樋口は探していた。とある無線を傍受したからである。自身の尊敬に値する人物の捜索をしていると海の上に薄い膜を張った水球が浮上していた。近づき膜に触れた途端、弾けるように膜は消え失せ中から満身創痍の芥川を緊急搬送した。
「下顎骨剥離骨折、前頭骨・胸椎裂離、頸部靱帯損傷。上腕・大腿筋断裂。全身T度熱傷…そして昏睡。派手に毀損されたものだね。任務失敗の代償という訳だ」
「申し訳ありません」
「此の儘意識が戻らぬかも知れないね」
「そんな!」
「気を落とすことはない。君達は佳く頑張ったよ」
薄暗い中蝋燭の灯りだけで此の室内は保たれていた。まるで闇の眷属とばかりに彼らは静かに結果について言葉を落とす。食事中なのか更には豪勢な食べ物が静かに鎮座し、樋口の周囲には先ほどから愛らしい少女が蝶の様に飛び舞っている。
「確かに探偵社の襲撃に失敗し、人虎の捕獲を繆り輸送船を積荷ごと沈めたけど頑張ったから良いじゃあないか。頑張りが大事。結果は二の次だ。そうだろう?」
柔らかく述べているが此れ以上ないくらいの責苦であった。樋口は眉を寄せ俯く。
「そうそう。作戦中芥川君が潰した密輸屋――カルマ・トランジットの残党が手勢を集めているそうだ。芥川君への復讐だろう」
ハッとした樋口は勢いよく顔を上げ眼前先に君臨する首領へと視線を合わせる。薄暗かりで見えづらいが首領も何処か怪我をしているのか、姿勢が異様に伺えた樋口。
「良いかね樋口君。マフィアの本質は暴力を貨幣とした経済行為体だ。何を沈めても誰を殺しても良い。だが暴力を返されることは支出であり負債だよ」
「そんな負債などと――芥川先輩は是迄の任務で多大な成果を」
「確かに芥川君は優秀だ。彼の暴力性は組織でも抜きん出ている。では君は?」
それは樋口にとっての核心たるものだった。其処へナイフが通り左右に切り拓かれる。
「樋口君。君は自分がこの仕事に向いていると思ったことは有るかね?」
*
帰宅路に着き乍ら私は云われた事を脳内で再生させていた。返す言葉は沢山ある。沢山あったが…何も返せない自分が情けない。自分がこの仕事に向いている?
「そんなの有る訳ないでしょ……」
『あら、樋口さん。こんばんは』
感傷に浸っていた私の目の前に現れたのは、今最も私の前に現れて欲しくもない人物だった。
「色葉さん……」
名を呼ぶと彼女は美しく微笑む。まるで絵画の如く。其の美しさは夜の月さえ霞ませる程に、月光に照らされて白い髪が、白い肌が、桃色の頬を、紅玉の瞳さえも煌かせる。まるで何処かのお伽噺の御姫様のような人。儚げな彼女の容姿は手負いなのか更に病弱染みていて私でも殺せてしまいそうなほど、覇気はなかった。
「知り合い?」
『ええ。乙女の秘話を交わした仲です』
暗がりで視えなかったがどうやら彼女の隣には男が居たようだ。世は然程高くはないが全体的にひ弱そう。とてもじゃないが戦闘要員ではないと窺う。彼女の隣を立つ分には調度いい相手かもしれないが……。
『樋口さん。お疲れの様ですが如何したのです?悩みならお聞きしますよ』
「…実は、って話す訳ないでしょ!あなたに!」
『ねぇ、面白い方でしょう?乱歩さん』
「完全にペースに呑まれてるね君。気をつけなよ人畜無害そうな顔してるけど丸飲みが大好物だから」
『人を蛇のように言わないでください。私は樋口さんに恩返しがしたいのです』
「恩って、私はあなたに切り売った覚えはないですけど」
『お邪魔したとき話し相手になってくださいました。そのお礼をしたいのです』
にこりと、人の良さそうな警戒心を解いてしまう笑みを浮かべる彼女に、思わずほろっと傾くが首を左右に振って態勢を整えた。如何!この人はこういう人だった!怒りを思い出せ!この人が芥川先輩にしたあの非道を……!拳を片手に握りだし「てぃやァ!」っと気合を込めると色葉さんは矢張り笑うだけ。とても楽しそうに、でも其処には私を嘲笑する厭味な感情は無い。何処までも綺麗なお姫様だ―――。
「あなたに付き合ってるとお花畑が構築されそうなので、帰ります」
『また一緒にお話をしましょう、樋口さん。よい夢を』
「またね」
手を振って私の背を見送るふたり。何だかお似合いだ。芥川先輩にでも耳打ちしてやりたいくらいには思う程、とても羨ましい関係だった。彼女の躰を支え乍ら歩く。夜の散歩。歩調を合わせて体重を支えて……ああ、羨ましいのは尽きない。
あの人は芥川先輩が身を粉にしてでも求める人。過去に何かがあったのだと思うけれど其れが何か何て聞かなくても解る事はある。芥川先輩は他人からしたら些細なそんなちっぽけな出会いを小さな箱に閉まって鍵をかけ、大切に大切に毎日磨く。埃など積もらせない、忘れられない一日。箱を開けては思い出すのだ。あの女との些細でちっぽけで儚い桃源郷の様な……そんな下らない思い出を。
「あの人が逃げてもう居ないと云ったら先輩はどんな顔をするんだろう」
きっと先輩は怪我が治りきっていない状態で探しに行くのだ。此の横浜という市街地区を。幾千、幾万という年月さえ鑑みない。全身全霊で求め続ける。細胞が自身を構築する血液でさえもが求めるように……そうまるで私があなたを求める様に。
吐いても棄てても出てくるものが人間にはある。欲は尽きずに妬みは量を増していく。きっと誰もが通る道。でもこれはそう、まるでマカロン。乙女の悩みは尽きないわ。
「色葉帰ろよ。流石に眠い」
『夜の散歩はこれからですよ、乱歩さん』
「……うわ、これ徹夜コースか。何でまたあんな敵意剥き出しの子の為に」
『云ったではないですか“御礼がしたい”と』
*
明けもしない宵の頃。一本の着信音がけたたましく鳴り響いた。飛び起きて最初に聞いた言葉は私の焦燥を駆り立てるには十分すぎるほどの災禍であった。
「再思し給え。上意に悖る」
「姐さん正気か? 自殺行為だぜ。芥川の兄人を拐ったのはカルマ・トランジットの残党が雇った国外の傭兵だ。数が揃ってるうえ重火器でこれでもかって程武装してやがる。直に首領から奪還作戦の指示が来る。それまで待てよ!」
掴まれた腕を払った。憤りは隠せない。
「指示は永遠に来ません。芥川先輩個人を襲った密輸屋に対し組織をあげて反撃すれば他組織に飛び火して大規模抗争になる。それを避ける為、上は構成員個人の諍いとして棄て置く心算です。芥川先輩は切り捨てられた」
「だがアンタ一人如きで何が出来るんだ」
「何も出来ません」
解っている。本当は……でも、だからって。
「でも何もしないなんて私には無理です」
私は武器を諸々持ち出して先輩が囚われている倉庫まで走り出した。闇を切るように走っている時、頭の中は妙に冴えていた。
そう判っていた。私がこの仕事に向いていないことも。部下が私に敬意を払っていないことも。組織を抜けるのは容易ではないが不可能ではない。前例もある。何度も考えた事だ。それでも私がそうしなかったのは―――。
その後の事はあまり憶えていない。きっと夢中だった無我夢中で機関銃を鳴らした。手榴弾を投げ敵を錯乱させ機関銃で削いだ視線を刈り取る。だが私の腕前では追い込むといっても本当にほんの少しの引っ掻き傷程度だった。太腿を撃たれ此れ以上の続行を不可能、それでも私の脳裏から離れない。貴女の背中が……あの眩い程の憧憬が……でもきっと結末は変わらない。だってこれは、小説ではないからだ。冷たい床に転がり瞼を閉じた其の時、何かを裂く音が耐えず聞こえたと同時に呻き声が響き渡る。
目蓋を持ち上げ視界を良好にすると、私を庇う様に白髪を束ねた儚い女性が大鎌を片手に傭兵を薙ぎ倒していた。その後ろ姿には憶えがある。
「色葉さん」
『寝ている場合ではないのでは?』
「へ」
『助けに来たのなら最後まで助けに行きなさい』
銃弾を鎌の刃が防ぎ私の腕を持つと同時に影へと移動される。私を庇う様に銃弾を弾き私から拳銃を奪うと彼女は、傭兵の足を撃ち抜く。銃弾が飛び交う抗争の中、彼女を狙う傭兵を見つけ、私は思わず彼女を庇う様に身で覆う。
それでも私が―――
この仕事を辞めなかったのは―――!
だが、その弾痕が私を貫くことはなかった。
「知らねえ顔は全員殺せ!」
黒蜥蜴が乱入。加勢に入り傭兵たちを一掃した。目の前で起こる出来事に目を丸くさせると色葉さんは自身の肩に私の腕を回し立たせてくれる。
「上司の危機とあっては動かぬ訳にもいくまい」
その言葉に胸中は絞められる。そのまま芥川先輩が居るであろう奥の部屋へ彼女の導きに寄って歩く。
寝台に乱雑に寝かされている芥川先輩に近寄ると彼女は私へ振り返る。まるで許可を待っているみたいに。自然と頷いた。それを合図に彼女は私の手を寝台の取っ手部分に導き、両の手で芥川先輩の手に触れる。瞼を閉じて彼女は異能を発動させていた。それはあの時、先輩を護るために張られた膜に似ている。水中に漂う空気の泡が先輩を包み込み融かされていくような気がした。暫くした後彼女は手を離し先輩を暫く見つめる。
『外傷から少しでも護れたらと思ったけれど結局芥川くんを護ったのは水面下の防術だけ。火傷も少しはましなのかしら……本当に、あの頃と変わりませんね。私はとても心配です』
「あの膜はあなたの異能だったんですね」
私の問いかけに彼女は何も応えず。ただ静かに微笑みを浮かべて私の手を取ると先輩の手と重ね合わせた。僅かにまだ脈が跳ねる様な温かさに瞳が水面と化してしまう中。彼女は何も言わずに闇の中へと消えてしまった。
ああ、胸中とても穏やかではないのに……どうしてだろう。憎めない。
「先輩…先輩っ」
「……樋口か」
「先輩……血が」
ハンカチを手にし拭こうと伸ばした手首を、先輩の指が制した。掴まれた感触と柔らか熱に一驚しつつも先輩は余所を向き乍らこう云った。
「……済まんな」
私の存在を瞳に宿し、私の為に注がれたその言葉に私は矢張り留まってしまうのだ。
「……仕事ですから」
組織を抜けるのは不可能ではない。それでも私がそうしなかったのは―――。
*
倉庫外で僕は古ぼけたプレハブに背を預けて月夜を見上げた。夜の海に漂うその月はあの日と同じくらいの。
「朧月だ」
潮風が吹き抜ける海面に面する横浜で珍しくも無い現象だけど、僕はあの日を思い返す。彼女はこんな朧月夜の日に一匹のノラ狗を拾ってきた。手負いのその狗は今にも欠けた牙縊り殺そうと虎視耽々に彼女を狙っていて、僕は彼女にこう言った。
「そいつは救われる事を臨んでいない。返り討ちに遭いたくなければ捨て置きなよ」
僕の言葉は淡々と冷え切っていただろう。だけど彼女に害を為すものを野放しに出来る程僕も寛大ではない。だけど彼女は僕の言葉を片耳程度で部屋に入れてやるなり手当てを始めてしまう。何度殺されそうになったことか襲いかかる殺傷能力の高い異能が彼女の皮膚を裂く。けれど彼女は構わず治療を施し処置が完了した頃にはどちらが怪我人なのかわからないくらいになっていた。
「何故こんな奴を救う、君を狙う組織のひとりだというのに」
僕はきっと吐き捨てるように云ったことだろう。今でも思うから間違いじゃない認識だ。だけど彼女は矢張りこう云ってしまうんだ。
『私が助けたいから助けただけです。其れでも助ける事が罪だと仰るならこの方の云う通り殺されても文句は云えませんね』
柔らかに口にしたその言葉に、僕もきっと抵抗した彼も唖然とした事だろう。善意ある行動をしたのに殺されても仕方ない等ととてもじゃないが常人が言える言葉ではない。口にすら出来ない。けれど彼女は云えてしまうのだ。それくらい僕と彼女の住む世界が違う事は明らかで、境界線を引かれた気分だった。
―――虚空を掴む憤りだ
彼はその後大人しくなり看病していた彼女は彼と共に眠った。宵の明星が訪れた際に、彼は静かにこの部屋を出て行く。僕は彼に告げた。
「勘違いしないでね。彼女はどんな犯罪者にさえ慈悲深い。君が混乱しないようにはっきり云うよ……忘れた方が良い」
「……済まぬが、あなたの言は聞けぬ」
見た目ほど素直な男だったと思う。頭の痛い記憶だ、これも。却説そろそろ彼女が戻ってくる頃合いだろう。背もたれを離し帰り道の方角へ躯を向けると遠くから彼女の姿が映り込む。元気になったばかりだというのに走っている彼女の楽しそうな顔には呆れて笑った。
『乱歩さーん』
「こらー走っちゃダメでしょうが」
『帰りましょうか』
「寄り道が長いんだよ。これだから女の人は嫌になる」
腕を差し出すとその腕に彼女が添える。寄り添い乍ら僕らは同じ部屋へと向かう。そんな朧月夜の物語―――。
ほぼ樋口ちゃん視点からの最後は乱歩さん視点で前編は占めました。私は樋口ちゃんも好きなので、仲の良い友達になりたいですよ。乱歩さんとの絡みはほぼ夫婦として書いて居ます。いや、こいつら夫婦みたいだから、本当に。さてこれは前編。残りは後篇のみ。第一部の補足として最後の幕間をご覧ください。