夜のしじまに




一期の姿のまま屋上に留まっていると二課の刑事たちが現場保存のために屋上へ雪崩れ込んできていた。事情聴取を軽く済ませた彼は階段を降り地上へと足をつける。減らない靴底が砂を踏み人通りのない脇道へ逸れれば、木々の間から変装なしのベルモットが木に持たれさせながら腕を組み、帰りを待っていた。美女を視界に映しても一期は表情を変えることなく首筋にあるとっかかりに爪を引っかけそのまま一気に脱ぎ取る。

「お疲れさまバーボン。お姫様との追いかけっこは楽しかったかしら」
「ええ、とても有意義でしたよ」

変装マスクを外し髪を整える首回りまできっちりと止めたボタンを寛げ、バーボンは細く息を吐きだす。美しいアイスブルーの瞳が美女を捉えながら変装マスクを片手に木へ背を預けた。

「僕はてっきりあなたは継母なんじゃないかと思っていましたよ」
「あら、それは白雪姫に毒でも盛りたがってるって意味かしら」
「ええ。あなたは姫に近すぎる。そして何よりあなたほどの女性が利益にもならない小娘の依頼を引き受ける、というのがどうも腑に落ちません」
「ふっ、その小娘に絆されてるロミオに言われるとは思ってなかったわ。それは忠告?それとも嫉妬なのかしら」
「ああ、そうですね。嫉妬です。何故あなたに頼ったのか。それがどうにも噛み砕けません」
「女が一番信頼しているのは、女なのよ。それも自分とは関りのない切り離された女を女は信用する。言い寄る男に弱味を見せるなんて、馬鹿げたことなんてしないものよ」

ベルモットは口寂しげにバーボンへ近づくと彼の肩から手の甲にかけてゆっくりと指を這わせ下る。産毛に触れるかのようなやわな指の腹が下る度にバーボンは女の香水の臭いに顔を顰めた。ベルモットは口許を軽く引き艶麗に目尻を下げる。沸き立つ色香は少女にはない艶やかさが際立った。

「だから、女の園に入って来ないで頂戴」

色艶が含まれるその吐息が、肌の上に落ち耳殻に触れる。バーボンは微笑みのままにベルモットが触れる腕を引き彼女から逸らした。

「そうしておきます」

バーボンの崩落させる微笑みに、ベルモットは鼻を鳴らし離れると視線を逸らして気怠そうに言葉を溢す。

「それにしてもあなたも大胆ね。シルバーブレットの前でギムレットに変装したがるなんて」
「……ギムレットは鶴丸国永ではないのですか」
「あら、言ったわよね。彼に実態はないのよ。誰も彼もがギムレット。定まった容姿で会う事なんてないわ。あなたが変装した彼もまたギムレットがよくする変装のひとりよ」
「そうでしたね、ええ、でもまあ尻込みしていては何も得られませんからね。以後気をつけます」





■□■






闇が深まる森の中。平坦な木々が風ではないものに揺れ動き、俺は足を止めた。誘われるがままに此方へ来た。静寂を保つ木の葉の囀りに視線を走らせ腰を落とす。草を踏む音に声をかけた。

「もうかくれんぼはやめにしようぜ、いち兄」

明確に名を告げるといちにいは俺達弟の前に立つようなあの、優し気な微笑みを浮かべながら姿を見せた。月光さえも届かないこの暗闇の中で。

「薬研。いいのかい。お前の主を放りだして此方へやって来て」
「大将の事は名探偵殿に頼んでいるから心配ない。それよりいち兄こそこんな所で何をしているんだ?先行して大将の元へ向かったものとばかり思っていたが」
「あれは私ではないよ。薬研、お前ほどの偵察力があればあれくらい見破れるだろう」

頬を裂くような刃に口を閉ざしては、細々と息を口からこぼした。鼻で吸うには息苦しい。襟首に指を引っかけ寛げつつ手を広げて冗談めたく振舞う。だがいち兄は鮮麗された姿のまま風に吹かれただ静かに笑みを浮かべるだけ。それが妙にざわつかせた。胃もたれであればどれほどよかったことか。瞼を伏せれば弟たちと共にまた大将も浮かぶ。ああ、きっと泣かせちまうな。大雑把に見えて脆く感傷的な我が主は気を病むことだろう。それを危惧した俺たちの本丸に顕現したいち兄は言葉にした。だがそれを断ったのは俺だ。そして大将もきっとそう決断することを俺っちはわかっていた。

いち兄、と掠れる声で吐息交じりそう告げばいち兄は、なんだい。と俺っちの言葉を待つ。懐かしくなるほどあれは一期一振であり。我らが粟田口吉光公が打ったとされる太刀であることを痛感させられた。

「あんたは誰なんだ」

汚濁しきったいち兄の周囲の空気は木の葉を枯らせるだけでは飽き足らず。その周辺の生命を根絶させていた。朽ちて逝く草木、澱む空気に鳥が空から落ちてくる。もうあれは人間でも刀でもない。一期一振なんてものでもない。あれはただの――――

「お前に私が受け止めきれると、そんな馬鹿気た発想をするのはあの能天気な自己犠牲型の偽善者の所為だね」

言葉を荒げいち兄の周辺は益々腐敗していく。空気汚染が進み袖口で鼻と口を抑えつつ眼に映す。いち兄の片手には端末機が握られそのブラックアウトされている画面から不浄が流れ出ていた。液体が滲み重力に従って側面を沿って雫が地面へと伝っていく。その落ちた地面からは時間遡行軍の短刀が生み出される。

「これは疑似でね。本物ではないんだ。だが人間を殺すだけなら事足りる」
「いち兄。目的はなんだ。いち兄は感化されて動いているだけだろ。あんたに意志はない」

断言して告げるといち兄は「そうか」と呟きながら笑い声をあげていた。稲穂の瞳が鋭く鋭敏に変わり俺をその瞳に捕らえる。

「これからは私の意志だよ。だから薬研……お前の大事な主殿を護りたければ私を殺せ。でなければお前の主は私が殺す。この指で、この身体で、この顔で……粟田口吉光公より打たれた短刀、薬研藤四郎。刀と謳うならばその刃で喉を掻っ切るがいい。それがお前の限界だ」

迷いのない一路な殺意に喉が鳴る。震える指先を丸めて拳を作り、強く握りしめる。廉直な想いを向けられているのは俺ではない。刀剣でもない。ここまで突き動かす原動力は審神者だ。いち兄は審神者を憎んでいる。いや、もっと広く大きい……そうだ。いち兄は人間を鏖殺するつもりだ。
一歩、いち兄が地面を踏むべば俺は、固まった足のままに歯を食いしばる。それを手に取るように解っているのだろう、背を向けたいち兄は一度も俺を映さずにそのまま闇の中へと溶け込んだ。
辺りに静粛が訪れる。鼓膜を支配する心拍の音さえ遠く凪いでいた。そんな空間に無粋な電子音が鳴り響き俺は指先を漸く動かし耳へと当てた。

{ 薬研。あいつから聞いたか }
「いや。大将とは少し離れている。いま合流するところだ」
{ 今日中には話がいくと思うが、確信を得ちまったみてぇだ }
「そうか。いや、遅かれ早かれこうなることはわかっていたから、別に驚きはしないが…大将の様子はどうだった」
{ 電話越しでも十分伝わった }
「そうか…大将は底なしに優しいからな。相手の気持ちにばかり寄り添うから生きづらくなる」
{ それだからこそいいんじゃねえか。あいつがそうだからこそオレ達はあいつの元に集ったんじゃねえか }

旦那にしては実に非現実的な言葉だった。乾いた笑いを響かせながら地面を伝う。左右交互に土を踏み、草を蹴り、木の葉を揺らしていち兄の立っていた場所に到着すれば足元には腐った土と枯れた草木の他に、欠けてもいないSDカードが落ちていた。それを拾い上げ握りしめる。歯を合わせ力を籠める。瞳が揺れて虹彩が滲む。月光の輝きが眩しくて星々が霞、俺はしじまに酔いしれた。

「大将に会いに行ってくる」
{ ……オレが合宿でいないのをいいことに親密になったらお前の飯はハバネロパーリィーだからな }
「旦那が免許取るために合宿に行ったんだろ。そんなこと知った事じゃないな」

和泉守の旦那が機械越しに怒鳴る。耳から離して森を駆け抜け、暗闇から抜け出すと名探偵と共にいる大将を見つけ出す。小さな身体にしがみつき、貧弱な身体で彼女は真実を飲み干そうとしていた。大将は葛藤している。真実とやらを受諾しようと。それは伝わってくる。胸を撃つくらいひしひしと肌を伝って感じる。だが、大将の閉じられた瞳が開閉し、楚楚とした紫瞳には失われることのない輝きが浮かんでいた。

ああ、だからこそ俺っちは――――大将が大将であると認めたんだ。

「俺っちの大将が大将でよかった」
{ はあん?!オレの話聞いてんのか薬研!! }
「電波の調子が悪いみたいだな。切るぞ」

容赦なく電源ボタンを押し通話を終了させ、雫を払い立ち上がる大将の元へと駆け出した。


あんたが足を止めないのなら
俺はあんたが進む道に立ち塞ぐものを斬り捨てるだけだ。

仮令その道が悪鬼羅刹だったとしても――――





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