薄暗い森の中、一歩進むだけで草木が語り掛けてくる。

こっちへおいで……
こっちだよ……

風が揺らす度に幻聴が聴こえてくる中、足元にあった枝を踏む。パキ、と乾いた音で安室さんの逞しい腕にしがみついた。胸の前で腕を抱きしめ周囲を見渡す。誰もいない、何処にもいない。白い影も女の人もいない。よしよし、と確認しているが、多分隣を一番警戒するべきだと後で思った。

「はあ…軽率すぎる。控えめに言い繕っても驚異の破壊力だ。効果は抜群だ。なんだこの可愛い生き物は。神様の贈り物か?日頃から甘えることをしない不器用な彼女が素直に腕を掴みあまつさえ胸に押し付けられている。単刀直入に言おう愛しすぎて壊したい。寧ろ破壊衝動の方が群を抜く。幽霊万歳。ありがとう。普段全く信じていないが、きみらのおかげで至福の時を過ごせた。こんな愛らしいなまえさんが見れたし堪能できたし、はあ……記憶に精密に残せる自信がない。いや、待てよ…いまなら合法的に抱きしめてもなんならそういうことしても。大丈夫、僕が傍についているよと、綱渡り効果と相乗効果が加算されるんじゃないか。そういえばこういう場面では人間の心は物理的に恐怖への心拍を恋の心拍へと置き換えてしまうとメンタリストも言っていた気が……」
『い、いまっ声聞こえませんでした?なんか…イケメンなのに変態な言動をとる普段は知能派なのにここでは物理的ゴリラみたいな人の声が!』
「随分と明確な人物像を思い描ける情報ですね。いえ、僕には聞こえませんが。こういうスピリチュアル的なものは女性の方が感じやすいですし」
『怖いことを言うな!』
「まだ言ってないですよ」

安室さんの腕を無意識に抱きしめながら先を進んでいくとガチャっと音が聞こえた。森の中では相応しくない音に私たちは歩みを止める。

「どうやら招かれざる観覧者がいらっしゃるようですね」
『音、あっちから聞こえましたね』
「なまえさんはここに。少し様子を見てきます。迷い込んでしまっただけだとは思いますが」
『え、いっちゃやだ』

思わず口から零れてしまったこの何の意味もない言葉を私は「あ゛」と腕を解放した。

『どうぞどうぞ。行ってください。ここにいるので。ええ、お気になさらず。私は大丈夫です』
「あなたが望むなら一生放しません。死がふたりを別つまで…いえ死んでも放れません」
『今聞くと発言に深みが増してこえッ!』

両手を包まれ海老反りに避けて抵抗するが、完全に顔が近い。

『いいから行ってこい』
「放れがたし身を焦がすこの想いはどうすればあなたに届くのでしょうか」
『和歌を詠むな』

顔を背けて抵抗すること1分。仕方ない、という動作で安室さんは音のした方を見に行った。変な汗をかいたためハンカチで拭う。別の意味でどきどきしたわ。あぶねえ……。

どっどっどっ…と鳴りやまない心拍数。これ肺は破れないだろうか。私の肺は耐久性に優れているとは思えない気がするんだが。深呼吸を繰り返しながら首を上へ向け、宵の闇を眺める。外灯が少ないこの地帯は星の灯がよく見える。まるで天の川のように美しいその星々の輝きに「ほお」と息をついた。人里離れた場所から見上げる夜空もまた格別だな。後ろ手に組みながら数歩歩く。月も負けない明るさを保っているが、今日は三日月のようだ。三日月ってなるとやはり三日月じっちゃまを思い出す。じっちゃまは月を眺めながら盃を傾けるのが好きだったな。たまに誘われて酌をしていたが……あの日本酒美味かったな。

『神の創った神酒だからかな……酔わなかったな』
「まあ、三日月殿が好んで飲むくらいですから味に関しては申し分などないでしょう」
『じっちゃまだもんね……って、え』

声が聴こえた。それも背後から。振り返りたくない、寧ろ確認もしたくない。なんならこのまま走り去りたい道が続く限り。額から汗が滲み喉を上下に動かす。肢体へ垂れ下がる腕に拳を作り歯を食いしばって右足を一歩後退させ、左足を軸にゆっくりと身体の向きを変え背後の声の主を確認すべく視界が揺れ動き…そして、目の前には只管闇と森が続いていた。

『……幻か』
「下です主様」

足元へと視線を向けるとそこには白いもふもふな動物が尻尾を左右に、耳をピンっとたてて鎮座していた。独特なコーンっという鳴き声とその顔に目を閉じて空を仰ぐ。

ん――っと。えっと……犬?にしては耳が猫みたいに立ってるな。じゃあ猫?にしては大きいな。顔がシュっとなっていて凛々しい顔立ちだし。ん―――あれは………ッ。
もう一度足元へ視線を向けると大きな尻尾をゆらゆらと揺らしながら愛らしい顔をして「主様」と媚びるような声で呼ばれる。あ、これは間違いがない。

『小狐丸ッ』

名を呼ぶと突然人型になり「主様」と首に腕が周り抱きしめられ、その巨躯に支えきれずに後ろへ倒れ、若草の上に背中から倒れ込み、土の匂いが鼻をついた。頬つりをされながら「主様主様」と歌を歌われる。我が家の小狐丸ではないが、寸分の狂いはあれど小狐丸は小狐丸だった。

『あ、うん…小狐丸。久しぶりだね』
「はぁい。主様。お久しぶりでございます。はぁぁ…主様が私の腕の中にいらっしゃる……これは夢なのでしょうか。ずっと馳せておりました……夢ならば醒めないで頂きたいです」
『これ現実だってわかってて言ってる所が計画的すぎるぞあざとかわいい小狐よ』

冬名山とミステリートレイン以来だな。鶯丸と行動を共にしていると聞いていたが、周囲を確認しても鶯丸の気配や存在の認知は出来なかった。身を起こし地面に座り木の葉や土を払っている間、尻尾を左右にゆらゆらと揺らし“待て”をしている忠犬の頭を撫でてしまうのは飼い主としていい子を褒める原理なのだ。

『凄いふわふわ…え、何使ってるの?』
「そうですね。椿油を使用しております」
『(TUBAKI……?)』
「多分主様が想像しているものは使用しておりません。私が現在宿にしている所に椿があるのですよ。そこから拝借しているのです」
『天然ものか』
「宜しければ主様もご使用なられますか?」
『え、いいの?』
「はい。主様に喜んで頂けるようこの小狐色々とご用意させて頂きました」

懐から椿油が入っている小瓶が取り出され両手で受け取ると、他にも夏らしい貝の入れ物の中には紅。そして椿の花を一凛耳にかけられる。

『なんか貢がれてる気がする』
「主様は肌が白い故に赤が栄えますね」

髪を梳くように撫でられる。小狐丸は太刀を扱う故に成人男性より少し手が大きい。骨ばっているというよりは肉質がいい。頬を緩め口角を上げ小狐丸は愛おし気に触れてくる。そして……やっぱりあの髪って耳に見えるのか。

「主様。椿には魔除けの効果があるんですよ。どうぞ肌身離さずお持ちください」
『ありがとう……ってナニかいるんですか』
「ご安心ください。大方一掃してありますので」

聞かなきゃよかったな……

「一番危険なのは隣に戻ってくるあの男ですよ。気をつけてください。主様はおんに愛らしいお方。変な気なんて簡単に起きてしまいます。そう隣を歩くだけで」
『それは危険通り越してクレイジーだよ、小狐丸さん』
「チッ…そろそろ戻ってきますね」

ナチュラルに舌打ちかましたんですけど。
私より耳がいいのか、気配を感じ取るのが巧いのか。小狐丸は忌々しそうな顔をして最後にもう一度抱きしめてきた。そして額にふにっと柔らかな感触がして「え」と思う前に小狐丸は離れがたそうに数歩後退していく。

「いずれまたお会いいたしましょう。いつでもあなたの傍に」

闇の中に溶けていく真っ白な小狐丸。後ろからカサカサっと草をかき分ける人の足音が聞こえてくる頃には、狐に化かされたんじゃないかと勘違いしてしまう程。跡形も残っていなかった。けれど私の手の中には確かに小狐丸がここに居たことを証明される品々が握られていて。くすりと喉を震わせた。

「なまえさん!」
『うわっ!』

突然目の前に飛び出してきた安室さんは何処か血相を抱えて私の腕を掴むなり、道から外れた森の奥地へと走り出した。

『ちょっなに?!』
「口を開くと舌を噛みますよ」
『はっ!へ?!』

目を瞬かせている間に腕を引っ張られ身体が前に出ると腰に腕を回し太腿に手を置き膝を遣って下半身が宙に浮き身体が持ち上がると背中に腕を回し、固定。安定したお姫様抱っことなり首に腕を回してしまう。そうしないと落ちるからだ。

「しっかり掴まっていてくださいね」

そう念を押されるが、彼の肩口から後方へ視線を送ると何者かが此方を追って来ていた。それも複数人数。一体なにごと?!ギャングか!バーボンか?バーボンがなにかやったのか。思わず彼へ視線を向けると違和感に気がつく。じっと見ていたら目が合い、微笑まれる。だが、私は若干色の違う皮膚部分を見つけそこに爪を引っかけ空気を含ませると指先で掴み一気に剥がした。
中から現れたのは年若い青年で、ニヘラっと引きつった笑みをこちらに展開する。

「どうも……」
『仮装パーティーにしては手が込んだ変装だね。君はだれなの?』
「話せば長くなるから省略させてもらうが……今は一緒に逃げてくれ頼む」
『なんで私が……!』

切羽詰まったイケメンの頼みだが、何故私までもが逃げないと行けないのかと悪態つく前に私の耳に届く。木々をかき分けるゴリラの音が。青褪めていく顔色のまま彼の首にしっかりとしがみつき共に逃げる事に同意した。





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