梟谷学園の研修旅行、いわゆる修学旅行は、真冬の2月に敢行される。近年は関西圏を3泊4日の日程で回り、本日はその中日で、この時間は神戸市街の散策の真っ最中だった。
 団体行動の合間、都度自由行動が挟まれてはいるものの、一日中動き回っている中でその時間は束の間の休憩時間に等しい。幸いにも天気には恵まれている。寒さだけは気になるものの、それもまた旅の良いスパイスとなっていた。
 風が吹くたび向かい風を探して、館の風見鶏がくるくると回る。
 北野坂を登り切った果て、神戸の街並みを見下ろすことができる開けた場所で、じっと夕焼けを眺めていた。
 ゆっくりと変わりゆく空の色を、ただ眺めている。こうして何もせずに空を眺めるのなんて、いつ以来だろうか。忙しく動き回るだけでなく、景観に呼び起こされるエモーショナルな旅情に浸るのもまた、旅の醍醐味というものだろう。
 海の見える高台にある北野の街は、東京のそれとは全く違っていた。当時のレトロな趣を残したまま、まるで日本ではないような街並みが広がっている。
 足を進めていくほどに、高校生が制服姿で練り歩くには洗練されすぎている風景に、場違い感が否めない。けれど平日の夕方ということもあって、他の観光客の姿は疎だったこともあり杞憂に過ぎなかった。
 坂道の途中、街の雰囲気にすっかり溶け込んでいるチェーン店とは思えないコーヒーショップには、自分と同じ制服を着た生徒たちがずらりと列を成していた。そこで提供されるものは東京と同じに違いないのに、これも旅の記念になるのだろうか。
 列に並んでコーヒーを飲むのも良いと思ったけれど、自分にはここでこうして、写真を撮るでもなく景色を眺める方が合っていた気がした。

「お兄さん、お一人ですか」

 ぼんやりと混ざる昼と夜の境界に、没入していた意識を一声が連れ戻した。
 お兄さん、だなんて他人行儀な呼び方ではあるけれど、歌うように弾む声だった。

「そちらもお一人なんですか、お嬢さん」

 みょうじさんの遊び心というものへの対処方法が、この頃ようやく分かり始めてきた。
 振り返るとそこにはやはりみょうじさんがいて、とても楽しそうに笑っていた。

「たそがれてたの?」
「まあね」
「わあ、マジックアワーだ」

 眩しくはない、不思議な色をした空を眺めるみょうじさんの目が細められる。ゆっくりと、光を閉じ込めてしまうみたいに瞬きをした。

「みょうじさんは、コーヒー飲まないの」
「ううん。飲んできた。お店の中すごい可愛かったよ」

 そう言ってみょうじさんは、店内を撮影したスマホの写真をすかさず見せてくれる。東京の、均一化されたデザインのチェーン店とは違い、内装もまたこの街に相応しいものだった。

「赤葦くんは行かないの?」
「なんか、ここから動きたくない気分で」
「いい席見つけちゃったんだねえ」
「そうなんです」

 もう数十分はこうしていただろうか。何人か、ここまでたどり着いた生徒はいたけれど、皆写真だけ撮ってしまえば、すぐに飽きて降りてしまうようだった。景色を眺めるだけの時間は、指先だけで世界と繋がれる現代を生きる人間には退屈すぎるのかもしれない。
 みょうじさんも例に漏れず写真を撮っていたけれど、すぐにこの場を離れるようなことはなかった。

「みょうじさん、一人なの?」
「そうなんです」

 声をかけてきたときから彼女の周りに友人の姿は見えない。そもそも、一人じゃなかったら声をかけたりしないかと、よくよく考えてみれば分かることではあった。
 先ほどの自分の返答とそっくり違わずに返事をして、みょうじさんはクスクスと、戯れに笑ってみせる。

「せっかくだし行こうって誘ったけど、疲れたから休憩するって」
「なるほど」

 そう言って、みょうじさんは先ほどまで滞在していた件のコーヒーショップの方角を指さした。確かに、休みたいという友人の気持ちも分かるとここで言ってしまうのは、みょうじさんは面白くないだろうか。

「綺麗だね。登ってきてよかった」

 温かく緩むみょうじさんの頬を眺めていると、触れてもいないないのに指先からじんわりと熱が広がっていく気がした。
 高台を吹き抜ける風が、切り揃えられたみょうじさんの前髪を揺らしている。
 橙と濃紺の入り混じる、柔らかな光の色が美しい照明になって、銀幕の中のワンショットのようだった。

「夢みたいに、綺麗で、泣けちゃう」

 喧騒から離れた静寂の中、みょうじさんの言葉は宙に浮かんで消えてしまう。
 綺麗。そう呟いたみょうじさんに、どきりとした。心の中の声が、漏れてしまったのかと思った。
 驚いて何も言えないままでいると、視線に気がついたのか、彼女は照れたように笑う。

「前に歌ったことある曲。好きなんだ。ぴったりだなって」

 夢みたい。彼女が形容した景色はまさにそうだった。刻一刻と変わっていってしまうことも、それをみょうじさんとこうして同じものを見ていることも、今この時間全てが夢のようだった。

「綺麗っていうだけで、泣けるの、前まであんまり分かんなかったんだけど、今はちょっとだけ分かる」
「……うん」

 同意の意味も込めた相槌は、みょうじさんにその意味を全て伝えてくれただろうか。あれこれ考えていても、この気持ちを表せる言葉は思い浮かばない。
 思い出していたのは、抜けるような青空に向かって伸ばされた、みょうじさんのまっすぐな白い腕だった。
 綺麗だと思った。今ここで幻想的な風景を背に、様になっているその姿ももちろん美しい。
 けれどそれは、あの時みょうじさんのことを綺麗だと思ったのとは違う。SNSで消費してしまえばあとには何も残らないような、無数に浮かんで消えていくだけのものではない。
 みょうじさんの心や矜持が、言葉で伝わるのではなく、彼女がそこにいるというだけで理解できることが、美しいと思っていた。
 隣に立つみょうじさんはメロディーを口遊んでいる。好きだと言っていた歌を、自分だけに聞かせるようなボリュームで、無くさないよう大切に歌っていた。
 マイクもカメラも通さない、ここにあるだけで何にも残らない。
 それでもいいと思った。目を閉じて思い浮かべれば、いつだって思い出すことができるのだと確信していたから。

「……学校とアイドルの私、全然違うから、あんまりこういう話しないんだけど」

 不意に持ち出された話題に、みょうじさんらしからぬ歯切れの悪さが引っかかる。突飛なことはこれまで何度かあったけれど、普段はなされない前置きが、更に違和感を煽る。

「赤葦くんには、なんかあの時話しちゃったし、これも私が勝手に話したいだけなんだけどね」

 すっと息を飲んで、背筋をしゃんと伸ばす。いつだってまっすぐこちらに届いていた言葉は今、彼女の口の中で転がっているようだった。
 やがて意を決したように、今度はふうと息を吐いて、その瞳はまっすぐにこちらへ向けられる。

「夢だったし、本当に楽しいし、好きだから、ずっと考えてたんだけど、一回休もうと思って」
「えっ」

 切り出されたのは思いもよらない話だった。ほぼ反射で漏れ出た驚嘆の声は、遮るものなく景色の中に溶けていった。
 みょうじさんは、そんな俺の反応をも予測していたのだろうか。困ったように眉を下げて、辛うじて口端を持ち上げようとしていた。
 ずっと考えていた。みょうじさんの言葉がぐるぐると頭の中を回る。
 確かに変なきっかけがあって始まった、みょうじさんと自分との関係は、単に友人とも形容できないような、したくないような、言ってしまえばよく分からないものだった。
 半ば勢いで聞いてしまったみょうじさんの心が、あの日以来ずっと頭から離れない。それは話をした彼女も、同じなのだろうか。

「なまえ!」

 静かだったここに飛び込んできた、耳馴染みのない声に肩が跳ねる。自分が呼ばれたわけでもないのに、張本人のみょうじさん以上に反応してしまった。
 彼女を呼んだのは、きっと先ほどの話に出てきていた友人だろう。高台まで登り切ってから、近づいてきてこちらと目が合うと、あからさまに気まずそうな顔に変わっていくのが面白かった。
 みょうじさんもそんな友人の反応を見て、俺と同じことを思ったらしい。一定の距離までで歩みを止めてしまった彼女の、申し訳なさそうな姿に思わず笑ってしまった。

「そろそろ戻るね」
「うん、じゃあ」

 また、学校で。そう言いかけて、最後まで口にできなかった。
 夕焼けに背を向けて、友人の元へと駆け出していく。二、三度瞬きをしてその姿を眺めていたけれど、みょうじさんは途中でぴたりと立ち止まり再度方向転換をした。そうして来たばかりのこちらへそのまま戻ってきてしまう。

「ね、やっぱり今度、さっきの話の続き聞いてもらってもいい……?」

 胸に詰まった息を吐き出すみたいに紡がれる言葉はやはりまっすぐだ。それでも、こちらを恐る恐るうかがうかのような言葉尻にはためらいが表れている。ぎゅっと握り締められた手のひらが、みょうじさんの揺らぐ決意を懸命にここに留めようとする。

「うん、もちろん」

 これを伝えるだけで、彼女の迷い全てを払拭できるだろうか。
 窺い知るだけでは到底分からない。けれどこちらを見つめる瞳が光でいっぱいで、花が開くようにゆっくりと綻んでいくのを見ていると、この心もきっと伝わったと思えた。

あの熱を埋め忘れた



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