傘を差しながら迷いのない足取りで向った先は、杯戸病院。全てのはじまりはここからだった。
傘を畳み傘入れに納めると院内は消毒の匂いに溢れている。陰気漂う病院内の空気はあまり似合わないな、と浮上した少女と照らし合わせては濡れた衣服を叩く。待合室の片隅に腰をかけ雑誌を手にし、読むふりをして時計を確認。そろそろかと思った所で、江戸川夜子が診察室から出て来た。看護士と知り合いなのか注意を受けているようだ。頭を下げてへらりと力が抜ける笑みを浮かべている。相手の看護士もその表情を見るなり最後は表情を和らげていた。
耳に携えたイヤフォンマイクを軽く叩くと起動し始める。
「 もう夜子ちゃんったら本当に病院好きよね。というか怪我が好きなの? 」
『 いやいや。好きじゃないですって。怪我するの好きとか究極のドMじゃないですか。私はどちらかというとSですよ 』
「 確かに 」
『 いや、否定するところだよ。ここ 』
「 まだ熱引かないんだってね。処方箋のよく読んで飲むのよ 」
『 ドラック漬けの危ない人じゃないのに何でそんな風に言われるのか不思議だわ 』
看護士はまた笑う。今度は喉を震わせて。そんな看護士をむくれる素振りを見せるものの彼女は、何処か穏やかな表情で看護士を見つめていた。彼女たちに駆け寄る影が訪れる。粟田口一期だ。
「 夜子さん。会計も済みましたので行きましょう 」
『 一期。ありがとう 』
「 いいえ。お母上に任せれましたので 」
「 なんか結婚の許しを得た婚約者みたい 」
「 そんなようなものです 」
『 ぃ、いちごッ、心臓の準備していないときはやめてくれ 』
真っ赤な顔をして照れている彼女を目視しながら、手にしていた雑誌がひしゃげた。軟いなこの紙の束。粟田口一期を監視している膝丸の咎めの声が聴こえた。同僚の抑止に息をひとつ吹かせて「悪い」と告げた。能力に準じて定めたが膝丸の容姿を注目すれば、見目が頗る好過ぎた。現にすれ違う看護士が奴を視界に捉える度に頬を仄かに染め崩落している。彼女は見目の好い男に態勢があるようだから、あの程度なら何ら問題もない、はず……いや、でも顔が好い男が好きだと本人でさえも言っていた事を思い出すと……ひしゃげた雑誌が更に丸まり紙の束から残骸へと変わってしまった。万が一にも相手にその気がなくとも彼女本人があの顔が好みなら話は別だ。ハニートラップなるものを仕掛けてきたがもし、膝丸の容姿が最良なら代わるべきなのか…いや、あいつは組織の人間ではない以上。彼女を監視する役割は自分にしか出来ない事案。ほっと胸を撫でおろし再び彼女たちの動向に目を向けた。
看護士に別れを告げ、彼女と粟田口は外へと向かう。傘立てに入っている青い傘を取り出し粟田口は彼女に傘を傾ける。駐車場へ歩きだすふたりは確かに他者から見れば仲睦ましい恋人のようだ。それくらい互いに適度に気を許している事が伝わる。それは彼女が粟田口一期を信頼している証拠。車へ到着すると助手席を開け彼女が乗りこむまで傘を傾けてから扉を閉めて運転席に回り込み。後部座席に傘を収容。運転席に乗り込み数分後、車は走行を開始した。既に膝丸が車を発進させ追尾している。俺は盗聴を頼りに遅れて車に乗り込みギアを引く。
「 軽傷で済んでよかったですね 」
『 うん。まあ…今回ばかりは死を覚悟したよ。運よく生き残ったけど。いやーよかったよかった 』
「 検非違使が出てくるとは私も読めませんでした 」
『 時間を取り締まる彼らが登場したってことは…やっぱり私が引き寄せたのかな 』
「 いえ、それはないと思います 」
『 じゃあ一体誰に引き寄せられたって言うの 』
「 夜子さん。気に病むのは悪いことではないですが、病み過ぎるのはよくない。あなたは充分に自分の役目を果たしております。もう少し胸を張っても罰は当たりますまい 」
『 ……そうかな。結局、私は誰も守れていないのに 』
鼻をすする音が聴こえ、彼女が落ち込んでいる事を知る。やはり気に病んでいたのは……不謹慎にも口角が上がっているのがわかる。
「 でもあなたは守ったではないですか。乗客と彼を。こうして生きているだけで設け物ですよ 」
『 一期…それって博多くんの真似? 』
「 バレましたな 」
『 似てる似てる 』
軽やかな笑い声に目尻が柔らかくなる一方で、それをさせたのが異性でしかも粟田口だと思うと複雑な気持ちに陥る。本当にあの男はいつか化けの皮を剥がし白実の下にその身を晒してやる。と言った概念ばかりが膨れ上がった。
「 少し寄り道をしましょうか 」
『 どこに寄るの? 』
「 先日仰られていたパフェの美味しいお店ですよ 」
『 うわぁ――い!一期おっとこまえぇ!! 』
「 それは光栄ですね 」
手放しに喜んでいる彼女の声にアクセルペダルを強く踏み加速してしまった。軽率に好意を示す言葉を口にするんじゃない。無防備か。その男は重要参考人に浮上している男だぞ。あの小娘……。だが、歳相応なその態度は少し安心した。ああ、彼女はやはり高校生だな。
車がパーキングに入ったのか、膝丸から一報が入り。尾行を続行。駐車場に遅れて停車させてからイヤフォンを頼りに歩きだす。ショッピングモールの中に位置する店舗内に入ったと報告が入る。店内の出入り口付近に座るよう指示を出してから向っていると、ノイズが走り次第に明瞭に届く声に立ち止まった。
「女性に仕掛けるにしては些か物騒ですね、安室透さん」
顔を上げると階段の上には膝丸が協力者に頼み彼女に仕掛けた盗聴器を手に、粟田口一期が静かな眼差しで此方を見降ろしていた。イヤフォンマイクに配る無線を切り粟田口一期と対面する。
「奇遇ですね粟田口さん」
「白々しく振る舞って頂かなくてもあなたの所在を彼女に教える事は致しませんよ」
盗聴器をひらりと投げてよこされる。それを受け取り見上げれば粟田口は手すりに寄りかかりながら、腕を組む。
「あなたがつけている事は初めから知っていました。勿論、あなたのお知り合いが彼女に盗聴器を仕掛けた事も、ここ最近私の近辺をうろついていらっしゃることも存じております」
美しく弧を描く粟田口の微笑みは、圧巻されるものがある。まるで鏡を見ているようだ。
「此れ以上彼女を困らせるのは辞めて頂きたい。あなたが関わることで彼女は心を病む…いえ、あなた“が”ではありませんね。あなた以外でも知り合いであれば瑕つく。彼女はそういうお人です。視認出来ないあなたが彼女を護れるとでも?ご冗談を……うぬぼれるのも大概するべきですな。人間の悪癖はそういう点ですね。道具はいつまでも道具だと勘違いされているとその道具に喰い殺されますよ。最も彼女を道具だと黙認するならば私は存分に食い破りましょう」
「……饒舌ですね今日は。いつもは慎ましく口を閉じられているというのに」
粟田口はその彫刻のような美しさと淡い水を放つ髪を揺らし、手すりから身体を離す。閉じられた瞼から覗く琥珀の瞳は冷気が漂うかのように、いつもの澄ました柔らかい表情から一変した粟田口一期の姿に、口元を寛げた。
「あなたが三波という男を殺したと、もし夜子さんが知ればどうなるのでしょうね」
「私が殺したという証拠でも?」
「いいえ。ただ目撃者がおりまして、僕も詳しいことまでは知りませんが……時間の問題かと」
「ふっ、脅しですか。バーボン、というコードネームだけあって甘く苦味もあるようですな」
やはりこの男。組織と繋がりがあるのか。堂々とコードネームのことを口にしたということは知られても問題ないということか。こちらに自身の存在を。
「人間に理解されたいとは思いませんが、私はあなたよりは真っ当ですよ」
粟田口一期が虫も殺さぬ顔をして笑むと、その背後に蠢く殺気を感じ取り思わず身構える。真っ当な人間が放つ殺気ではないことは明白だった。額から滴がしたたり、顎を伝って落ちていく。
「あなたを牽制した所で纏わりつく虫は耐えないでしょうな。あなたの執念には感服いたします。しかしながら……決して彼女はあなたに心を開く事はないでしょう」
流れるように粟田口は背を向けて颯爽と去って行った。その背中を追えばいいだけの話だったが動けなかったのは事実。人間を人間とも思わないあの瞳……あれが警察官だと?笑わせてくれる。前髪をかきあげ一息つきながら彼女が居る店の前までやってくると、彼女の隣に呼んでもいない髭切が堂々と座りスプーンを片手に「あ―ん」とか言っている音がイヤフォンマイクの無線から流れた。
『 え、あのっ…え、え゛ 』
「 いいからいいから 」
髭切は戸惑っている彼女の口に遠慮なくスプーンを突っ込んだ。喉の奥まで勢いよく入っていったのかスプーンを抜きとると咳込んでいた。盛大に咳をする彼女の背中を躊躇いも無く髭切は手を乗せ擦る。あの男何をやっているんだ……思わず壁ついていた手に力が籠り壁に亀裂が生じる。
「 ごめんね。大丈夫? 」
『 あ、はあ……ぁのなんで髭切がここに 』
「 ん?えっとね〜君に会いたくて来ちゃった 」
『 ……へぇ 』
抑揚のない彼女の声に拳を握る。軽蔑もしているのかあの目つきには憶えがある。彼女が俺によくする視線だ……思わず壁に額をつけた。
「 ところで君の近侍は? 」
『 一期なら席を外してるけど……てか何で一期の事知ってるの。あと近侍じゃないから 』
「 まあまあ。細かい事は気にしないのが一番だよ 」
『 いや気にするだろ。というか何で隣に座ってるの。何処の髭切なの 』
「 僕に興味があるの?気が多いお嬢さんだね、嫌いじゃないよ。じゃあ詳しく教えてあげるからこっち来て 」
髭切に半ば引っ張られている彼女の身体が傾き髭切の唇が、彼女の口の端についた生クリームを舌で舐めとり、壁に生じている亀裂が砕け一箇所だけ粉砕した。真っ赤な顔をして彼女は瞳の淵に涙を溜めながら髭切の顎に頭部をぶつけるという渾身の一撃を奴に喰らわせていた。
『 なにすんだ 』
「 クリームがついてから取ってあげただけだよ 」
『 口で言ってくれ 』
「 君の周囲にもこういう事してくる男が居るだろ 」
『 ……あ 』
「 それと比べたらまだ可愛いものじゃない? 」
『 いやどうだろう。嫌がらせのレベルからすると五分な気がする 』
考え込む彼女の腰に腕を回し指先が腰骨を撫で顔を近づけさせている髭切に、逃げ惑うように両手で顔を押しのけている。足先が前に踏み出た瞬間、膝丸が飛びだし仲裁に入った。
「 兄者!公衆の面前で女人を口説くのは控えてくれと言ったはずだぞ 」
「 いやぁ弟。遅かったね 」
「 うっ…すまない。通りが混んでいてな 」
『 膝丸 』
「 き、きみが…あの……っ 」
仲裁に入った男、源膝丸。硬派な一面が売りで女性からは「誠実だけどもう少し気持ちにも気がついて欲しい」兄者の尻ばかり追いかけている弟なのだが……明らかに同僚が桜を舞わせている気がした。
「 写真では見ていたが実際に対面すると…こう、クるものがあるな 」
「 だね。生々しいというかなんというか…いいよね、女の子って。しかも女子高生 」
「 兄者。立場的にその手の発言は範疇を超えるものがあるぞ 」
『 ふたりとも前乗り派閥? 』
彼女が訊ねるとあの兄弟は揃って頷いた。
『 そっか… 』
「 君に仕えている奴はいないのか 」
首を縦に振る彼女に膝丸は対面の席に座る。
「 ひとりで大変だったね。僕らも協力出来る事はしたいけど視えないしね 」
「 事情を説明するにしても要領を得ないだろうしな 」
『 ありがとう 』
彼女は笑みを兄弟たちに浮かべた。その姿は健気で、誰もが息を呑む。
『 君たちは今を生きないと。折角の人生なんだから楽しんで欲しい、君らの主君に代わって私もそっちの方が気分いいから 』
「 良い子だね、きみは 」
「 君に何かあれば頼ってくれて構わない。君ひとりが背負わなければならない業ではないからな 」
『 ありがとうふたりとも……早速頼って悪いんだけど膝丸。こいつ何とかして 』
全力で抱きしめる腕から逃れようとしているが、彼女の腕は限界が近いのか震えていた。膝丸が髭切を窘め抱きしめる腕から解放された彼女は、やっとひと息つける。すると髭切がこちらに気がついていたのか、今気がついたのか眩しいほど笑顔を浮かべてきたので耳をトントンと指し小首を傾げる。
「ん?なぁにかな?」
「お前ら戻ってこい。可及的速やかに、俺の手を煩わせること無く直ぐに戻って来い」
無線に流せば膝丸が「あ」と今更思い出したかの様に振り返り俺を視界に捉えると「兄者」と立ち上がる。弟に急かされても「え〜」と彼女の隣から一向に動く気配を見せない髭切だが、膝丸に引っ張られる形で半ば強引に立たされている。それから慌ただしく彼女に別れを告げ同僚達が一定の距離を保ちながら俺の後ろに続き、非常階段へと集まると振り返り腕を組む。
「彼は何に怒ってるの?」
「いや、多分彼女のことじゃないか兄者」
ヘラっと悪びれもなく髭切。その隣に膝丸が若干の察しがついていながらも単調的に答えた。
「説明しろ」
「そう催促されても俺は途中参加出しな」
「説明するような中身はないよ。だってまだ手を出してないし」
「出すな。出してたら俺がお前の首を刎ねる」
「降谷がすごく怒ってる」
「兄者、成り行きを説明するくらいしてやってくれ」
「ん〜そんなに気になるのかい?降谷。僕らの会話を無線とはいえ盗聴していたのに」
「電源を入れっぱなしの悪趣味な奴に言われたくない台詞だな」
「それもそうか。成り行きか……会いたかったからかな、きみを虜にした女性がどんな娘か」
「ほぉ……お前には別件を頼んでいたがそれを返上する程の魅力があったと。どれだけ僕のことが好きなんだお前は」
「そりゃきみに武力で敗れてしまったからね。悔しいじゃないか」
「それと何の関係があるんだ」
「そうだね、関係はないけどきみが嫉妬で狂う鬼になるのを横目に見るのは楽しいかなって」
「兄者…言葉は選んだ方がいいと思うぞ」
容赦なく髭切に拳が飛ぶがあっさり受け止められ爛々に輝いていた。こいつも悪趣味な奴だ。それを横目に膝丸は行末を黙って見ていた。
「膝丸も弟なら止めろ。彼女に近づきすぎるのはこの後の業務に差し支える」
「その件についてすまない。邪魔するつもりはなかったんだが……俺たちが彼女に近づくと組織の者に露見されかねない、だったな。わかっている……これからは友人として適切な距離を保って傍にいよう」
足が膝丸へと飛んでいく。それを軽々と防御し、何故だという顔をするこの天然に何を告げようかなどない。言葉はないが武力はお前たちに用があるんだ。
「近寄るなって言ってるんだ」
「何故だ?彼女の盾は多い方がいい」
「弟丸違うよ。彼はね自分以外の男が近寄る事が赦せないんだ」
「兄者……それはおかしな話だ。まだ降谷の番でもないのにそれは個人の業だ。彼女に強要していい領分を越えている。それから俺は膝丸だ」
「でも人間は常に愚かな生き者だから己の感情で物事を判断する。自分の所有物として位置づけていながらもその直情に気がつかない、とかね」
「人間というのはなってからも俺には理解を超える生き者だな」
足を下げ身なりを整える。髭切の言葉の意図を深く考える事は憚れた。ここでそんな事を考えてしまったら後にも退けない所まで落ちてしまいそうだと、感情が制御をした。
「でも、素直に生きないと疲れちゃうから僕には一生理解できないかな」
総てをなし崩しにした髭切の発言に、膝丸同様取り残された。結局何がしたいのかよくわからない。頭を抱えると膝丸が咳ばらいをする。
「俺は対象の尾行を続行する。彼女から連絡が入ってどうやら合流したようだ」
「じゃあ僕はもうひとりの方でも探ろうかな。風見が手を上げていたから」
「鶴丸だったか。兄者なら尻尾を掴めるかもしれんな」
「そうか……連絡先をいつ聞いたんだ」
「先程だが」
「あ、僕も知ってるよ」
蟀谷がぴくぴくと痙攣していた。この兄弟いつか絶対に……と心に誓う。
「お前たち彼女と知り合いみたいな口ぶりだったな」
「知り合いも何も生まれる前から知っているよ」
「知っているというよりお互い間接的に顔見知りというだけだ」
「……はあ」
知り合いだとしても彼女の周囲は一体どうなっているんだ。顔が佳すぎる男ばかりと知り合いというのは一体どんな人生を歩めばそういう事になるのか。彼女だって顔は悪くない。寧ろ可愛らしい上に将来美人に成長をする保証もある。全体的に小さいためにその動きは小動物のようで愛らしくいつまでも見ていたいとも思うし、彼女が傷つく度にどうにかして……そこで息をこぼした。
全員に持ち場に戻る最中、振動する。取り出すと悩みながら書いたのか、いつもより言葉数の少ない彼女からの文面に目を通し、この一文だけを彼女に添えた。
―――今夜電話します
守る、守らないという次元ではない。
彼女はただの盤面の上の駒。クィーンを取られてはいけないゲームに、上がったときからこれは任務にすぎない。
そこに感情は必要ないーーー。