優しさに漬け込んで

 デスクの上にぐったりと顔を押し付ける。自分の体温よりも低いそこは、ひんやりとしていて気持ちいい。目の前のノートパソコンは真っ白な画面を表示させていて、進捗が全く進んでいない事を証明していた。
「もう無理〜!!」
「無理じゃない」
「むりぃ……」
 背後からすぐさま鋭い否定の言葉が送られてくるが、無理なものは無理だ。集中力も切れてしまった。この後の展開も思いつかない。
 放置しすぎた画面は次第に薄暗くなり、最終的に真っ黒へと変わってしまった。それだけの時間私はパソコンに触れないままデスクの上で伸びていたという事だった。後ろから威圧してくる赤葦くんには申し訳ないけれど、今日はもうこれ以上は無理だ。元々一度に集中していられる時間はせいぜい二時間程度。スマホを二回タップすれば明るくなる画面。時間を確認すれば執筆を始めてからちょうど二時間経っていた。
「休憩する?」
「するぅ……」
「ちょっと待ってて。ブラックで大丈夫?」
「うん……ありがとう……」
 パタパタとスリッパの足音が遠ざかる。
 早い段階から私の家に慣れて最早自宅か? と聞きたくなるほど自由に過ごしている赤葦くん――私もそれを望んでいたので問題は無い――は、食器や調味料の置き場所は把握しているし、なんなら私より詳しい、というより、赤葦くんの使いやすい配置に変わっていた。台所は時に使う頻度が低いので、配置が変わっていたところで何も問題は無いけれど。
 食器の動く音と、お湯を沸かす音。換気扇が大きな音を立てて威嚇しているみたいだった。
 休めるために目を閉じればこんなにもいろんな音を集中して聞く事が出来る。どれも同じ音なんてなくて、それぞれが特徴的な個性を持っている。それらは不協和音にならず私に心地良い空間を与えてくれていた。
「はい、お待たせ」
「ありがと〜……。あかあしくんさぁ」
「なに?」
 すぐ近くでコップが置かれた音が聞こえた。まだ目は開けずに話しかけると、布の擦れる音から私の隣に座った事がわかる。
「今度休みいつ?」
「休み? ちょっと待って確認する」
「あ〜い」
 立ち上がる気配。鞄が開くチャックの音。物がぶつかる音は鞄の中を漁っているからだろう。その音が途切れたという事は、目的のものを見つけた証拠。そこからしばらく音は聞こえなくて。
「一番近い休みは来週の火曜日かな」
「平日! 良し!」
「……何が?」
 目を開けて顔を上げる。マウスを動かせばスリープ状態になっていたパソコンに明かりが灯った。ウェブを開いて検索欄に文字を入力していく。慣れたタイピングに、はじめは赤葦くんが驚いていた事を不意に思い出して口角が上がった。私からすれば普通なのにね。
 後ろから画面を覗いてくる気配がする。どれだけ私の家でくつろいでいようとも、自宅のように好き勝手していても適切な距離感を保つ赤葦くんは私に触れる事がない。今も数センチの空白を残して後ろで腰を曲げている。
「鎌倉……?」
 私が検索欄に打ち込んだ文字をそのまま声に出す赤葦くんにひとつ頷いた。
「いい国作ろう鎌倉幕府です」
「今は違うらしいよ」
「うっそマジで!?」
「いい箱、だったかな」
「まーじか。いい国の方が語感いいのに」
「そういう問題でもないでしょ」
「そっか……」
「で?」
「うん?」
「なんで今鎌倉?」
 赤葦くんの疑問にクリック一つで答える。
 鎌倉文学館≠ニトップに書かれたシンプルなサイトをスクロールすると数枚の写真が出てくる。日本遺産となっている鎌倉文学館は、同業者と話しているとたまに聞く名前であり、ずっと気になっているが行けていない場所だった。執筆に詰まっている時に行ってみるといいと教えてもらってからなんだかんだ時間がなくて行けていない。
「……行くの?」
「一緒に行こ!」
「俺?」
「そう!」
「いいけど、それは仕事として?」
「そう!! なんかいろいろ資料とかがあるらしいんだよね。インスピレーションを受けるにはちょうどいいと思わない?」
 ホームページに掲載されている写真を見ても雰囲気のいいところである事がわかる。この写真の空間に加え観光客だったり地元の人間がそこそこいるとは思うが、聞いた話によると基本人が少ないらしい。今の季節は春だから、タイミングが良ければ綺麗に咲いたバラが見れるんじゃないだろうか。
 赤葦くんが入れてくれたコーヒーに口をつける。猫舌である事を知っているからか、温度が少し低かった。飲みやすい温度に調節された真っ黒な液体を半分ほど飲んだ時、考え込んでいた赤葦くんが「うん」とひとつ頷く。
「いいね、行こうか」
「ほんと!? やったぁ」
「電車?」
「かなぁ。私免許も車も持ってないし」
「……一応、あるよ」
「エッ」
 思わず勢いをつけて振り返ってしまった。
 まるで示し合わせたように私が振り返った瞬間に後ろに距離を取った赤葦くんはエスパーか何かなのだろうか。
「前の部署にいた時にあった方が楽な事に気付いて取ったんだよね、免許」
「えー……えー……、でもそしたら赤葦くんに任せっきりになっちゃう……」
「構わないよ。そんなに遠くないしね」
「や、やさしい……。じゃあお願いしてもいい?」
「うん。まぁ安全は保障しかねるけど」
「そこはして!? 安全運転! 大事!!」
「冗談」
「赤葦くんの冗談わかりにくいんだよぅ……」
 昔に比べて柔らかい表情を見る回数は増えたと思うけれど、それでも真顔がデフォルトな赤葦くんの冗談は本当かもしれない真実味があってわからない。冗談なら冗談らしい顔をしてほしい。
「何時から出発にする?」
「朝からの方がいいかなぁ。ここからだとどのぐらいかかるんだろ」
 新しいタブを表示して鎌倉文学館のある住所を入力する。途中でコピーした方が早いと気付いたけれどその時のは既に入力が終わっていた。
 だいたい一時間と少し。高速を使ってこの時間だから、下道ならもう少しかかるだろう。平日であるから交通量はそこまで多くないとして、下道でも十分かもしれない。
「十時ぐらいなら着いて向こうで早めのお昼かな」
「もしかして高速使う?」
「その方がよくない? 使えるものは使うべきだと思うけど」
「おかねかかる」
「……そこ?」
「うん」
 流石に高速を使うのなら私が払うけれど、それにしても高速って運転が大変なんじゃないっけ? いつも助手席にしか座らないからその大変さはわからないけれど。
 赤葦くんは「そこまで高くつかないでしょ」と高速での運転に乗り気だった。
 うーん、赤葦くんがいいなら、私はいいんだけど。
「流石に私が払うからね、高速代」