「赤葦〜、お呼びですよ〜」
ランニングから戻ってきての束の間の休憩中、ドリンクとタオルを手渡されると同時に白福さんに声をかけられる。妙ににやついた笑みを浮かべ、こちらの様子を伺うその反応に、すぐに心当たりに行き着いた。
姿を探してきょろきょろと頭を振る俺に、白福さんは心底楽しそうに外だよと告げて、隠そうともせずに生温かい目線を送ってくる。
甘んじてその視線を受け止めて、すみません、と中座することを告げて入口に向かって走る。どうぞごゆっくり〜と、間伸びした白福さんの声が、背中に投げかけられて聞こえた。
「みょうじさん」
体育館入り口のすぐ側で、壁に背をもたれて所在なさげに立ちすくむ、みょうじさんの姿はすぐに見つかった。声をかけるとパッと顔を上げて、まっすぐにこちらを見つめる瞳と視線が合う。
「赤葦くん。ごめんね、部活中なのに」
みょうじさんは申し訳なさそうに眉を下げた顔で、ぺこりと頭を下げる。みょうじさんの礼を見るのは本日2度目だったけれど、昼間見たものとはまた少し意味合いが違っていた。
「そんな気にしないで。今休憩中だから全然。それよりも、わざわざこんなところまでありがとう」
「ううん、放課後までって言ったのに、遅くなってごめん」
彼女の用向きには予想がついていた。みょうじさんは時間をとってしまっていることをとても気にしているようで、彼女の目的を聞くよりも先に礼を言ってみたけれど、申し訳なさを緩和することはできなかったらしい。
「手はもう大丈夫?」
彼女の謝罪に応酬して、こちらが気にしないでと言ったところで、きっと永遠に謝り続けてしまうことは安易に予想できたので、違う話題に切り替えることにした。まだ二度しか顔を合わせて会話をしていないけれど、きっとそれはみょうじさんの性格なんだと有り余るほどに察せられた。
「おかげさまで、爪も手も大丈夫」
控え目に沈んでいた声も、申し訳なさそうに伏せられていた目も、打って変わって弾むようだった。
指先と手首の内側を、惜しげもなく見せてくれるその姿に少し安心する。丸い爪先も白い皮膚にも、特に変わったところは見られなかった。
「あ、それでね、大したものじゃないけど、これ、お礼です」
そう言ってみょうじさんが差し出したのは、貸していた爪やすりとペットボトルだった。
お礼なんて、と、昼間と同じような言葉が飛び出しそうになったけれど、はたと思いとどまって頭を振る。先ほど自らで断ち切った流れを再びふりだしに戻してしまうところだった。
「気遣わなくてよかったのに。でも、ありがとう」
「助けてもらったし、これくらい全然。むしろもっとお礼したいけど」
みょうじさんはそこまで言って、続く言葉を飲み込むようにして口を閉じた。少しだけ見開かれた瞳から、どうやら自分と同じ考えに行き着いたのだろうと伝わってくる。
ペットボトルと爪やすりを受け取って、そこで初めて気がついた。みょうじさんは制服ではなくTシャツを着ていた。
「もしかして今から練習?」
「うん。まだ下手だから練習しないと」
手をぎゅっと握り、開いて、それを繰り返すこと数回。些細な仕草からも、みょうじさんはやる気に溢れているということが伺える。
「みょうじさん、構える時の手がすごく綺麗だから、すぐ上手くなるよ」
「手?」
きょとんとした顔で己の言葉を反芻されて、途端に何を言ってしまったか理解した。あまりにも素直に、思ったことがそのまま口から出てしまった。
みょうじさんは自分の手とこちらの顔を交互に見て、俺の言葉の意味を図りかねているようだった。そして続く言葉を待っているようにも見える。
「ボールを上げるときの手の形、フォームが基本に忠実で綺麗だから、きっと上手くなるなって」
「あ、そっか……」
不思議そうな顔をして、みょうじさんは手のひらをじっと見つめる。目一杯に指を開いても、自分のそれとは一回り以上も小さい。その小さな手が一生懸命、何かを成すために奮起する姿に、少なからず影響を受けている自分がいた。
「バレー部の人に、そんなストレートに褒められると思わなかったから嬉しい」
ぽつりと呟くような小さな声。しかしこちらに向けられる笑顔が、言葉よりも雄弁にみょうじさんの気持ちを語ってくれる。眉を下げてはにかむように笑う、その笑顔を見るのも今日で2回目だった。
「そろそろ行くね。赤葦くんも部活頑張って!」
そう言ってみょうじさんは、小走りで校舎のほうへと戻って行った。
自分のために用意されたペットボトルの冷たさが、汗をかいた頬に気持ちいい。吹く風もずっと爽やかに感じるのはきっと、みょうじさんが新しい風を運んできてくれたからのような気がした。
「おいヨイヨイ赤葦くん。なんなんだねあの子は」
「あ、集合ですか」
「いやなんかもっと慌てろよ」
入り口付近で身を低くして、様子を伺っていたらしい木葉さんにさっそく捕まってしまう。
「まいいや。お前はそういうやつよね」
想像以上にあっさりとした言葉で興味をなくしたのか、木葉さんはさっさと身を翻して体育館内に戻っていく。中に入ると、既にストレッチが始まっているらしかった。
「で、さっきの子あれだろ。みょうじなまえちゃんだろ、アイドルの」
「興味ないんじゃないんですか」
「いやお前をいじるのをやめただけで興味はフツーにある」
それはイジリとはどう違うというのか。という疑問は飲み込んでおくことにした。必要以上に揶揄われることがないだけ、ありがたいような気がしたからだ。それに、自分とみょうじさんの間には、何か隠し立てするようなことがあるのかと言われると、隠すものどころか何もない。
「というかやっぱり知ってるんですね。みょうじさんのこと」
「まーなー。お前はそういうの全然興味なさそう」
「今日初めて知りました」
「それは興味ないにもほどがある」
やはりと言うべきなのだろうか。自分が知らなかっただけでみょうじさんは、学年を越えて校内でも有名な存在のようだった。
「クラス隣だし、顔と名前しか知らなかったです」
「え、今日初会話だったん? どんな状況だよ」
「体育のときに、みょうじさんが爪やっちゃったみたいなんで、助けただけです」
「助けただけってなんだよカッケーな」
やるな赤葦、と背中を押す木葉さんの手に力が入る。
嘘は何一つ言っていない。しかし側から見ると確かに不思議な状況かもしれないとは思った。けれどそれくらいの人助けぐらい、許されてほしかった。
「みょうじさん、球技大会でバレーやるみたいです」
「マジか、楽しみ増えたな」
「いや、クラス別ですし」
「それはそれだろ」
自分も出場するはずなのに、そんなやる気は一切感じさせることなく、木葉さんは言い切った。
木葉さんが言うところの楽しみ、というのも、どちらかというと体育の時間にチームメイトがいい、と言っていたものと近い含みがあるような気がした。楽しみだ、と思わないわけじゃない。そう考えると思い浮かぶのは、空を見上げるみょうじさんの横顔と、まっすぐに伸びた白い腕だった。