暁光照り映ゆ
「まったく、なめられたものですね」
少し痛む右拳を払うように振って、紅は本日三人目の不届きものの足で退かす。
わかってはいたが、たとえ武器を持って居ようと女が戦場にいるというだけで、犯していいものだと勘違いしている馬鹿がいる。
養父が老齢により戦場から身を引き、正式に上の義兄が跡取りとして養父の部隊を引き継ぐことになった。それに伴い、紅もようやく初陣として戦場に出られることになった。
幸い(ではないが)体格的に小柄な男として通りそうな紅だったが、初めから女だと隠さずに入隊した。
今日は次の戦に向けた野外演習の最中で、領内の平原で野営の準備を終えたところだった。
が、冒頭の通り、勘違いをした馬鹿な男が数名「今度の戦で死ぬかもしれないから、死ぬ前に死ぬほどいい思いをさせてやる」などと言って鼻息荒く近づいてきたわけだが、それを許すほど紅も馬鹿ではない。
襲おうと思っていた女に殴られて気絶したことをわざわざ上官に訴えるほど自尊心の低い奴らではないと思われるため、多少の実力行使は許されるだろう。
というか、上官は真面目な義兄なので言ったところで逆に規律違反だのなんだので罰せられるはずだ。
さすがに隊長が義兄だと言うのは贔屓だと思われたくなかったので、そこは黙っておいてもらったがこんなことならけん制のために言っておけば良かったなと紅は少し後悔した。
出立前養父にはもっと渋られると思ったが、養父はとうにあきらめたという様子で「生きて帰り、あの子と夫婦になりなさい」と新しい弓をくれた。
あの家に引き取られてから、気づけば上官にあたる王騎の背中だけを追いかけて鍛錬を積んできた。
剣の才能がなければ槍を、槍の才能がなければ戟、矛と。女にしては大きい方だがそれでも男と並び立つ程の筋力はつかなかった。
それでもあきらめきれず模索している中、筋力が老化で落ちて剣から弓に変えた養父を見てこれだと思った。今まで試した武器以上に集中力と胆力が必要となる弓だったが、紅はあきらめず、まあまあな腕前まで成長することができた。
悲しいことにやはり紅には弓の才能もそれほどなかった。それでも鍛錬を重ねるうちに気付く、今の秦には名のあの弓兵はいない。だから自分が弓兵を率いる隊を作れれば軍事力が上がるのではないのだろうかと。
前に城内で弓の練習をしていた時、励ましてくれた武官のことを思い出す。
たしか王騎と並んで歩いていた時に見た、いかにも暑苦しい武官といった男だ。長い付き合いですと王騎に教えてもらった。
「弓兵も束ねれば立派な刃になりますか」
たまたま通りすがった王騎にそう尋ねた時、王騎は「そうですね、悪くはない考えですが、貴女次第ですよォ」と面白そうに笑っていた。
全くもって正論だったので紅はそれで納得したが、隣にいたその武官は顎に手を遣りまじめな顔で考え込む。
「いや王騎、貴様の言う通りではあるが、実際のところ我が国は他国に比べて弓兵の隊は力が弱い。王騎や摎、他の六大将軍という大きな武があるからいいが、根本的にそれを率いるだけの力を持った将がいないのだから、将来的にそういった人材が必要になる」
「真面目ですねェ、アナタは」
王騎がからかうと眉間にしわを寄せ、「真面目な話だったろうが、今のは」と不服そうに武官は言う。
紅はその武官の真面目な返答に内心嬉しくなって、「ありがとうございます、王騎様がもっと自由に戦場を駆け回れるよう、私も腕を磨きます」と頭を下げると武官は少し不思議そうな顔をして「そうか」と答えた。
そういえばあの人の名前はなんと言っただろうか、ふとあの武官の名前を聞いていなかったことに気付いて紅は思いを馳せる。
「おい、そこで何を……」
「あ」
物陰から声をかけてきたのはあの時の武官だった。彼が身に着けている鎧が立派なので、思っていたより上の立場にいるのだと瞬時に理解する。
武官は紅のことを覚えていたのか、少し驚いていたがそれよりも紅の足元に転がる不届きもの達に視線を落として眉間に皺を寄せた。
「……どういうことか説明しろ」
「襲われました」
素直に起こったことをありのまま説明した。
「なっ……」
絶句する武官だったが、すぐにずんずんと紅に歩み寄って、ひょいと体を持ち上げる。今度は紅が驚く番だった。
「えっ、何を」
困惑する紅の問いに答えることはなく、横抱きにしたまま小走りで武官は天幕の間を走っていく。
武官が走っていく方向を見て、紅は焦った。かなり位の高い隊長の休む区域に入っていったからだ。王騎の休む天幕に近づいてゆき、紅は焦って身じろぎしたがしっかり抱えられた体はびくともしない。
そうして武官はある天幕の前で止まった。王騎の天幕ではない。しかし事前の通達によりそれ以外の六大将軍の一人がここにいることを知っていたので焦りは依然として変わらなかった。
「おい、摎!」
武官が天幕の外で声をかけると、足音がした後、女が一人顔を出した。
「どうした、じィ」
「……⁉」
六大将軍・摎が目の前にいた。同じ女性だとは知っていたが、その凛とした美しさに紅は吃驚する。武官は顔をしかめながら「誰がじィだ!」と語気を強めに返答したが、すぐに小さい声で「お前にしか頼めぬことがある、入れてくれ」と紅を抱えたまま真剣な顔で告げたので、摎もただ事ではないと察して黙ってうなずき中へと招き入れた。
紅はそこでようやくこの武官が何か大きな勘違いをしていることに気付く。そういえば自分はこの男に「襲われた」としか伝えていなかった。それを犯されたと勘違いした武官は頼れる相手として、まさかの摎を選んだのだった。
紅が慌てて自分の起こったことを説明すると誤解はすぐに解けた。摎は「じィはそそっかしいな」とあきれながらも笑うことはしなかった。
逆に言えばそれくらいの心配をしても当然の状況だったこともある。しかし、実際のところ紅は無傷だった。幸いなことに、だが。
「あまり無理をしない方がいい、多勢で来られたらさすがに無傷とはいかなかったかもしれない」
「はい……」
「しかし良くやった! 私なら二度とそんな事ができないようにちょん切っていただろうな、じィ?」
「……」
一瞬、何か言いたそうにしたが武官は言葉を飲み込んだ。
「何はともあれ、無事で良かったわい」
「……ご迷惑をおかけして、すみません。私のようなまだ駆け出しの兵ひとりに、女だからというだけでこのような心配をしていただくのは申し訳なく……」
「謙虚だな、でも履き違えるな。じィは例えお前じゃなくても軍の中で起こる問題を目にしたら、何かしら行動を起こしていたと思うよ。それが今回は暴行現場だった」
そう言って摎は武官の顔を見てにこりと笑う。
「まあでも暴漢は軍にいらないのは事実、それにあんなに焦ったじィを見るのは久しぶりだったな、ふふ」
「からかうな……」
居心地悪そうに武官はため息をついた。紅は少し恥ずかしくなって顔が熱くなるのを感じた。状況が違えば辱めを受けていたのも事実、自分が男だったら同じことをしない保証もないし、下らないことで喧嘩をして裁かれていた可能性だってある。
運良く自己解決できて、その後の現場を見ても自分に非がないと信じてもらえる人物が顔見知りで、その顔見知りがお人好しだったから。
自分の未熟さと浅慮さに胸がかき乱されるような心地だった。そんな紅の様子を察したのか、摎はやさしく紅の肩に自分の手を添える。
「勇敢な新兵、名前は?」
「紅です」
「所属は?」
「王騎軍、百人将・杜衛隊です」
答えた瞬間、すごい勢いで摎が紅の肩を掴んだ。大きな目はまるで星空のようにきらきらと輝いている。
「王騎様の配下とは!」
「ま、末端ですが」
「いやいや、それでも王騎様の下にいるのは変わらないだろう? どう、王騎様は?」
目を輝かせながらも結構な勢いで摎が詰め寄ってくるので、紅はさすがにたじろいでしまった。しかし、王騎はどうだと聞かれれば紅の言うべきことはたった一つだった。
「王騎様は素晴らしい方です、今の私は末端の兵にすぎませんが、元々は命の恩人の一人でもあります」
「ん? それはどういうことだ」
「こやつは幼いころに戦で両親を亡くしてな、王騎軍に拾われて王騎の部下の家にもらわれたのだ」
「はい、今は引退して兄が隊を率いていまして」
「そうか、……そうかそうか」
摎は嬉しそうにうなずく。
「そうだ名乗り忘れていた、私は摎」
「よく存じております……お顔を拝見するのは初めてですが」
「そうだな……最近は兜を被っていたから」
「こんなに美しい方だとは、その」
化粧を施していなくても大きな瞳、長いまつげ、薄紅色の唇、つややかな黒髪、どれをとっても美しい女性を紅はこれまで知らなかった。ましてや同じ戦場を駆ける女同士だ。
正直なところ、女として戦場を立つことを決めたものの、紅はあまり自分が女として自信がある方ではなかった。
醜いとは思っていないが、幼い顔立ちなのに目が吊り上がっているのが生意気そうに見えると、先ほどぶん殴った不届きものの一人が負け惜しみに言ってきたことも大きい。体は無傷でも心には小さな傷がじくじくと広がりつつあった。
「摎、さま」
「ん? どうした」
「私は、摎様のように強く在れるでしょうか」
「……それを決めるのは私ではない」
ずいぶんと弱弱しい紅の言葉に摎は少しだけ厳しく返す。両肩に乗せられた手に力が入る。
「まだ戦場に出ていないから不安なのはわかる。だが己を信じられずして誰がお前を信じる? 私は私を信じている」
「自分を信じる……」
「なあじィ、じィも自分を信じているだろう?」
「ん? 嗚呼、そうだな」
「ほらな、強い将は皆己を信じている。私も、じィも、そして王騎様もだ」
きらきらとまた摎の瞳に星が降る。勇猛果敢な武勇伝に反して傷一つない、ある意味強さの象徴とも言える頬は朱が差していた。紅より歳が上だったはずだが、まるで少女のような表情だった。
「だからお前も自分を信じて、自分が信じる通りに生きるといい」
「はい、頑張ります、ちょっとずつ」
「ああ、私も応援している。……そうだ、これをお守りにもっていくといい」
摎は思い出したように持ち物が入った皮の袋をごそごそと漁ると、貝殻を取り出す。貝殻を開けるとそこには艶々と光る紅が入っていた。
指で紅を少し掬うと、摎は紅の唇をそっと撫でる。
美しい、目の覚めるような赤が彩られた。
「この色、王騎様の唇のように赤いから買ったんだけど、私には少し赤すぎて笑われてしまったから。紅が使ってくれ。まだ今は経験がないから少し自信がない、ならば王騎様の力を借りればいい。自信がついたらきっとこれは要らなくなるから、それまでの間、な」
摎から水の入った盆を渡され、水鏡をのぞき込めば真っ赤な唇の自分がぼんやりと見える。確かに王騎を彷彿とさせるその色は、見守ってもらえているような気持になった。
「うん、良く似合ってる」
「ありがとう、ございます」
「どうだじィ?」
「そういうのはよくわからん、話をふるな」
「朴念仁!」
子供のように頬を膨らませて摎は不服そうに言ったが、すぐに優しい顔に戻る。
「紅、応援しているよ。早くここまで来て、私と一緒に国を護ろう」
新兵にはもったいないくらいの言葉だった。
紅は何度もうなずいて、貝殻を握りしめたまま摎のいる天幕から出た。
「摎様は……すごい人ですね」
「そう、だな」
武官は一瞬そうでもないと言おうとしたが飲み込む。天真爛漫、お転婆にも程があったがその才覚は確かなものだ。
「あ」
「どうした」
「そういえば、貴方の名を聞いていませんでした」
「む、そうだったか」
「はい、貴方とかじィとか呼ばれているのは聞いていましたが」
「それは覚えんでいい、儂は昌文君と言う」
「ありがとうございます、昌文君。貴方が私を見つけてくれなかったら、私はきっと何も成し遂げられないまま死んでいたかもしれません」
紅はそう言って頭を下げた。
「私は、これで戦場に立つことができます」
その顔はもう迷いがない、凛とした覚悟の決まった表情だった。しかし昌文君は、その表情を見てけして安堵の念は抱かなかった。
「摎はああ言ったが、王騎を心の支えにするには存在があまりに大きすぎる。支えを作るなら、ちゃんと身の丈に合うものにした方がいい」
言われたことがあまりしっくりこなかったのか、「わかりました」と言いつつも紅の顔は納得がいっていないようだった。
言葉遣いは謙虚だが、どうにも顔に出やすい性格らしい。昌文君は注意すべきか一瞬迷ったが、今の彼女に何を言ってもあまり響かない気がして、この場はこれ以上のお節介をあきらめる。
「殴った男の件は儂から報告してやろう。とりあえずお前の上官のところへ案内せい」
「はい」
紅はぺこりと軽く頭をまた下げると、嬉しそうに笑う。今日初めて、この少女の笑顔を見たが、年相応の可愛げある笑顔だった。
先ほど差された口紅が目を引く。確かに紅の幼い顔立ちを大人らしく見せるにはちょうど良いものだった。口には出さなかったがよく似合っている。
「これだけしてやったのだから、初陣は生きて帰れ」
「はい、生きて帰って、摎様にお礼を言います」
叶うかどうかはわかりませんが、と軍内での立場の違いを気にして紅は苦笑いを浮かべた。
彼女に「儂が逢わせてやる」と言うべきなのだろうかと迷いながら、昌文君は朝日が昇ってきた空を見上げながらため息をついた。
結局、紅が摎と会話を交わしたのはこの一度だけになってしまったので、その願いをかなえてやればよかったと、のちに後悔することになるとは、その時の昌文君が知る由もない。
朝焼けが二人を優しく迎えるように包み込んだ。