部室にノートを忘れたことに気がついたのは、4限の授業が終了してすぐだった。今日の朝練の内容を振り返ろうと鞄を探したが、そこに目当てのものはなく、心当たりはすぐに浮かんだ。
 いつもより早めに昼食を片付けてしまってから、心当たりである部室に確認へと向かう。すぐに目的のノートも見つかり、ひとまず胸を撫で下ろした。
 目的を果たしてしまえば長居をするような場所でもなく、教室で確認をしようと思い、すぐにその場を後にした。
 校舎に戻るその道すがら、体育館横を通りすぎると、ふと視界の端で揺れる人影が目に入る。一つにまとめた髪が、ボールを追うたびに軽快に揺れるその姿は、見覚えのあるものだった。

「みょうじさん」

 名前を呼ぶと、ピクリと肩が反応して、それからゆっくりとこちらを振り向く。
 太陽の光に照らされている頬は紅潮して、その下を流れる血潮が星のように煌いていた。

「赤葦くん」

 呼ばれる声は、少しだけ気の抜けた、穏やかな響きをもって耳に届く。振り向いた顔からは、丸く見開かれた大きな瞳と、二の句が継げない口からも窺えるとおり、少々驚かせてしまったようだった。
 それからすぐにハッとして、唇はキュッと引き結ばれて、視線がこちらから少しだけ外れる。乱れてもいない前髪を梳く指先は、赤くなった頬を隠すように泳いでいた。

「練習?」
「……見てた?」

 みょうじさんが恥ずかしがっている、その一つしかない理由を初手で言い当ててしまい、少し悪いことをしたような気になった。恥ずかしがる理由は分からなくもなかったが、その必要はないことを伝えたかった。

「見つけたばっかりだけど、ずっと練習してたの?」
「あ、お昼は食べたよ。でもなんか眠くなってきちゃったから、体動かそうと思って」

 ふう、と一息ついてから、傍らに置かれていた水に手を伸ばす。半分よりもずっと少ないその中身は、ここにいた時間を想像するには十分だった。
 なんとなく、姿を見つけてしまって、声をかけてしまったから、それじゃあと立ち去ることもできなくて、そのまま日陰に腰掛けたみょうじさんに見上げられるような形で、会話は進んでいく。

「赤葦くんもバレー部だったの?」
「いや、部室に忘れ物したの思い出して」
「赤葦くんもそんなことあるんだ」

 あはは、と声を上げて笑うみょうじさんのあっけらかんとした姿に、今度はこちらが気恥ずかしくなる。ただそこに立っているだけなのが急に居た堪れなくなって、泳がせた目線はみょうじさんの足元に転がるバレーボールを見つけた。
 みょうじさんもそれに気がついたみたいで、何を言うでもなく、ごく自然にゆっくりとした動きでこちらへとボールを放り投げる。それは宙高く、山なりの綺麗な軌道で頭上へ向かって落ちてきた。
 慣れ親しんだ動きで、いつもと変わりなく、一つ一つの動きを丁寧に。10本の指先で捉えたボールは、みょうじさんが投げてみせたのと同じくらいにふわりとした弧を描き、時間を巻き戻したみたいに彼女の腕の中へと戻っていく。

「ナイストス!」
「ナイスパス」

 何気ないボール回しがたった一回上手くいっただけ。手慰みでしかないそれだけのことが嬉しい。屈託のないみょうじさんの笑顔を見ていると、彼女も同じように思っているのだということが面映くも嬉しくもあった。

「やっぱ違うなあ。すごくきれい」

 きれい、とみょうじさんが口にした言葉は風に乗ってふわりと漂い、今度はこちらの胸の中にすとんと落ちてきた。
 曲りなりにも強豪と呼ばれるバレー部の、正セッターを務めている身として、上手いだとか良いだとか、褒められたことがないわけじゃなかった。それでもここまでやってきて、ただそこに余計な修辞はなく、きれいだとだけ言われることは稀なことのように思う。
 あのとき、授業中に見たみょうじさんのことを同じように思っていた。今それと同じで、こうしてみょうじさんも思ってくれているのだとしたら。奇妙な想像が頭を巡ると同時に、瞼の熱くなる思いがする。

「なんかね、思ってる方向にうまく飛ばなくて」

 みょうじさんはそう話しながら立ち上がり、先ほどと同じようにボールを宙へと投げる。再び放り出されたそれは、やはり先ほどと似たような動きで頭上から落ちてくる。みょうじさんの元へ戻すようにして、ボールをまた空へと押し戻すと、その先にいたみょうじさんは腕を頭上に掲げていた。
 それは雲間から差し込む光のように真っ直ぐで、指先から足先までが一直線に伸びているその姿は、見ているこちらも襟を正される心地がする。
 そうしてそのまま、元来た道に戻すようにして、柔らかい指先でボールを押し出す。それはみょうじさんの思い描いた通りの動きで、こちらまでふわりと綺麗な軌道を辿って戻ってきた。

「……できた!」
「ナイストス」

 直前まで真剣に宙を見つめいていた瞳が、太陽の光を目一杯に吸い込んでこちらに向く。やった、と漏れ出る声は弾んでいて、先ほどまで空に真っ直ぐ伸びていた手は胸の前でその感触を確かめるように握りしめられていた。

「すごい、綺麗だったよ」
「お手本が良かったんだ」

 ふふ、と悪戯ぽく笑って、もう一度、と再びボールを投げるよう促してみせる。そうして促されるまま、みょうじさんの望むままに投げてみせた。

「赤葦くんは、いつからバレーやってるの?」

 繰り返されるゆるいパスのやり取りの中で、不意にみょうじさんから問いかけられた。立ったまま向かい合って話をするよりも、ボールを繋いだままのほうがここではずっとふさわしいと思ったし、そうしたいと思った。小気味良く跳ねるボールを見ていると、言葉も自然とついて出てくる気がした。

「中学から、部活で。梟谷は推薦もらって」
「推薦! すごいね」
「……みょうじさんは」

 いつからアイドルを、と、聞こうとして、それまで流れるように出てきた言葉が堰き止められる。言葉を止めた自分の意図ははっきりとしない。みょうじさんが自分に聞いたように、何の気なしに聞くことができなかった。
 本人がそれを隠しているのならば、もちろん望まずに詳らかにしてしまうのは違うだろう。けれど俺はそれすら分からない。ただ数日前に話をしたばかりの自分が聞いてもいいものなのか、分からなかった。
 それでもみょうじさんは聡かった。口籠った俺を見てその先を察したようで、ちらりと寄越された視線にどきりとする。しかしそれはどうやら杞憂だったようで、聞こえてきた声は至ってフラットなものだった。

「えっとね、活動始めたのは、高校なってから。でもずっとなりたかったんだよね」

 アイドル。その言葉をみょうじさんの口から改めて聞くと、これまで確かめようとしなかったことが急に現実味を帯びて、実体を伴った言葉になる。
 少し前までは、自分には関係のないことだと思っていた。それでも今、知りたいと思う気持ちが湧き上がってきた。

「ちっちゃいときに、アニメで見たアイドルの女の子のことがずっと好きで、今でもそれが憧れなの」

 ぽつりぽつりと紡がれる、ボールの跳ねる音や風の音、遠くから聞こえる誰かの笑い声に交じる中でも、凛とした響きでみょうじさんの声は聞こえてきた。

「私と同じ、普通の女の子がアイドルになる話なんだけど、特別だって思えなくても、なりたい自分になれるって。どんな自分でも、大丈夫なの」

 大切なところからひとつひとつ、とても丁寧に言葉を取り出してくれている。彼女が大事に思うことが、パスで繋がるたびに確実に降り積もっていく。触れると伝わってくる、みょうじさんの心はじわりと温かく、その熱はあっという間に指先にまで広がった。

「ごめん、結構パーソナルなことだった。教えてくれてありがとう」
「……思ったけど、赤葦くんて結構気遣うよね」

 果たしてそれは褒められているととってもいいのだろうか。みょうじさんの意図するところが分からないでいると、またしてもそれは悟られてしまったらしい。からりと笑ったみょうじさんは、頭上のボールを天高く押し上げる。

「先に聞いたの私だし! むしろなんか語っちゃった。恥ずかしいな」
「いや、すごいなと思って。俺はバレー始めたの、すごい好きだったとかないし」
「私は、そういうのにたまたま出逢えて、運が良かったんだなって思ってるよ。始めてからも、大変だけどすごい楽しいし、もっと好きになったよ」

 みょうじさんのあげたボールが、もう何度目かも分からない、綺麗な軌道で手元へ落ちてくる。それをまた、みょうじさんの元へ届くようにトスをあげる。そうして繋がったパスと一緒に、みょうじさんが言葉を続けた。

「それにね、なんていうか私、頑張るのも頑張ってる人の応援するのも好きなんだよね。だからできる」
「……それは、分かるかも」

 だからだと、落ちてくるボールと一緒に、抱えていた思いが帰結した。関わりもないと思っていたところから湧いてきた、知りたいと思った理由はここにあったのだ。

「みょうじさんが、すごい一生懸命なのはどうしてかなって思ってたんだけど、それ、分かる」

 頑張ることは、楽しい。あのトスを見た時も、今日のこの練習を見た時も、みょうじさんに惹かれていたのは、声をかけずにいられなかったのは、自分も同じことが分かるからだった。

「分かる!? 頑張るのって楽しいよね!」

 パン、と軽快な音がしたのは、みょうじさんが一層勢い良くボールを打ち返したものだった。ハッとして、ボールばかりを追っていた目をみょうじさんに向けてみる。緑と青々とした空にふさわしい、いのちが弾けるように笑うみょうじさんがいた。

その魂を縫い留めよう



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