"私がこの世界で最も愛しているのは、雷光のような一瞬のきらめきと、嵐がすぎたあとの穏やかな朝。"
三郎が、卒業の日に露子から聞いた言葉である。それから露子は穏やかに笑んだまま、続けてこう言った。
「卒業おめでとう。貴方のおかげで本当に、本当に楽しかった。どうかお元気で。さようなら。」
***
卒業してから年月が経っても、三郎は時折、学園での日々のことを夢に見る。
忙しない生活の中、懐古する暇さえなくなってきた頃────特に、長期の忍務の中で仮眠をとったときなどは決まって、あの眩い景色が夢に現れる。そうして、“忘れていた”、とはっとするのだ。
青春の日々は、勿論当時にしてみれば苦労の連続だったが、今となってはどれをとっても美しくかけがえのない思い出ばかりだった。友と笑い、肩を並べ切磋琢磨した日々は、全てが手放し難い暖かな記憶だ。だから忘れまいと夢に見るのかもしれないと、三郎は案外未練がましかったらしい自分を笑う。
そんな平等に愛おしい記憶の中で、唯一どの記憶とも似つかない、一際異色で鮮烈なものがある。それが、白浜露子と過ごした日々だった。
彼女との思い出はすべて現実味がなく、それは異世界なのではないかと、本当に夢か幻想なのではないかと疑わしくなるほどだ。彼女はいつも、決まって一際美しく輝く景色の真ん中で、くるくると踊ったり、穏やかに眠りこけていた。
不思議な女だ。人の話も聞かずに自分が美しいと思うものをまっすぐに追いかけ、手当り次第かき集め、それに埋もれてようやく顔を綻ばせる。どう考えたって対人向きでない彼女の性質には振り回されたが、しかし、なぜだかそんな彼女と過ごす時間は心地がよかった。
露子は最後に、さようなら、と言った。そしてその言葉のとおり、三郎は露子と二度と会っていない。
そもそも最後の日に先に別れを言ったのは三郎の方だった。“私がいなくてもしっかりするんだぞ。達者でな。”なんて言って、二度と会わない人にする顔をしてみせた。
露子はそれに、悲しんだ様子も、寂しがる様子もなく頷いて、やわらかく微笑んだ。そうして、冒頭の言葉───────今朝見た夢の光景に繋がる。
お互いに、卒業以前から別れを当然のように思っていたと思う。三郎の方だって、悲しくも寂しくもないはずだった。
だというのに。もどかしい様な、どうにか取り戻したいような、そんな思いがするのは、あの露子というヘンテコな女とすごした日々だけなのだ。彼女だけが消化されない。彼女の夢を見た日だけ、どうしようもない喪失感に襲われる。
そうして、心ここに在らずという顔で一日を過ごしていた三郎の元に、彼の旧友である久々知兵助はやってきた。雷撃よりも鋭く、雨よりも冷たい報せを手土産に。
「人伝に聞いたんだが……」
深刻な顔をして目の前に座る兵助が、そんな風に話し始めた時、あまり宛にならないな、と三郎は内心鼻で笑った。友である兵助のことは勿論信頼している。しかし、人伝の話なんて、相手が誰であってもいまいち信憑性に欠けるものだ。
兵助は目に見えて暗い顔をしており、悪い報せであることは明白だったが、あまり身構えずに続きを待った。兵助はそんな三郎を気遣わしげに見つめ、重たい口を開いた。
「露子ちゃん、三郎は覚えているだろう?くのいちで、同い年の……」
「ああ。いたな。あいつがなんだ?」
「それが、……
──────彼女、先日の嵐の日に、亡くなったそうだ。」
「……、は?」
思わず、呆けた声が出た。一瞬思考が停止して、何を言われたのかもわからずまじまじと兵助の顔を見てしまう。
兵助は、三郎と目を合わせられないようだった。気まずそうに目を閉じて、顔を逸らす。何故だろう。露子と仲の良かった三郎よりも、兵助の方が事実に耐えられないといった様子だった。
それをひとしきり眺め、そうしてようやくじわじわと言葉の内容を理解した三郎は、相変わらず呆けた表情のまま、ぽつりと兵助に聞き返した。
「戦場か?」
「いや、」
「敵城か?」
「違う」
「まさか、流行病か?」
「そうじゃない」
まず忍として、次に生き物として、考えうる死に方を妙に冷静な口調で上げたが、全て違うと言う。思わず顔を顰めて、「他にどんな死に方があると言うんだ」と聞けば、兵助は今度ははっきりとした口調で言った。
「雷だよ」
「か……かみなり?」
予想外の言葉と、それに似合わぬ真剣で真っ直ぐな兵助の瞳に、三郎は思わずたじろぐ。兵助はもう、言いにくそうにはしなかった。(三郎があまりにもあっけらかんとした様子だったので、繕う必要性を感じなくなったのかもしれない。)
「この前の嵐の日、大きいのが落ちただろ?あれがどうやら、露子ちゃんの家の近くに落ちたらしく……次の日、玄関の前で露子ちゃんが倒れているのを、村の者が発見したんだと」
頬を伝ったのは、冷や汗だった。ゴクリと唾を飲み込んだ時、三郎はやっと理解する。自分は、酷く動揺している。
「そ……それで、露子は黒焦げになったのか?丸焼きみたいに……」
「そんなの知るか」
なんでそんなことを聞くんだ、と言うように怪訝そうな顔をした兵助に、三郎はへら、と笑う。それから一瞬で表情を消した。
ああ、露子ってやつは、なんてマヌケなんだろう。そう思った。
どうせ、あいつの事だ。轟音と共に美しく光る雷を見物に行ったのだろう。それで、まんまとそれに撃たれたのだ。間抜けだしっかりしろとからかってきたが、まさかここまで馬鹿な死に方があるか?忍もなにもあったものじゃない。
白浜露子は、美しいものが好きだった。
紅く燃える朝焼け、木漏れ日がチラチラと光る森の奥、太陽の光を反射してきらきらと輝く海、池の中でゆらゆらと踊る月、色とりどりの花畑───────美しいものの魔力に取り憑かれていたに違いない露子は、いつも、そんな夢のような世界で息をしていた。その澄んだ空気を求めて、どこまでも走っていってしまうから、いつも仕方なく、三郎は彼女を追いかけるのだ。
1年生の頃、水面に映った月に手を伸ばし、池に落ちた彼女を助けてから、誰に決められた訳でもないが、三郎はそうすることにしていた。
そうして、お互いに5年生になった夏の日のことだ。裏裏山の、夏の花畑。木々の隙間から太陽に覗き込まれるその場所で呑気に眠っていた露子を発見し、彼女の隣で将来について話したことがある。
「───────例えば卒業後、お前はくノ一になって城勤めをするとして、だ。お前が水面の月にさわりたいと手を伸ばして池に落ちたとき、引っ張りあげる奴が仲間にいてくれたらいいんだが。」
「ああ……」
「心配ってわけじゃないさ。ただ、お前が……」
お前が、なんだろう。上手く先の台詞を浮かべることが出来ず、言い切る前に口を噤んだ。なんというか、まぁ、つまり言いたいのは、自分が見守ってきた白浜露子という女が、これからも変わらずこの世にあってくれればいいと、そう思っただけなのだ。
卒業後、きっと自分たちは再び会うことは無いだろう。お互いもう自立する大人なのだ。少なくとも、会おうと決めて会ったり、わざわざ家を訪ねたりしようとは思わない。ばったり出会う可能性は無くはないが、今までの自分たちを振り返ると、そこまでの縁があるわけではなさそうだ。
けれど、自分と関わりが無くなったあとも、この世のどこか美しいところで露子が顔をほころばせていたらいい。そう思った。どれだけこの世界に絶望しても、どこかでこの女が生きているのなら、そこには美しい景色が広がっている。それだけで、きっと、明日を生きる希望になる。
不自然に口を噤んだにも関わらず、露子はそうかもね、とうなずくので、きっとまた聞いていないのだろう。
「お前のことを話しているんだぞ」
そう言って、まあいいか、と目を閉じた。すると、しばしの沈黙の後、露子が隣で起き上がる気配がする。
それからゆっくりと、目を閉じた三郎の顔に向けて手を伸ばしてきた露子に、初め、面をとるつもりなのかと思った。そう思った上で、好きにさせようと思った。
しかし、いつまで経っても指先が触れることすら無い。片目をあけて露子を見れば、彼女は三郎を見下ろして、柔らかく笑っていた。それは、はっとするほど深い情を感じる目だった。
「花の影」
「……は、」
「きれい」
彼女はそう言って、もう一度ごろんと横に寝転んだ。呆けたまま、目を閉じた彼女の顔を盗み見れば、確かに花の影ができている。
それを見て、なんだかたまらない気持ちになる。泣き出したくなったと同時に、面を取りはらいたくなった。
嗚呼、そうだ。いつだって、美しかったのはお前だったのだ。美しいものを美しいと正直に言えるお前がそこにいるから、きっと私も、美しい景色を美しいと正直に思える。そんな美しいお前がいつか思い出すのが、私の顔だったならよかった。
頼むから、あまり遠くへ行かないでくれ。そう思ったが、それは聞き入れられることのない願いなのだろう。そして、繋がりをなくしてまで彼女を追いかけられるほどの勇気は、自分にはない。
そうして三郎は、露子から目を離したのだ。
目の前でじっと座る兵助は、何も言わずにただそこにいる。すっかり力の抜けた三郎は、自分の体が床をすり抜け、深い地の底まで落ちていくような、そんな感覚がした。
きれい。そう呟く、露子の柔らかい声が耳の中で優しくこだまする。
りん、と揺れた風鈴の音に、虚しさを感じた。
夏が終わる。
191222
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