その棘は深く、深層まで
>何もかもが気まぐれだった。あの時にとどめを刺さなかったことも、館に持ち帰ったことも、生かしたことも。狩り場として楽しんでいたはずの場所から人間を持ち帰るなど想像もしなかったが、今彼の目の前には一人の少女がいた。怪我を負っているせいか怯える様子はなく、ただ彼を見上げていた。
他の人間を殺した後は例外なく彼女にもその手を伸ばしたのだが、彼は何故か手を止めた。それは本当にただの気まぐれで、特に彼女も攻撃の意思はなく生かしておく理由もなかったはずだった。先程の攻撃が効いているのは間違いなく、喉元に伸ばした手を彼女は震える手で掴んだ。
「あ…あなたは……」
「何かね?ああ…これはパルウゥスと言うんだよ」
「パル…そう……可愛い…」
パルウゥスが少しだけ懐いたとか、彼女が見せる笑顔とか、そろそろ音楽が鳴りやむ時間だとか、色んな理由が考えられた。だが、よもや彼自身がGV出身の若い娘に興味を持つなどあまりに理解出来ず、自分の中の感情に名前を付けるために生かしたのだった。
「怪我を治さなくてはね。ああそうだ、使っていない奥の部屋を君にあげよう」
「あ…あの…レウウィス…大公……」
「気軽に呼んでくれて構わないよ。君の名前は?」
なまえ、と名乗った人間の彼女をレウウィスは部屋へと案内した。そこは押し入れのようでさほど広い場所ではなかったが人間の彼女にとっては十分な大きさで、椅子として設置されているものも横たわるのには最適だった。
怪我を負った肩から背中にかけてを庇うようにうつ伏せに横たわった。緊張のせいか館に来るまで感じなかった痛みが徐々に体へと広がり熱を持ってくる。動けずに目を閉じていると自分の上に誰かの影があるのが分かる。もし仮にレウウィス以外の鬼であれば殺されるのだろうとなまえは思った。
「おやおや、私が付けた傷が広がってしまったか」
「れ…レウウィス…大公…」
「フフ…相変わらずだな。鬼の世界に傷を治す薬はないから薬草を練るしか無い…か。なまえ。君はそこで暫く眠るといい」
ぬるま湯で惚けている人間に興味はなく、本気で鬼に立ち向かってくる人間が好みだった。なのに、何故無力な彼女を救おうとしているのか、それはレウウィス自身にも分からないことだった。一先ずパルウゥスに探させた薬草を潰して薬液を作り、いつの間にか眠っているなまえの背中へとそっと流すと傷に染みるのか呻いて目を開いた。
「薬草を擦った液だよ。痛むかな?」
「うっ…」
「聞きたいことは山ほどあるかもしれないが、また明日だ。お休み、なまえ」
小さい体には鬼とは違う血が流れ、違う感触がする。食べたことはあれど、こうして触れた記憶は殆どないに等しい。レウウィスはピクリと体を強ばらせるなまえの傷を撫でてから、彼女にふわりと毛布を掛けた。毛布といってもハギレのようなものだったが小さななまえには十分で、彼女はそれをきゅっと握りしめた。
何故自分が生かされているのか、何故こんな風に傷の手当をされているのかが分からない。GVでもさほど成績が良かった訳でもなく、おそらくGPに連れてこられたのもただの補充なのだろう。レウウィスは賢い鬼だと知っているから故に行動に謎が多すぎてなまえは震えた。
キィ、という音で重い瞼を持ち上げると大きな目でパルウゥスがなまえを覗き込んでいた。驚いて身動ぎしたことで傷の痛みがぶり返し、なまえはごろりと床に転げ落ちた。パルウゥスはそんな彼女を案じているのか、ちょいちょいと腕を突いてくるが、最早反抗する気にもならずじっとしていると、部屋に誰かが入ってくるのが分かる。鬼の館に連れてこられた以上、いつ死んでもおかしくはない。これきりか、と思って目を閉じると、起きているんだろうなまえとレウウィスの声で再びその世界を目に映した。
「パルウゥスが驚かせてしまったかな?まだ傷も癒えていないのだからしっかり寝ていないとね」
「レウウィス…さま…どうして私を…」
「ただの気まぐれだ」
「気まぐれ…」
「だが安心してくれ。今の私に君を殺すつもりは無いよ、なまえ。殺すつもりならここまで連れてきたりはしない」
そもそも人肉を食べるためにあの狩り場を作っているのだから、そこにいる人を食べずに連れてくる理由は無い。気まぐれという不明瞭な言葉だったが、なまえが納得するには十分だった。レウウィスによって持ち上げられた体は再びソファの上へと移動させられ、筆のようなもので薬液を塗られる。昨日よりは多少良くなっているかと呟くレウウィスになまえは何も言えず、ただその様子を見つめているパルウゥスを見ていた。可愛らしいその姿からは想像出来ないほどこの生き物も侮れない存在であることはGPに居れば分かることであった。
「パルウゥス…ごめんね、驚いちゃって…」
「一つ話しておこう、なまえ」
「はい…」
「私はこの館で君を監視してはいない。もし動けるようになった暁には、自由にしてくれ」
自由?となまえがレウウィスを見上げると、彼は膝を折ってずいっと顔を近付けてくるので彼女はパチクリと瞬きをして来る衝撃に備えたが、細長い指でそっと頬を撫でられるだけであった。まるで壊れ物を触るようなその動作に驚いて彼の姿を目で追うも、また来るねと言ってパルウゥスを肩に乗せて扉を閉められた。
動けるまで治療を続ける気だ、となまえは思った。傷は確かに多少良くなってきており、まだ痛むものの出血は少なくなったし痛みで眠りから目覚めることも無くなった。ルーカスなら逃げろと言うだろうか、とGPで出会った手負いの仲間を思い出す。あの人ならきっと生きる道を見い出せるのだろうが、私はそうじゃない。だってここはレウウィス大公の館だ。
「おかえりなさいレウウィスさま!」
「その足を使いこなしてきたようだね、なまえ。君もフードを被れば小さな鬼のようだ」
「やっと転ばずに歩けるようになったんです!レウウィスさまのお陰です!」
「ハハハ、気に入ってくれて何よりだよ。私のなまえ」
逃げることはとうに諦めた。最早レウウィスとの生活に何ら支障はなく、彼はなまえに全てを与えた。服は不思議なものをよく買ってくるし、それを着て見せると満足そうな顔をした。外へ出掛けられるように取り付け式の鬼の足も作ってくれたし、仮面は勿論のことだ。なまえも時折外へ出かけて鬼達と話して買い物をしてはレウウィスの館へと帰っていく。
口に合うかは分からなかったが食事の支度も時々していたし、家族と言っても過言ではないほど2人と1匹の生活はなまえにとって馴染み深いものになっていた。
「気にならないのかい?」
「何がですか?」
「私と暮らすこと、全てがだよ」
「うーん…もう全部吹っ切れた…気がします。レウウィスさまこそ、GPで狩らなくても私のことを殺そうと思えばいつでも殺せるのに…」
なまえとの食卓には人肉を並べない、というのがレウウィスの美学だった。家に帰っておかえりなさいと迎える無邪気な笑顔が、歩けるようになったと自作の足でくるりと回って見せるなまえが、どんなに彼の心を動かしたのか彼自身も気がついていなかった。だが彼になまえを殺すという選択肢はなく、日々成長する彼女が面白くて興味深くて仕方ないというのが本心であった。
「フフ、なまえは面白いね」
「それを言うならレウウィスさまも最近とても楽しそうですよ」
「分かるかい?久々にGPで楽しい狩りが出来そうなんだ」
「ああ、もしかしてこの前街の子が言ってた、GFから脱走したっていう…」
何とも言い難い表情をしたなまえに、すまないねと軽く謝罪をしてレウウィスは長い指で彼女の髪を撫でた。GPにいる子どもたちと、此処にいる彼女と何が違うかと問われても答えは出ない。ただ、彼女は特別なのだとレウウィスは感じた。
「随分と髪が伸びたね、なまえ」
「あ……そういえば…。しばらく切ってなかったかも…」
「少し切ってあげようか」
「え!?レウウィスさまが!?」
こんな日常を過ごして数年経過した。GFから脱走したという話は直ぐに広まり、市民の間でもあっという間に有名な話となった。食用児として生きる生活は紛れもなく辛いもので、GVにいる時よりも圧倒的にGPに来た時の方が辛かった。だが、なまえにとってこの平穏はとても脆く苦しいものであった。誰も救えない、見ることも出来ない、会うことも出来ない。GVで幼かったあの子たちはどうなっただろう、追うようにGPに来たオリバーやぺぺ達はまだ生きているだろうか。レウウィスに確認すれば分かることかもしれないが、それは出来ない。否、してはいけないとなまえは固く心に誓っていた。
「ああ、そうだ……なまえ。良いことを教えてあげよう」
「何…でしょうか?」
「君の後に来た彼、まだ生きているよ」
「え!?オリバーが!?」
姿は見ていないけど、未だ死体も見ていないから確実に生きているだろうとレウウィスはなまえの髪を切りながら語った。さらさらと指の間を流れる髪を、彼は目を細めながらその質感を楽しんでいた。いつまでこの生活が続くのかは彼にも分かったことではない。成人の人間の女など、シスター以外にそう見るものでは無いので、それを見てみたいという願望、そして――
「さあ、終わったよ。なまえ」
「……」
「なまえ?ああ……眠ってしまったのか。可愛い子だ…私のなまえ……」
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