。
翔陽も常に進化しているし面白いが、それとは全く違う、守りたい、側にいたいと思うこの感情の名前は、まさに。

「孤爪」
「…」
「おーい、孤爪」
「あ…はい」

先生に当てられるまでなまえの顔が浮かんで全く授業を聞いていなかった研磨は、板書を必死で目でなぞってどの設問なのか考えて答えを出し、何とか事なきを得た。彼女と会う時は苦手な科目の勉強を教えてもらいながら予習も済ませているので何とかなった。宿題もなまえが隣にいれば何となく手につくし、というかやらないと絶対に何もさせて貰えないので仕方なくやるのだが、それが初めて此処に来て役に立った。ノートの端に書かれたなまえの落書きを見て、研磨は少しだけ口角を上げた。

「お見事」
「一応予習してるから…」
「まじ!?」
「おいお前ら〜また当てるぞ〜」

後ろの席のクラスメイトが大きな声を出すので注意されたが、当てられたところで次は焦りもしない。だってこの先だってもうなまえに教えて貰った範囲内だ。研磨は当てたかったら当てていいよと言わんばかりの視線を教科担当へ向けたが、彼の名前が呼ばれることはなかった。

あと数ヶ月で彼女は大学生になるのに自分はまだ高校生であることを、研磨は少し歯痒く感じていた。彼女の目指す大学はもちろん共学で、今のように女子校ではないから周りには様々な男子が現れることになる。音駒に来た時のように囲まれることもあるかもしれない。そんな時も自分は絶対に側にいられない。それに仲の良い友人達も目指す学校が違うと聞いていた。信頼出来るあの2人もいないとなると、何かあった時にどうしたら良いのだろう、と研磨はたった1年の年の差を高い高い壁のように感じていた。

「んなの気にすんな。なまえのこと信用しとけ」
「信用はしてるけど、そうじゃなくて」
「だからこそ信用しとけって言ってんの。お前が心配するタマじゃないってこと」
「クロにそう言われるとムカつく…」
「はあ?相談してきたのお前だろーが」

そうなんだけど、とズズっと紙パックの飲み物を吸い込む研磨の様子を黒尾は横目に見て、まさか彼が恋煩いでここまで悩むなど予想もしていなかったと苦笑した。
遠回りな話し方だったが、要約すると大学生になるなまえと離れるのが不安ということだった。その不安を取り除くことは彼には出来なかったし、きっとなまえにも難しい。かと言ってなまえが他の男に靡くとも思えなかったので、兎に角信用しろと言うことに徹しているのだが、これくらいの気休め程度で研磨は納得しないことは分かっていた。

「ま、とりあえずなまえの親父さんに会えば少しは気分も違うんじゃねぇの?」
「それは…まあ、うん」
「何だよ、それはキンチョーしてヤダ、ってか?ワガママかよ」
「そこまで言ってないし、別に嫌なわけじゃない」

そう言って研磨は口を噤んだ。黒尾はその先の言葉を待っていたが想像に難くなく、大方人見知りな研磨のことだから彼女の父の信用を勝ち取れるか不安、といったところだろうと予想した。だが、次に研磨から出てきた言葉に彼は驚いて目を見開いたのであった。

「でも、なまえの彼氏は…おれだから」




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