あの列車での出来事から数週間が経過したが、降谷は仕事に追われていた。組織の一員としての個人的な活動も含まれていたが、大半は公安としての職務に準じていた。報告書の山に自分で頼んでいたとは言え流石に辟易とした息を吐きだしながら、部下の風見と共にパソコンに向かう。資料を片手に目を通していると、一際目立つのが空欄の多い【五条夜子】についてのファイルだった。降谷は一瞥しながら、手元にある【五条鶴丸】の詳細に目を戻す。
流石の降谷も頭を抱え額に指先を添え、息を吐きだした。
「五条鶴丸はこの世に存在していない、か」
「はい。戸籍情報の改竄を見つけ詳しく調べて見た所。五条家は三人家族でした。現在鶴丸国永という芸名で活動している伊達鶴丸の戸籍は存在しているようですが。しかし何故五条という苗字を名乗る必要があったんでしょうか。狙われるかもしれないというのに」
「彼女に近づくためだろ」
資料を机の上に投げ、再び息を吐きだした。降谷の口から出てくる彼女という言葉に、風見は一瞬躊躇う。それを見逃すはずもない降谷は「江戸川夜子」と付け足すように放つ。
「鶴丸国永は彼女の顔見知り。名はどれでも良かったんだろう。ただ【五条】という苗字を何故名乗ったのかは恐らく……誘起」
ネクタイの結び目に指を引っかけ軽く寛げる。降谷の机には冷めた珈琲カップが置かれていた。
「人で遊ぶのが好きみたいだからな奴は」
悪趣味な男だ、降谷は口元まで和らげた。そんな上司の疲労感に風見は鶴丸国永の資料を手に取り、もう一度目を通し始める。
「組織でも奴の事を知る者は少ない。五条家の生き残りを血眼になって探さなかったのは奴が五条鶴丸ではないと解っていたからだ。まんまと踊らされたな」
「江戸川夜子はこのことを知っているのでしょうか」
「いや、恐らく知らないだろう。彼女にとって彼が五条鶴丸でなくとも些末な事ではない。重要視すべきは彼女の知り合いであるかどうか。それだけだ」
「組織の仲間であることを知らない。ということは知らせていない」
「ああ。教える気はないだろう。奴は彼女に嫌われたくないらしい。それに他者が傷などつけようものなら首を掻き切られているだろうさ。だから組織も彼女に手荒な真似はしないんだろう」
「大事な駒、だからでもあるということですか」
「ああ。彼女の血、しいては彼女の組織細胞に隠された何らかの力。その能力を保持するために。それまでは何が何でも生かすだろう」
椅子の背もたれに身体を預け背筋を伸ばす。同じ体勢でいすぎた所為で身体が固まっていたのか骨が小刻みに鳴り響く室内。隣に音も無く気配すら感じ取らせず寝首を掻くかのような動きを見せる髭切が報告書を両手に立っていた。優美に微笑まれると風見は驚き椅子が転がる中、降谷は平静にその報告書を受け取る。
「相変わらずのようだな髭切」
「おや?君が言ったんじゃないかいつでも相手をしてあげると」
「今は勘弁してくれ…処で守備はどうだった」
「うんそうだね〜勘が佳すぎる、かな。まるで此方が目を付けている事を気取られているようだったね」
報告書に目を通しながら降谷は、眉を顰める。
「隠密行動が得意なきみでも、となると厳しいな」
「続けてはみるけどあまり期待はしない方がいいね。相手が悪すぎる」
「髭切さんがそこ迄言うとは」
「敵は侮れば侮る程愉しくはなるけど此方が不利になるだけ…渡り合うには脆すぎる、此方がね」
「きみに言われると耳が痛いな」
「すまないね。僕は根が素直だから」
「誉めてない」
降谷と同じ警察庁警備局警備企画課所属のひとり。実力はNo.2という追跡、尾行など隠密活動が得意な男。源髭切。見た目は降谷よりも美麗で年齢は同い年くらいの同僚。因みに周囲からは穏やかな仮面を被った鬼だと言われている。相手の返り血を浴びた状態で公共の場を歩いていた事がきっかけだった。降谷同様、女性に不自由はしていない。見目が降谷同様いい為、ふたり同時に並ぶと圧倒され男性職員は皆離れていく。報告書に承認を受領し、受取る髭切。ふと、視線を降谷のデスクの上。積み重ねられたタワー資料の一番上にある【五条夜子】のファイルへ向ける。そこには対象者の写真が2枚挟まっていた。1枚は黒髪黒眼のセーラーを着た少女。もう1枚には白銀の髪に紫眼、ブレザーを着た少女。髭切は目を細めると降谷はさり気なく写真を隠す。
「黒髪が五条夜子なんだよね。何故白銀の方も入れておくのかな」
「女性に興味のないきみにしては珍しいな」
「女人に興味がない訳じゃないよ。ちゃんと相手をしているから。でも僕が聴きたいのは降谷が気に入っている白銀の娘、どうして写真持ってるのかなって」
降谷は黒髪の方の写真を取り出し、端末機を片手に画像を画面に表示させ髭切に見せる。どちらも黒髪に黒眼の少女が並ぶ中。髭切は特に驚くこともなく画像の方を指す。
「可愛いね彼女」
降谷はその回答に表情を曇らせる。隣りに居た風見は驚き目を丸くさせていた。
「見分けがつくんですか」
「つくも何も顔は似ているけどどちらも別人だよ。それくらい区別がついて当然じゃないかな」
笑みを浮かべ遠まわしに風見を責める物言いに風見は「申し訳ございません」と頭を下げた。それを余所に降谷は端末機をしまい、再び画面に向かった。
「きみは絶対彼女に近づかないでくれよ」
「ええ〜どうしようかな。君がそんなに牽制するなんて珍しいからうっかり会いに行ってしまうかも」
「それは許さない。折角口説いてる最中なんだ、横から掻っ攫われたくない」
「ふふ、いいね。憶えていたら努力するよ」
画面から視線を外し髭切を睨みつけるその鋭さに髭切は知らぬフリをして笑みを浮かべるだけ。だが伝え忘れていた情報があったのか、髭切は「話は変わるけど」とあっさりと腰を折った。
「彼は定期的に連絡のやり取りをしているようだよ。相手は江戸川夜子ちゃんではないと確認済み。日時は疎らで特定は不可能だけど、その連絡を受けると必ず姿を晦ませるようだね。刑事課の人間がぼやいていると、弟経由で情報が入ったんだけど。真面目な粟田口が時々会議を欠席することがあると。普段の行いからか咎めるまでにいっていないようだ」
「職務を放棄する程の内容か、或いは相手か……その辺りをもう少し絞って探れ。人員は割いても構わない」
「じゃあ弟を遣わせて貰おうかな」
「任せる」
降谷の一言に頷き、髭切は背を向け去っていく。職務は真面目に、取り組むような男ではない髭切だが事件、特に人が殺されるような血なまぐさい関連に関して、髭切以上に仕える人員はいない。だがあの好戦的な瞳は困りものだと降谷は息をついた。
「粟田口一期。品行方正、絵に描いたような真面目で優等生。主席で合格し刑事課へ配属されたキャリア。だが三波殺しに関与している噂がある男」
風見が読み上げると降谷は頷き、冷めきったカップを手に喉へと流す。
「6歳児の少女の言葉が正しければ、ですが」
「侮れないさ。たかだか子供でも鋭い子は鋭い」
「私なら己の足場を崩しかねない不確定要素は取り除きます」
「確かにそうだ。だが意外にも単純な理由かもしれない。引き続き粟田口の件は髭切に任せる、風見は必要になった時、補佐に回ってくれ」
「承知しました」
空になったカップを置くと取り替えるように、新しく湯気が立つカップを置かれた。その相手は見なくともわかるのか、降谷は再びキーボードを鬼のように叩きながら彼に声をかける。
「すまないな膝丸」
「いや、構わない。兄者が絡んでいたからな詫びだ」
「膝丸さん」
風見が立ち上がるがそれを制して座っていいと気さくな対応する源膝丸もまた降谷と同じ部署に所属している者。髭切とは兄弟で兄より弟の方が意志疎通が可能だと言われている。部下からの信頼も厚く、意外に世話焼きで時々差し入れをしてくれることも。彼の淹れる珈琲は格別に美味いと評判がいい。風見にも注いだのか彼のデスクにもカップを置いた。湯気が立ち込めるその珈琲は香りを嗅ぐだけで美味いと解る。持ち手に指を引っかけカップを口元で傾ける降谷のデスクに報告書を膝丸は置いた。
「怪奇現象についてだが、被害にあった現場検証も終わったのでなまとめた。これだけ各地で暴れまわっているのに負傷者が出ていないのは不幸中の幸いだな」
膝丸の報告書にも添付されているが現場となった建物には深い刀傷などが散乱している。人間がもしもその場に居ればひとたまりもないのは明白。そう、人間であれば……。降谷は手を止め報告書を流し見る。添付されている画像を横目にその惨状に目を閉じた。
「今回の列車だが。物証は刃渡り5尺。つまり150センチの長さを持つ刀で車体を切断したものと鑑識が言っていた」
「人間が扱える代物ではないな」
「実際に扱っていたのは人間ではないからな」
「妖の類ではないだけマシかもしれんな。正体は知れた事。ただ視認出来ない以上上は認めないだろう。降谷が視たと言えども上層部はそんな簡単に腰は上げない。一応動きを見せてはいるようだが…まあ、まだ弱いな」
「仕方ないさ。俺が目撃しただけで記録として撮れた訳ではないしな。まだまだ怪奇現象の類の話だ」
「時機に立証出来るだろう。兄者も我慢はしない性質だしな。降谷が懸想している女人の事もあるから……どうした降谷。そんな顔をして」
「風見…お前。膝丸に見せたのか」
「た、対象者を教えないで業務に事を当たるのは難しいかと…」
「別に俺は興味がないから案ずるな。ただ兄者は気になっているようだから会うかもしれん」
「止めてくれ弟として是非、止めてくれ」
訂正なしで上げられる数少ないその報告書を呆れながら、許可印を捺す。
降谷の手を煩わせない膝丸の仕事は誰もが一目を置くに値するものだった。捺印を貰った報告書を片手に兄の声に反応を示し、現場へ向かうその背をじと目で見つめながら、降谷は珈琲を一口含む。二、三度喉を潤してから机に置き、再びキーボードを叩く単調な音をが響く中、風見は全ての資料を片手に顔を上げ降谷の横顔を見つめる。
「【五条夜子】について調べなくていいのでしょうか」
降谷の手は止まらず打ち続ける。
「これ以上の情報が得られる宛てがあるのか」
「無い事もないかと」
「聞かせてくれ」
最後のボードを押し終えた降谷は報告書を完成させプリントアウトしていた。風見に向き直り降谷は彼の見解を訊こうという姿勢になる。
「江戸川夜子です」
「……続けろ」
降谷の空気が一変する。一瞬で殺気が含むあの視線を風見へ向けた。畏怖すら憶える降谷の雰囲気に喉を鳴らすが、風見に彼は催促をするため、風見は咳払いをしてから続けた。
「彼女と五条夜子はやはり何らかの関係性があるのだと思われます。即ち江戸川夜子の情報を手繰っていけば自ずと五条夜子に辿りつくのではないでしょうか」
「…確かに。彼女達は名前や容姿まで似ている。他人の空似では誤魔化せないものだ。だがあの二人は全くの別人であることを彼女が言った時点で見解の破綻だな。それに組織が鑑定までして血縁関係者ではないことまで明らかにした以上、あのふたりは赤の他人であることは明白」
「では、江戸川夜子について私が調べます」
「俺だと不安か?」
「いえ、一方で調べるより多方面で調べるのも一理かと思っただけです。降谷さんは江戸川夜子の監視も行っているため情報を得られない点も多いでしょう。なら手訳をした方が」
風見が言葉を言い切る前に降谷はその言葉を遮るように椅子を引いた。壁にぶつかる椅子の音で風見が口を閉ざす。プリントが終了した音に導かれるように回収し、製本する。
「江戸川夜子が【五条夜子】の事を知っているとお前は言いたいのか」
冷徹な声に風見は身を竦ませるが、頭を振って応えた。
「はい。彼女は五条夜子を知っていると思われます」
「…好きにしろ。但し、任せている業務を疎かにするようなら手を引かせる、いいな」
降谷はそれだけを告げて背を向けたまま報告書を片手に退出した。その背中を見送りながら風見は降谷のデスクの上に微動だにしない【五条夜子】についての資料が置かれていた。
「降谷さんは五条夜子に囚われている」