弥弥あって拐かす-四






眼が醒めると其処は埃と火薬と油の臭いが染み付いた錆びれた何処かの工場のようだった。椅子に両手両足を縛られ拘束された状態を確認する少女。色葉は其の不気味な程に鮮やかな紅色の瞳がルビーの宝玉の様に闇の中でも輝きに揺らめいていた。周囲を見渡している少女の様子を奥から眺める男は些か違和感を覚える。しかし男には限られた時間しか残されていない故、硬い靴底をコンクリートに滑らせ割れた硝子の破片を踏みしめ少女の眼前に姿を現した。男の手には少女を気絶させつために殴った代物である銃火器が握られていた。その銃口が少女の眉間を捉える。

「悪いなお嬢さん。あんたに恨みはないが依頼されちまった以上あんたをあいつらに渡さなければならない。恨まないでくれよ」

男がこの手の犯罪者が云う台詞を口から滑らせる。だが少女はこの手の被害者のような態度、台詞は一切取らず。その紅玉の瞳を波紋する水面のように揺らめかせ、次第にその表情は微笑みへと変わった。その奇妙差に男は息を呑む。

『あいつらとはポートマフィアですか?依頼ということは脅されていらっしゃるのでしょうか?大変でしたね。心中お察しいたします』

不気味だった。その一言に限ると男は思った。銃口が震える。外見だけで判断するなら少女は18歳くらいの年頃の麗若き乙女にしか視えない。例え22歳だと実年齢が解っていても男は悲鳴を上げずに唇を噛んだ。

「黙れェ小娘ッッ!死にたいのかァ!!」

銃口を眉間に添え密接に近づけた銃口。人差し指を引っかけその引金を軽く引けば銃口から弾が発射される。命が一瞬にして散らせる事が可能な凶器を向けられ普通の人間なら取り乱し命乞いをする。だが、眼前の少女は笑みを絶やさない。気味が悪い中少女はその可憐な唇を構わず動かした。

『震えていては眉間に銃口を定めても一発では死なせることは出来ませんよ。命を奪いたいのであれば眉間、或いは蟀谷に銃口を密接に添えてください。そしてセーフティーバーは外さなきゃ弾丸は装填されても射殺できません。ゆっくりと外し標的を捉えたら一気に引金をひく――そうすれば殺す事が出来ますよ』

何故この少女は殺し方を丁寧に教えてくれるのだ、恐ろしい程の畏怖。視えない恐怖が男を背後から襲う。喉から出かかる悲鳴を抑え男はセーフティーバーを外し銃口を眉間に押し当て引金にかける人差し指に重点を向ける。それでも少女は笑みを絶やさない。

『ですが、私を殺したらあなたが護りたい方たちも殺されてしまいすけど宜しいのでしょうか』
「なっ何を根拠に…!浅はかな命乞いなら今更遅い。お前を殺した所で此方には損はないッ!約束は守ると契約を取り付けたんだ!保障の無いお前の言葉とは違う!」
『では試してみましょうか』

笑顔が散る事もなく少女は平然と安易に口にした「殺せ」と「殺してみろ」と。まるで実験を促す様に軽快にそれはそれは恐ろしく、不気味に、狂気に感じさせるほど。肌を這う寒気が拭えない男は食いしばった歯の隙間から息が漏れた。極限状態の人間を挑発するのは本来適格ではない。それを理解した上で少女は男を見定める。そして男は次第に銃口を納めた。安全装置は再びかけられ、銃火器は懐へと仕舞われる。ドラム缶に腰掛け男は少女と目線を合わせた。

『事情が御有りの様ですね。宜しければお話を聞かせてください』

男は少女の美しい咲みに説け絆され。その後は記憶が飛ぶように被害者に加害者の事情を説明しはじめた。
どうやらこの男はとある中小組織の下っ端で金銭の取り締まりをしていたようだ。だが妻子を持ったところで考えを改め足を洗う決意をしたものの組織から抜ける事は至難の業。だが一方中小組織はあるマフィアに脅され殺される寸前で取引を持ちかけられたそうだ。至極簡単な依頼だった。それはある少女を拐い引き渡して欲しいという依頼だった。其れを完遂すれば命は扶けてやると掲示され、組織の首領は二つ返事を返した。そして白羽の矢が男、斉藤さんに立ったのだった。

「断れば妻子を殺すと云われ従うしかなかった……悪かったねお嬢さん」
『いいえ』

色葉は男の話を凡て聞き終えると数分目を閉じた後、顔を上げ笑みを浮かべた。

『だとすると、斉藤さんはこの任務を完遂しようがしまいが殺されます。確実に。いえ、語弊がありますね。斉藤さんが殺されるかはその首領さんの裁量によりますが……あなたの奥さまと娘さんは殺されます』
「な、なぜ……」
『私を捕えたと連絡はしましたか?』
「い、いやまだだ」
『其れは幸運でしたね。私を捕まえたと連絡をしたその瞬間に奥さまと娘さんは殺されてました。何故かと説明するとあなた方の中小組織というのは湾岸を中心に手広く幅を利かせている麻薬を扱うミフネ一家ですね?この工場は先月取り壊れた貿易商が所有していた工場のひとつ。石油と石炭の臭い、そして火薬と弾痕を視る限りここで数人殺害されてしまったのですね。この港はポートマフィアによって買収された場所ですから。此の様な手口をする方たちに約束事など無意味です』

淡々と笑顔で語る少女の不釣り合いな言動、そして彼女の推測は中っていると男は納得する。筋の通った話、自身が語っただけの話、状況、場所への観察眼だけで見抜いたその推理力に男は納得せざる負えなかった。

「ではどうすればいい……引き渡せば死ぬ。殺しても死ぬなら俺はどうすれば……ッ」

八方塞がりであるこの状況を打破するには到底光など視えない。男は憤りを隠せずにドラム缶から降りると其れを蹴飛ばした。静かな工場内にドラム缶が転がる音が響く。だが其れでも少女は笑む事を止めない。

『あなたの奥さまと娘さんが五体満足であなたも生還出来る方法がひとつだけ…でもそれには私と約束し、指示に従って頂きます。それを誓ってくださるのなら私はあなたに義を示しましょう。全力で娘さんを奥さまを必ず扶けます』
「……あんたのようなか弱いお嬢さんに何が出来ると云うんだ。俺の様な非力な奴に捕まるようなあんたに」

皮肉だ。八当たりだ。男は若い娘に年甲斐もなく中り散らした。そんな現実味の薄い生存率の低そうな賭けに魂など賭けられる訳がない。ましてや己の命だけでなく、大切にしたい相手を預けることなど保障もない限りは絶対に頷けない。だと云うのに目の前の少女から放たれる雰囲気は縋ってしまいたくなる聖母がいるようだった。男は眼が眩んでしまったのだと言い訳を頭の中で埋め尽くしながら少女に頭を下げていた。

『では私の携帯に今から云う言葉を打ちこんでください。宛先は――猫さんです』

それから男の記憶はあまりない。それは気を失ったからという類とかではなく、あまりにも迅速すぎる解決だったからだ。目の前で起こっていることは俄かに信じ難い。だが男は其れでも唾を喉へ通す様にこの光景を受け入れるしか術はなかった。
舞い上がる火薬と煙、19世紀末のロンドンのような排気ガスの香りが霧となって周囲を覆い人を隠してしまう。そんな中で音だけが止む。騒音すぎる派手な爆撃音は止み、終結を知らしめた。
霞む視界の中で華奢な影がひとつぽつりと浮かんでいる。不思議なのはその頼りない背中の周囲の者達は屍ではなく蚊の様な息を吐きだすだけで倒れていることだった。もう少女のことを不思議などに当てはめる事も出来ない。少女はもう男にとって―――怪物と正義の狭間の存在となってしまったのだ。
少女が振り返る。血と砂と埃と銃弾痕地で、不釣り合いなあの柔らかな笑みを浮かべ。

『か弱く貧弱な小娘の存在が巨躯たちを相手に圧してしまったなど触れ廻されてしまったら藤花さんに嫌われてしまいます。それは私の臨むところではありません。ですから此の事は秘密にしてくださいませ』
「あ、あんたは一体……」

煙幕が晴れる。朝日の輝きと水平線の向こうで煌めく太陽が顔を覗かせ少女の背を照らした。その美しい情景の中で少女は矢張り笑むのだった。

『武装探偵社、字色葉。お困りごとがございましたらご用件を。あなたの悩みを解決致しましょう』



こいつ名探偵か?まあまあ落ち着いてくださいお嬢さん。この人太宰さんを唯一いじめられる人ですよ。これくらい出来ずに名乗れますか!