黒曜狗は待てさえせず-伍






血の匂いがする……嗅ぎ慣れた其の香りは厭でも私に纏わりつく。もう何年も何年も贖い続けた罪深き我が蛮行。時に奪い、時に奪われ。与え、与えられ……繰り返し、繰り返し半濁する世界の中に私は身を溶け込ませていた。其れが私の生だと疑わなかった。今となっては其んな在りもしない世界の事など遠い彼方へ見送ってしまったが、其れでも私の思考が変わることはない。人間の曲がれない性格と同じ様に……。

ーーー動かせない

指先の第一関節、其れも一本だけしか動かない。躯の自由を奪ったあの注射器の中身は睡眠薬と神経系の毒を混ぜ合わせた合成薬品。一般の人に使用すれば永眠する程の効力の或る代物だと判断する。麻痺が酷く思考も鈍い。瞼すら動かせない此の痺れは蛇の毒に酷使していた。獲物を逃がさぬ為に噛んで与える毒。逃れる事を赦さぬ其の獰猛さには抗えない被食者の気持ちが伝わる。私の動かせない手を握る谷崎くんの血の温かな濡れ工合が伝染する。

「色葉 さん」

谷崎くんの奥に短い呼吸を繰り返しているのはナオミちゃんだと判る。鼓膜に伝わる生死の音に此のままでは危険だと告げられ、私は動かせるその指一本に異能を集中させた。凡る異能者の異能力を触れれば使用可能な私の異能だが、ひとつだけ抜け落ちている。私の異能は触れなくても其の異能に一度でも躯を馴染ませれば使用可能な保存という別使の能力が備わっていた。数多の異能者と出会って来た私には数えるのも烏滸がましい程の在庫保管されている。
指先に氷を形成させ掌に落とした。重力に従って容赦なく掌を串刺しセメントをも貫いた強固な硬化が血潮を飛び散らせ地面を見る見るうちに紅く染め上げる。更に同時異能を発動させた。識別できない管が溢れる血染めの掌から伸び谷崎くんとナオミちゃんの血管へと繋げる。失われた血液を補充させ少しでも延命させるための応急処置を施す。

「其んな事をしたら色葉さんが……」

谷崎くんの言葉に口元を和らげた。私には今は此れだけしか出来ない。心臓がドクリと奏でる。締めつけられる其の痛みに眉を顰めてしまう。其れは輸血量の容量が超えている所為ではない。多重に異能を使用している所為だった。其れでもひとつ追加発動をかける。頭の中で或る人物を呼びかけた。其の人物が不幸中の幸いか思ったよりも近い距離に居たおかげで私の声は届いたようだ。焦りながら走り出してくれている。此れで後は何とかして敦くんとナオミちゃんを私の傍へ寄らせれば……。

「其の願いは私が叶えよう」

無意識に呼び掛けてしまっていたのか彼の登場に心からの息を吐き出した。

「はぁ―い。そこまで」
「なッ……」
「貴方は探偵社の――!何故此処に」
「美人さんの行動が気になっちゃう質でね」
「な…真逆……盗聴器!?」
「こっそり聴かせて貰ってた」
「では最初から私の計画を見抜いて」
「そゆこと」

太宰くんの間延びした緩やかな声が耳に届く。硬い床を蹴る音が数歩し視線を感じた。

「君は変わらないね」

其の応えに口角を上げた。自身の異能力で虎から解除された敦くんは床に寝そべる。其んな彼を揺すっているのだろう。

「ほらほら起きなさいよ敦君。此れ以上あの子に無茶させたら怒られてしまう。厭だよ私」
「ま…待ちなさい!生きて帰す訳には」
「止めろ樋口お前では勝てぬ」
「芥川先輩!でも!」
「太宰さん。今回は退きましょう――しかし人虎の首は必ず僕らマフィアが頂く」

咳が挟む。芥川くんの其の咳に案じてしまう。閉じた瞼を向けると重なったのか彼は視線を逸らし芥川くんから以前咳は聞こえるが今度は空咳だった。凍てつくような視線が突き刺さる。言わずもがな太宰くんだ。

「私以外には優しいね色葉ちゃん。で、なんで?」
「簡単な事。その人虎には――闇市で七十億の懸賞金が懸かっている。裏社会を牛耳って余り或る額だ」
「へぇ!それは景気の良い話だね」

コツ、靴底が削れる音が届く。反響する地面からの振動が指先に伝わり此方へ近づいていることは明白だ。

「探偵社には孰れまた伺います。その時素直に七十億を渡すなら善し渡さぬならーー」
「戦争かい?探偵社と?良いねぇ元気で」

だが太宰くんの低音には抑制力が働いていたのか、歩みは止まる。其の替わり寝そべる敦君を持ち上げたのか大股で近づき私の傍へ下した。

「やってみ給えよ―――やれるものなら」

やっと瞼を持ち上げる事に成功した。霞む視界から一気に情報量が飛び込んでくる。鮮やかな色彩が虹彩を刺激し私の傍には敦くん、谷崎くん、ナオミちゃんが倒れていた。手際のよい彼の策略には笑うしかない。でも此の光景には既視感を憶えた。

「零細探偵社ごときが!我らはこの町の暗部そのもの!傘下の団体企業は数十を数えこの町の政治・経済の悉くに根を張る!たかだか十数人の探偵社ごときーー三日と待たずに事務所ごと灰と消える!我らに逆らって生き残った者などいないのだぞ!」
「知ってるよその位」
「然り。外の誰より貴方はそれを悉知している――元マフィアの太宰さん」

ぼんやりと見つめる瞳の奥に仄暗い記憶の断片を見せられた。誰よりも美しく綺麗な百合の花を摘み取り枯らせたの誰か……白百合が紅く染まり灯が消えゆく其の瞬間を掌から零れ落ちた大切なナニかを、消失したあの光景を叩きつけられ誤魔化す様に瞬きを繰り返す。
口端から垂れる血を太宰くんが親指で拭い触れた事に寄り強制的に異能力は解除されるが、太宰くんの現在の姿を映し出す虹彩に口端を緩めた。

『へんたいさん』
「開口一番が其れとは酷い女だ」

頬を撫で肩を掴み彼の胸元へ抱き寄せられる。肺を大きく膨らませ、太宰くんは細く長く吐き出し私の耳を両手で塞いだ。

「内政の奪取計画を企てた今日の功労者は誰だい?」
「……僕だ」
「嗚呼道理で陰湿だと思った。……彼女に打ち込んだ薬の製造者に伝えといてくれるかい? 主人の許可なく人様のモノを勝手に奪う手癖は辞めなって。嗚呼、其れは君にも云えるね。気安く触らないでくれよ、穢れてしまうじゃないか――私の駒鳥が」
「いつまでも隠し遂せるものではない。貴方の愛寵の意味を知ればどう思われようか。……モノとは奪うもの。なれど太宰さん。奪われたくなければ繋ぐ事を奨めます……僕は狗。故に食べ残す事は無い」

其れだけを言い残し芥川と樋口は確かに退いた。過ぎ去った暗雲から晴れ間が覗く。依然耳を塞がれたまま私は太宰くんを見上げるが彼の顔は読めない表情をしていた。

「云うじゃないか……」
『だ、ざい…く』

呂律があまり回らず舌足らずに彼の名を呼ぶと漸く眼が合った。彼の鷲色の瞳を見つめると鼻を鳴らして笑い耳から手を退ける。

「悪かったね遅くなってしまって。事務所で君の姉たちが心配していたよ。小雪さんの預言を訊かなかったのかい?」
『よ、げん…?』
「知らなかったのか…」

思わず倒れる谷崎くんとナオミちゃんへ視線を走らせた。輸血をしていた手首に指を添え脈拍を測る太宰くん。其の表情は険しい。

「大丈夫さ。与謝野先生には知らせたのだろう?」

血だらけの手を取り己の手首に巻かれている包帯で止血される。人差し指だけ動くその指で彼の甲に触れ和らげた。

『つかわな、いでね』
「…任せてくれ給え。君の願いを叶えなかった事など一度もないだろう昔から」

止血された手に太宰くんは谷崎くんの手を持ち掌にのせる。私を動く人差し指で谷崎くんの手の甲に触れ、谷崎くんは傷口を片手で塞ぎながら目を合わせ頸を縦に振った。其れを黙視してから能力を解放。その間太宰くんは私と谷崎くんに触れないように距離をとり瞼を閉じる。

『 異能力・神々の黄昏 』

瞼を閉じ光の中へと包まれ、次に視界に映った先は見覚えの或る医務室内と顔ぶれだった。壁に背を預けていた所為で私の躯は支えを失い床へと降下する。其れを太宰くんが遮り自身の躯へと寄りかからせた。肩にまわる手に温かみと同時に指圧を弥弥感じる。

「太宰、怪我人は!」
「ナオミちゃんが重傷です。次は谷崎君。敦君は意識を失っているだけで、色葉ちゃんは神経性に特化した毒によって麻痺を起してます」
「わかった。国木田、賢治!運ぶの手伝いな!賢治はナオミを手術室へ運んで。国木田は谷崎の止血を頼む。色葉は」
「私が運ぶよ。ベッドでいいですか?」
「…ああ。敦もついでに運んでやんな」

膝裏と背中に腕が入り持ち上げられる。此の感覚は先程味わった浮遊感だ。ベッドまで運んでくれる太宰くんにお礼を云いたかったのに私の意識は既に泥の中だった。

「……色葉……?」

ハンチング帽子が床に舞い落ちる。



これにて「ヨコハマ・ギヤングスタ・パラダヰス(後篇)」も幕引き。やつがれっちを書くの好きかもしれない。ちゃんと胃もたれする愛を入れてみたら胃もたれじゃなくて胃潰瘍だった←




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