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>既に何度も解き直した過去問と共通試験のために解いた問題集が積み上がる机に向かう娘を父は優しい瞳で見つめていた。こちらに戻ってくるのだから、気にせず好きな学校を目指せばいいと言ったのだが、やはり彼女は国立大学に行くと言って聞かなかった。無論、高校のレベルから考えて国立大学に行くこと自体は不思議では無いのだが、無理にそうする必要は無いと父は考えていた。しかし彼女がそう言うのならば止めることは無い、と東京で2番目に偏差値の高い学校の名前を見て驚きながらも娘の背中を押した。
「休憩しないのか?」
「うん…もう少し」
「そういうところは私に似てしまったかな」
「何?」
音駒高校の試合はまもなくで、その翌週には彼女の試験が備えている。おそらく試合を見るために今のうちに一生懸命勉強しているのだろうと父は居間に飾られたカレンダーに目を移す。音駒!と書かれている日付は着々と近付いてきている。きっとあのプリン頭の青年も、懸命に部活に励んでいることだろうと想像を巡らせた。
有能なセッターの音駒高校が当たるのは、と調べると相手は高知県代表の清川高校だ。それを勝ち進んだ場合は…と辿っていくと兵庫の稲荷崎高校の名前を見つけた。関西に住んでいたなまえの父にとっては聞き馴染みのある名前で、稲荷崎といえば有名な双子のいる学校ではないかと思って画像を検索すると、自分と似たような髪型をしていることに驚いて持っていたスマホを落とした。
「それ、初めて見た時から思ってた」
「そうだったの?」
「うん。宮ツインズみたいだなって」
「はは、父さん、ずっと高校生と同じ髪型してたんだって暫くショック受けててね」
試合の前にどうしても会いたいと言って部活の後に時間を貰い、2人は他愛もない話をしながらなまえの家へと向かっていた。彼女の父は一時の滞在を経て再び大阪へと戻っており、家にはなまえ一人だというのはマンションを見上げた研磨にも分かった。目当ての部屋は暗く、電気が点っている様子はない。寒いのかなぁと部屋を開けた時の落胆感を想像して研磨は口をすぼませた。なまえは被ってきたニット帽をいるかと研磨に聞いたが、彼は首を振った。
「あ、あったかい…!」
「さっきまで居たから当たり前でしょ?」
「なまえのことだから暖房切ってるかと思って」
「研磨が寒いの苦手なの知っててそれやったら意地悪じゃん」
上着を脱いで部屋に入ると想像とは違ってとても暖かく、研磨はじんわりと自分の顔が温まっていくのを感じて目を細めた。なまえがニット帽を脱ぐと凄まじい静電気で彼女の髪の毛がふわりと舞い上がり、ふよふよと宙を漂っている。研磨はその様子を見て笑みを浮かべながら彼女に歩み寄ってその髪を撫でようとすると、パチッとその手を跳ね除ける様に電気が走った。
「うっ…」
「びっくりした、静電気か」
「なまえの髪が凄かったから触ろうとしたのに…」
「ねえ、そんなことでガッカリしないでよ」
改めて研磨がなまえの髪を撫でると、彼の手に髪がへばりついていく。彼女は制止したが研磨は笑みを浮かべながらそれを楽しんでいる。抑えようとしてもなかなか効かないのが静電気というもので、研磨は不満そうななまえに髪ゴムを渡されて致し方なく彼女の茶色い髪の毛を後ろに縛るとその首筋に唇を寄せた。
「な、何!?」
「無防備ななまえを縛っておこうかなって」
「そんなことしなくても大丈夫だってば…」
「あー…そういえば、おれの前では隙が多いんだっけ?」
なまえが振り返ると楽しげな視線を向けてくる研磨と目が合う。この楽しげな目の研磨には敵わないと彼女は覚悟して彼の背中に手を回す。お互いにコートを着ていた先程とは違い、薄くなった衣服で抱き合うとどうしても感触や体温が気になるが、研磨は特に気にしていないのか強くなまえを抱き締め返した。
「ねえなまえ」
「ん?」
「今夜泊まっていい?」
「この前買ったゲームはいいの?」
「あれなら発売日にクリアしたよ。そんなにやり込み要素なかったし、もう満足」
だから今日はなまえの番、と研磨は彼女の首筋に唇を寄せてその白い肌をぺろりと舐めた。甘い物が特別好きな訳では無いが、なまえには甘味が仕込まれているのかと思うほど甘い、と研磨は不思議に感じた。人間が甘いなど現実的ではない有り得ないことだが、彼女には実際にそう感じるのだ。嗅覚も味覚も狂ってしまったのだろうか、と研磨は鼻からなまえの匂いを吸い込んだ。
「ん、擽ったいよ研磨…」
「なまえ、今日香水つけてる?」
「え?つけてないけど…なんで?」
「なんでもない」
“初恋の香り”というフレーズが頭に浮かび研磨はほくそ笑んだ。クラスメイトの女子が騒いでいる流行りのアイドルに付きそうな謳い文句だと思った。なまえは紛れもなく初恋であり初めての恋人であり、他の女性など知らないし知る余地もないので、初恋の香りを照合するすべは無い。だが今後なまえと別れることがあるだろうかと研磨は考えて彼女の瞳を見つめた。
「どうしたの?試合日の前だからって緊張することないだろうし…何かあった?」
「なまえを離したくない」
「えっ……?」
「自分でもよく分からないんだけど…おれ、なまえと一緒にいると幸せだって感じる。なまえが笑ってると、おれも嬉しいし」
驚いて目を見開くなまえに動じることなく、研磨は一つ息を吐いた。きっとどうしようもなく恥ずかしいことを本人に伝えているのだろうが、最早後戻りは出来ない。黒尾からお前は言葉足らずだと何度も言われたことで余計に歯止めが効かなくなっているのだと幼馴染のせいにしつつ、言わないと伝わらないのなら言うしかないと研磨は決意を固めた。男らしく根性見せろ!という猛虎の言葉が脳裏に浮かび、うるさいなと過保護な彼らの亡霊を押し退ける。
「なまえにはずっと笑っててほしいのに、おれ、あんまり気の利いたこと言えなくて」
「そんな私は研磨から十分すぎるくらい貰ってるのに…」
「ううん、全然足りない。恋は、おれにはまだハードルが高い」
「えっ、何それ」
おれにとっては根性と同じくらい難しいんだよと言うと、なまえは可笑しくて目を細めて笑うので、研磨はなんとも言えない表情を浮かべた。彼女が笑ってくれるのは嬉しいが、この微妙な気持ちはなんだろう、と説明を付けようにも難解でやはり恋は難しいという結論に至った。
どんなに難しくても、黒尾達と同じようになまえと恋人同士でいることは出来るし、彼女を喜ばせることは出来る。隣にいることを許してくれるし、彼女も同じように思ってくれる。それが恋なのかは分からないが、研磨には明確に彼女から好かれているという自信はあった。
「私にだって恋は難しいよ?」
「えー…?」
「嘘じゃないからそんな疑い深い顔しないでよ」
「少なくともおれよりは得意でしょ」
なまえはうーんと言いながら研磨を見つめた。確かに女子の扱いという面では不慣れな部分が多かったが、それにしても柔軟性のある人だとなまえは思っていた。同年代の男子と比べて性欲も強くはなく興味も薄いはずなのに、今となってはこうして彼女にさりげなく触れてくることも増えた。一体どこからその知識がやってくるのだろうとなまえが彼の無機質な部屋を思い浮かべていると、研磨は彼女の顔を覗き込んだ。
「早く風呂入って寝よう?」
「楽しそうな顔してる」
「うん、なまえはおれの変化によく気がつくね」
「当たり前でしょ、彼女なんだから」
彼女という言葉が頭の中をぐるぐると回り、胸の内側をぎゅっと握られて熱くなる感覚がして、研磨は静かに息を吐いた。きっとこれが恋なのだろうと。
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