合縁奇縁

「いい加減前を向かないか、お前だけだ。いつまでもそんな顔で戦場に出ているのは」

 昌文君は死人のような顔で戦から帰ってきた女兵士にそう言った。
 彼女は紅と言い、「秦の怪鳥」と呼ばれた王騎の部下で、彼にやや行き過ぎた尊敬の念を抱いていた。
 それが先の趙との戦いで王騎を失って以来、彼女は抜け殻のようになっていた。
 今の秦国にやらねばいけないことはまだまだ山積みで、昌文君も日々大王や文官たちと頭を悩ませている。
 悲しみに暮れていた王騎の部下や、王騎とかつて戦場を共にした将軍たちも彼の死を受け入れてそれなりに立ち直ってきている。それなのに、彼女は未だ王騎の死を受け入れきれていないようだった。
 命令には応じる。だが、以前のような覇気や戦意はまるでないに等しい状況だ。
 王騎が自身の矛と共に将来を託した少年・信はめきめきと成長し、順調に将軍への道を駆け上がっている。そんな若い兵を見ても、彼女の心はちっとも動かなかった。
 紅は弩と弓の兵を束ねており、遠くの敵を弓で討ち、その矢の雨を越えてきた兵は弩で仕留める。防波堤のような役割を兼ねた将である。王騎が死ぬ前に彼女は三千人将に上がっていたが、ここ一年の働きは凡庸なもので与えられた役割は果たすもののそれ以上の働きはない。
そのせいで未だ彼女はかつての目標であった将軍の地位にたどり着けずにいる。
 普段は女らしさとはめっぽう無縁な紅だったが、王騎を尊敬して模した目元と唇の化粧姿で戦に出る彼女を慕う部下も多かった。しかし今やその化粧もせずに彼女は自分を見失ったまま戦っている。
 紅の部下達も紅が立ち直るのを待っていたが、無論誰も彼女の気持ちに寄り添える者はおらず、中には「あんな弱った隊長にはついていけない」と言って隊を去る者も少なからずいた。
 他の王騎の部下たちは、自分たちが言っても立ち直れるものではないだろうと思い、彼女のことはたまに声をかけてやるくらいにして、皆自分の役割を果たしていた。
 唯一、彼女の気持ちを量ってやれたのは王騎と共に昭王の時代を駆けた昌文君くらいであった。

「前を向いても……いないんですよ、あの大きな背中が」
「いるものか、王騎は死んだ」
「わかっています、でも全然気持ちの整理がつかないんです」
「お前が見ていたのは奴の背中だけだろう、周りと、先の景色を見ずにここまで走ってきたせいだ」
「……そうですね、貴方の言う通りです。反論はしません」
「ちゃんと他の者は王騎の背中と、他の景色を見ているからこそ強くなり将たる器を持っていた。お前にはそれがない」
 厳しい言葉をなおも投げかける昌文君に、紅は否定せずに聞いていた。
 自分が戦場に立ち続けた理由は王騎であり、何よりも自分が未だ将に至らない原因もまた王騎の背中しか見ていなかったことは、重々承知だった。
 甘ったれた理想で将になれればと心のどこかで思っていたが、思っている通りそれほど現実は甘くない。
 自分が見たい景色をちゃんと持っている者しか、その先には進めないのだとこの一年ほどで痛感した。
「わかっているんですよ……私はただ、あの方に自分の人生を勝手に投げていただけで、自分が生きたい道を見つけられていない」
「……」
「たまたま今まではそれで大丈夫だった。でも今はもうそれでは駄目だとも理解しています。大王のことも尊敬している、他の仲間たちとも居たい、これからの秦を創り上げるために働きたいとも思う。……でも、私には」
 紅はそこで肩を落とした。
 王騎の下、仲間たちとしのぎを削り合い数々の戦場を駆け、共に進む場所も帰るべき場所もあった。しかし、王騎がこの世を去り、戦を終えて帰ってきた自分は一人だった。
 仲間たちには妻や、家族がいる。
 紅には育ての親こそいれど、本当の家族はいなかった。

 まだ昭王が秦国を治めていた頃、紅の生まれた土地は戦に巻き込まれてしまい、まだ年端もいかない時分に両親を亡くした。王騎が彼女を見つけ、部下に親戚を探させたが両親の家系に頼るべき者はおらず、孤児となった彼女を最終的に引き取ったのは王騎の古い部下の一人であった。
 初陣を済ませた息子が二人いたが、心の根の優しいその男は紅を息子たちの嫁にしてやればよいだろうと、育て始めたがさっそく誤算が生じた。
養父に連れられ挨拶を交わした王騎の大きさに彼女は惚れ込んでしまった。十歳に満たない幼い子にも、将軍・王騎の存在はあまりに衝撃的だった。
そしてもう一人、彼女の心に強く残った将軍がいた。
王騎の隣に並び立っていた六大将軍の摎である。
戦神の如き強さとすでに名が知られていた摎だったが、ひょんなことから彼女と知り合った紅は、王騎の口から「参考にはならないと思いますが、摎のことは見て損はありませんよォ」と言われていたこともあり、その出会い以来彼女のことも王騎と同じくらい尊敬するようになる。
あとから聞いた話では、幼い紅をけして子ども扱いすることなく紅に女であることの厳しさと希望を摎は説いたようだった。
王騎と摎の背中を追い続けたくなった紅は、養父母の制止の甲斐なく本格的に戦へ出るようになった。その道はもちろん生半可な道ではなかったが、刀や長物を扱える筋力がない老いた養父が使っていた弓を見て、弓と弩を人一倍練習した。
努力の甲斐あり、紅は上の義兄の弓隊の一人として初陣を迎えることになる。初陣は無事成功し、紅は尊敬する王騎の一部隊の中の一人として恥じぬ働きをした。
しかしその直後、馬陽での戦い。
趙の猛攻により、指揮官である義兄は命を落とした。
そのことを伝えに行こうとした紅は離散した自軍をかきわけ、涙をこらえながら王騎の下へ生き残った馬に乗って走らせたが、前線で摎が死んだことを知った。
王騎の背中は怒りと悲しみに満ちていた。

義兄の葬式も済ませ、紅もそれなりの年齢になったので、結婚話も持ち上がった。
 紅が戦にでることもあり義兄の第二夫人として嫁ぐ予定だったが、義兄の死でその話は勿論立ち消えた。
代わりにもう一人の義兄に嫁ぐ話もでたが、そのあとの戦で彼も部下を庇い死んでしまった。
紅はきっと呪われているのだと自分を責めたが、養父母はそれを許さなかった。それどころか別の縁談もすすめてくるほどの気遣いを見せたが、戦へ出てしまう紅をもらおうという男はあまりいなかった。
自己顕示欲が強い「俺は気の強い女は好きだ」と勘違いした男が来た時はさすがに紅も手が出てしまい、結構な騒ぎになってしまった。それが変に広まってしまって以来、彼女に来る縁談も減り、それでも運よく縁談が持ち上がっても紅自身が断るようになった。
 呪いの類はあまり信じていなかったが、自分を迎え入れようとしてくれた義兄たちが立て続けに死んでしまったことから、自分のせいで不幸になる人が増えるのは嫌だと感じるようになったからだ。
 義兄たちが亡くなって周囲に「お前のせいだ」と罵られた方がよほど楽だったと紅は思った。義兄の本妻も養父母も誰も紅のことを責めなかった。いっそ呪いのせいだと言われた方が納得いくほど、彼女の周りには誰もいなかったが紅は自分を責め続けた。
亡くなった義兄たちと引退した養父の代わりに王騎軍に正式に入隊した紅は、失ったものに反してめきめきと頭角を現していった。
しかし、彼女の隣には誰もいない。そして目指していた二人の背中ももう見えなくなってしまった。

「私は一人です。……いや、自分で一人になったようなものでしたが、気付かないふりをしていました。私は将軍になれたとしても、部下がたくさんいて、仲間がいても、私の隣には誰もいない。寂しいんですよ、自分が何のために戦い、何のために命を懸けるのかわからない」
 そう言って、彼女はうつむいた。目元には涙が溜まっており今にも零れ落ちそうだった。
 だが昌文君はそんな彼女に慰めの言葉も、気遣いの仕草も与えはしなかった。

「……今お前が欲しい言葉はやらん」
「……」
「お前がそういう人間だということは百も承知だ。お前はきっと大王のためにだの、民のためにだの大きなものを背負い込めるほど器は大きくない。だが、支える者がいればお前はその大きなものをきちんと背負い込める人間になれる。それは今までのお前の功績が物語っている。自分が思い込んでいるほど薄情な人間ではないのだ」
「……」
「だから、お前が望めばだが……儂の家族にしてやることはできる。養子なり、なんなりお前にとって一番落ち着く形でな。すでに育ててくれた養父母を大事にしたいのならそれも当然だから無理は言わぬ」
「昌文君……」
「まあ、一番都合が良いのは婚姻だろうが、それではお前は嫌だろう。別に儂の嫁になれとは言わん、だが帰るべき場所くらいにはなってやれる」 
「嫁ってなんですかそれ、タチの悪い冗談です、貴方らしくもない……」
「儂とて冗談くらい言うわい」
 下手くそな冗談ですね、と言って紅は涙を袖で拭った。
「私なんぞ嫁にもらえば、貴方はきっと刺客か何かに毒を盛られて死んでしまいますよ」
「大王の中華統一を見るまでは死ぬまい、それにこれでも元武官だな舐めるな」
「そうですね、貴方はとても強かった」

 わずかしか記憶はないが、かつて戦場を駆けていた頃の昌文君を思い出す。
 無骨な賢人と王騎に称されたかつての武官は、今や国の土台を成すために日夜頭を働かせている文官だ。
 似合わない冗談をと言ったものの、彼の眼を見ればすぐにわかる。
 今言ったことはほとんど本気なのだと。
 思えば昔から自分のことを何かと気にかけてくれるのはこの男だけだったなと紅は考える。
 周りは皆、紅が自立した人間だと思っており、彼女が変わっていることは承知の上で付き合ってくれていた。多少無茶をしても、最後は「まあ紅だから」と勝手に納得してくれていたのだ。
 だが昌文君は文官になっても「お前は無茶をすべき隊ではないだろう」と苦言を呈してきた。
 どうしてこれほどまでに自分を気に掛けるのか昔はあまりわからなかったが、今なら薄ぼんやりと昌文君の考えていることがわかった。
 きっと摎の二の舞にさせたくなかったのだろう。
 王騎にとっての紅は摎とは程遠い、あくまで一人の部下だと言うのに、昌文君なりに二人の関係を気にしていたのかもしれない。それはいつも紅が王騎の話をする相手が昌文君だったのが原因なのではないだろうか、構われる原因は自分にあったと紅は気付く。
「昌文君は心配性ですね、だから摎様にじィなどと言われるんですよ」
「なにっ」
「あはは、……でも、本当にありがとうございます。情けないことをたくさん言いました」
 彼女は拱手をの形に組んで、礼を告げる。
 昌文君はまだわずかに不安そうな顔ではあったが、顔をあげた紅の表情が少し晴れたのを見て、小さく安堵のため息を吐いた。
「冗談とは言ったが、今の話を受ける気になったらいつでも来い」
「はい、前向きに検討させていただきますね」
「ああ」 
「……でも」
「なんだ?」
「昌文君は私のことが好きだったなんて初耳ですよ」
「……」
「え、なんでそこで黙るんですか」
「いや、その、すまん。そういうわけではないのだが、……そこまで考えておらんかった」
「なんですかそれ」
 昌文君らしいと言えばらしかった。
好きだから、ではなかった。本当の思いやりだったのか。紅はふはっと笑い声をあげて、口元を押えた。
「まあでも、貴方のそういう不器用だけどまっすぐなところに私はいつも救われます」
 彼女はくるりと背を向けて、それから少しだけ体を昌文君の方に向けて笑顔を向けた。
「今度の戦から戻るまでに腹を決めておきますので」
「……!」
「それまでに私の好きなところを考えておいてくださいませ」
 そう言って、彼女は石段をタンタンと軽快に下りて去った。
 昌文君は紅が見えなくなるまでその背中を眺めていたが、目を細めて大きくため息をついた。
「お前の良いところなど、いくらでも出してやるわ」

 数か月後、意気揚々と戦果をあげて帰ってきた紅が鎧姿のまま、徹夜続きの昌文君に「貴方の嫁にしてください」と言い「その話はまた後にしてくれ」と一度振られた事件があり、解決する前に次なる戦がやってきてしまい、あれよあれよという間に合従軍との戦いが訪れ、この戦が終わるまで二人の結婚は引き延ばされてしまう。
 結局、昌文君から初めに家族になることを誘われた日から数年が経っていたが、二人は後日晴れて夫婦となり、様々な人たちに祝福されることとなる。