秘密だよ、と囁いた
騒がしい廊下を友達と談笑しながら歩く。
目的は次の授業で使用される特別教室だった。
関西弁故の語気が強めの言葉がそこらかしこから聞こえる中での標準語に近しい言葉遣いは大変珍しく、遠くからでも誰が話しているのは把握できる程だった。
関西では目立つ標準語を使う男が横を通り過ぎる。背の高いその男は吊り上がった目を一度こちらに寄越してから、私の手に一瞬だけ触れた。
きっと誰も気付かない。気付いたとしても人の溢れる学校の廊下じゃ偶然だと片付けられてしまうような、そんな些細な触れ合い。握るわけじゃない。ただ、ちょん、と触れるだけ。
――それが、合図だった。
昼休みに決められた教室で待ち合わせ。言葉を交わさずともいつの間にか些細な指先の触れ合いが合図となってしまって、お互い気が向いた時に行うものだった。
お弁当食べよ〜、と誘ってくれる友人に断りを入れて目的の場所へと向かう。定期的に不在にするからか、友人は時に怪しむ事なく見送ってくれた。
食堂に向かう生徒の流れを抗って向かったのは、美術室や視聴覚室が揃う特別棟。基本的に使用する生徒はおらず、休み時間特有の騒がしさから切り離された空間は、自分の足音しか聞こえなかった。その中でも特別奥に設置されているのは、もうどの授業でも使われていない、空き教室。
建て付けの悪くなっている扉を開くと、木の軋む音が辺りに響いた。
「いい加減うるさすぎない?」
「もう使ってないからしゃーないんちゃうかなぁ」
積み上げられた机の一つに腰かけているのは、標準語を使う男だった。扉を動かす度に耳にしなくてはならない不協和音に顔を顰めている。うるさいに関しては私も同意するが、使われていない教室をわざわざ修繕する必要性がないせいで、きっと私たちが卒業してもこのままである事は安易に予想できた。
空き教室の鍵は私が先輩から譲り受けた――盗んだとも言う――ものだった。先人がこの場所なら都合が良いと発見して、教師を言葉巧みに騙して手に入れた鍵を、今は私たちが使っている。
後ろ手でしっかりと扉を閉めた事を確認してから、埃臭い中へと進む。よくこの中で食事ができるな、と最初の頃は思いもしたが、次第に慣れて気にする事もなくなった。慣れって怖い。
待っていた男の手には女の私でさえそれで足りるのかと聞きたくなるような量のパンしか置かれていない。毎度の事ながら運動部のくせにそれで体力が持つのか? と聞きたくなった。
持ち込んだお弁当をろくに味わう事もせずにお腹の中にしまっていく。たった数分で完食させると、同じタイミングで食べ終わった男がパンの包装をそこら辺に放置したまま両手を広げた。
存在していた距離を詰めて腕の中に納まるのは、この男が大きすぎるからだ。決して私が小さすぎるわけじゃない。
「……いつも思うんやけど、食べた後なんちょっと嫌かも」
「このタイミングしか時間無いんだから仕方ないじゃん」
「それはそうやけどさぁ……」
「ね、ほら、時間ないから」
恋人のように抱き締め合って、薄い唇が重なる。こうなればもう後は身を任せる事しかできないのは、とっくに知っていた。
――私たちは恋人ではない。
いくらキスをしようとも。
いくら体を重ねようとも。
それは天と地がひっくり返ってもありえない事だった。