もしかしてそれは
あ、と音を零したのはどちらだったろうか。
私の喉が震えていた気もするし、低い音だったような気もする。
二人して見つめ合って数秒。どちらも動かない。少し気まずくて視線を逸らしたのは私だった。
もしかしから相手は私の事を既に忘れている可能性だってある。私の方はなんだかんだテレビや雑誌で見かける事があるから、忘れようもないんだけども。
「……久しぶり」
「ああ、うん、久しぶり。こっち来てたんだ」
「あ〜……、まぁ、うん、そやね」
しかし相手も私の事を覚えていたようだった。もう会わなくなって数年は経っているし、連絡も取ってはいなかった――そもそも連絡先を知らない――のだけれど、どうやら記憶力がいいらしい。
兵庫から東京に出てきたのは、ひとえに憧れからだった。
地元を田舎だと言うつもりもないし、言ったら各方面に怒られそうだけれど。東京という大都会に憧れるのも仕方がないと思う。決して角名が噂で関東へ行ったと聞いていたから追いかけたわけではない。本当に。
だって角名はもう私の人生からはみ出してしまっている存在で。若気の至りってすごいなぁ、なんて若干黒歴史とも言える過去の遺産だった。
――だから、ここで再会するなんて、思ってもいなかった。
さらに言えば向こうが私の事を覚えているとも思っていなかった。
「……ここ、東京やけど」
「わかってるけど」
「角名、静岡じゃなかったっけ」
「あれ、知ってるんだ。今日はたまたまこっちで試合があったんだよね」
「……ほーん?」
「そっちはなんで東京にいるわけ?」
「スーツ姿見てわからんか?」
言われて角名が鮮やかな色のジャージを身にまとっている事に気が付いた。対する私は少しよれたパンツスーツ姿。購入してすぐに着た時はまだぴしりと折り目があったこのスーツも、ほとんど毎日着ているから折り目なんてどこにもなくなっている。
「なんか意外かも」
「そぉか?」
「うん。だってこっちで就職したって事でしょ」
「そぉね」
「兵庫から出ないと思ってた」
「……私ってそんなイメージなん、みんな言うんやけど」
「県外出たく無さそう」
「なんやそれ」
みんな私にどんなイメージを持っているんだ、本当に。
私だって大都会に憧れる心を持っているし、持っていたっていいだろう。他人様に迷惑をかけるわけでもないし。親にはそりゃ、いろいろと援助をしてもらったけれど。
片手にはコンビニの袋が握られている私は、誰が見たって草臥れた社会人に写るはずだ。実際そこまでの激務ではなくても、余裕は日々削られている。
久しぶりの再会に盛り上がれる程の仲ではなかった。過去の私たちは所詮体だけの関係しか持っていなかったし、それ以外で会話という会話をした記憶は忘れる程しかしていない。だから訪れる沈黙がやけに痛い。元々会話を続かせるのは苦手な方だ。
「あのさ」
角名が少し気まずそうにしたまま、口を開く。
この場から去るにしても言葉を交わさなければいけなかったから、相手から始めてくれるのは大変ありがたかった。
「どしたん」
「連絡先、いい加減交換しない?」
「ぁえ? 私?」
「他に誰がいるのさ」
おかしそうに口元が緩む角名を見て、場の空気が和らぐ。ジャージのポケットからスマホを取り出した角名が「どう?」と首を傾げた。昔よりも短くなっている髪が微かに揺れる。
「いい、けど。私の連絡先知って何になるん? 言うとくけど、私もうああいうのしてないから。落ち着いたから」
「別に求めてないよ」
「ああそう……」
別にいいけど、私から連絡をする事はなさそうだ。
鞄からスマホを取り出して無料のメッセージアプリを開く。友達追加のページからコードを表示させた画面を角名に見せると、口元に深い笑みを浮かべていた。
「ありがと。また連絡する」
「……うん、待っとくわ」
決して自分から連絡はしないぞと言外に伝えたつもりだった。それなのに角名がやけに嬉しそうな顔をしているのが印象的で。
じゃあそろそろ戻らないと。手を振る角名の背を見つめて、昔よりも大きくなったなぁ、なんて親戚みたいな事を考えた。
角名から連絡が来たのは再会した次の日だった。あまりにも連絡が早くてすぐに画面を開いてしまって、何と返信しようか考えている内に追ってメッセージが届く。
【既読つくの早くない?笑】
【たまたまやけど】
【そういうことにしといてあげる】
【え、うざ……】
深く考えずに進んでいくメッセージの画面が楽しくて、テンポも良くて結局、結構な数のやり取りをしてしまった。会社につけば仕事があるので強制的に中断されてしまったが、なぜか気が付けばお昼休憩には角名とのメッセージ画面を開いていた。
いや、私から連絡する事なんかひとつもないんやけど。なんで開いた?
何度かキーボードの上を指がさ迷って、結局何も送る事はなかった。角名も仕事中なのか、それともバレーの練習中か。どちらにせよ私には関係の無い話だった。
【今度飲みに行こ】
そんな連絡が届いたのは、その日の夜だった。
【私と?】
【ここグループじゃないよ】
【せやな】
【で?どう?】
【日による】
飲みに行くにしたって私が静岡まで足を運ばなければいけないのか、それとも角名が東京まで来るのか。それによっても行ける行けないはかなり変わってくるのだけれど、どうなんだろう。
【土日休み?休みだったら土曜そっち行く】
【一応、休み】
【決まりね】
思いのほかポンポンと決まってしまった予定に、角名ってこんなんやったっけ、と困惑が隠せない。学生の頃は遊びに行く事なんてなかったのに。大人になって変わってしまったんだろうか。
自分で自分の首を締めているような、逃げ道を無くされてしまっているようなやり取りは、角名の時間決まったらまた連絡する≠ナ終わりを告げた。
スマホを閉じて無意識に向かった先は、下着の入ったクローゼットの前。
「……何やってんやろ」
もう昔みたいな事はしていない。体だけの関係は、高校卒業と共に終わらせている。……そもそも、あの時点でセフレは角名の一人しかいなかったのだけれども。
体を重ねる事はしない。それは相手が角名であっても変わりは無い。あの時に決めた事だった。それなのに今立っている場所じゃ説得力なんて全くなくて。その場にしゃがみこんで頭を抱えた。
「ただ飲みに行くだけやし」
ひとつ懸念点があるとすれば、私がアルコールにめっぽう弱い事だろうか。