名も知らぬ花香

「あ、黒猫」
最近見かけるようになった黒猫。学園に住みついている訳じゃない。首輪があるから飼い猫だと判別がつくその黒猫は子猫のような体型だが意外に利口だった。
越前の昼寝のスポットにしている所がお気に入りなのか木を見上げればその猫は尻尾を揺らしながら別の方へ視線を向けていた。興味本位で辿ればその黒猫は決まって緑色の瞳である女子生徒を見つめていた。
「確か……弓波先輩」
名前を口にすれば黒猫が越前に向けて「みぃ」と鳴いた。まるで正解だと教えてくれているようだ。
――最近部内でその名を聴かない日はないからね
たまたまだ、と心の中で言い訳を並べながら越前は木の根元に腰掛けて再び上を見上げるが、一向に黒猫は近寄ってこない。ここ最近はそんな攻防戦を繰り返し行われているようだ。
越前は「ちぇ」と少しムスっとした後背を木に預けて、瞼を閉じた。
春一番のあの日。
少し早めに出て来た通学路を歩いていると旅だったまま一行に帰って来なかった放浪飼い猫を見つけた。名を呼ぶと真新しい同じ学校の制服を着た少女が黒猫を抱えたまま懐かれていた。越前は声をかけてから気がつき思わずまずい顔をしてしまう。だが少女は少年の顔を見るなり妙に気まずそうな表情を覗かせた。越前の人を憶えるという分野では著しく記憶力が悪い。会った事があったとしても今の彼には「見知らぬ人」状態だ。
だが越前の意識はすぐに少女が抱えている黒猫に惹かれた。毛艶が綺麗な黒い猫は抱き心地も撫で心地も良さそうなのは一目瞭然だった。抱かせてもらえないかと思い少女に声をかけると、口をきつく結んで首を上下に振るだけ。喋らない女子など見たことがある。この挙動がおかしい女子も。その変な免疫が意外にも発揮され越前は何とも思う事はなかった。少女は越前に黒猫を手渡すと想像どおりの抱き心地と手触りに撫でる手をやめない。その間カルピンは少女の足元にじゃれつき少女は少々困ったようにカルピンの頭を撫でていた。
―――最初は大人しそうな無口な女の人だなって思ったけど、黒猫を渡されたときに香ってきた花のような甘い匂いに酔いそうだった
「ん……この香り」
越前がふいに目を覚ますとお腹の上には黒猫が座っていた。重いと思っていたのか少し驚いたもののデレた猫の顎をくいくいっと撫でつけた。
気持ち良さそうな顔をして「みぃ」と鳴く。すると『ニコ』と名を呼ぶ声が聴こえてきた。越前の元から少し大きめな声で「みぃ」と鳴いた黒猫は尻尾をぱたつかせてご主人様に居場所を知らせる。その声を頼りに主人である少女が黒猫を見つけると朗らかに笑んだ。安心したようなその柔らかな笑みを必然的に目撃してしまった越前。
駆けよって来た少女は次第に越前の存在に気がつき、再び出遭った当初のような固まった表情を浮かべた。だけど以前よりかは早めの帰還だったが。
『こんにちは越前くん』
「どうも弓波先輩」
『……』
「なに?あ、猫。はい」
黒猫を差し出され受け取るが弓波は未だに沈黙だった。越前はやや怪訝そうに再度「なに」と尋ねると彼女は答えた。
『なまえ、憶えてくれたのが意外だったから』
「……それってさ。失礼だよね」
『ごめん』
すぐに謝ると越前は面食らったように押し黙った。それは少女が動くたび香ってくる匂いにだった。
すぐに己が想像したことに前髪をくしゃっと握って顔を隠した。
―――ああ、好きだな。この匂いってこれ先輩の匂いじゃん
「もう行く」
『またね』
「ん……また会いにきていい?」
『?ニコならここにいるからまたおいで』
―――アンタのことだってっば……三分の一は
【泡沫となりて啓蟄】から【外灯のない部屋】以降のリョーマくんでした。母性本能くすぐられる可愛さだと思う。ほんとっかわいい。