金木犀が攫う夜
はい、と笑顔で渡された出門表に自分の名前を書くのは、もう随分慣れたことだった。お休みの日にも、友だちと甘味を食べに行く時にも、おつかいの日にも、帰省の際も、なんどもなんどもこれに名前を書いたものだ。しかし、こんなにもどきどきと胸が高鳴るのは、はじめておつかいに出た日以来かもしれない。
いつになく慎重に、なぞるように自分の名前を書いていく。筆を持つ手が僅かに震えて、その度にゆっくりと息を吐く。誰に見られても恥ずかしくない、美しい字にしたかった。
小松田さんは、いつも通りにこにこと口元を緩ませながらも、私の顔と出門表を交互に見つめていた。ほんの少し、不思議に思ったのかもしれない。しかし、何も言わずに見守ってくれた。
そうしてようやく最後の文字の、よりによって最後の画を書いているときだった。
「あれ、なまえじゃないか。どこか行くの?」
突然後ろから声をかけられ、ぐ、と線がぶれてはっとする。小松田さんがああ!と声を上げるので手元に視線を移せば、墨がはね、線はぐにゃりと曲がっていた。それを見て、私は途端に雨に打たれたような気分になる。
私のことをなまえ、と呼ぶ忍たまは限られている。というか一人しかいない……尾浜勘右衛門だ。振り返ると、藍色の忍装束を身にまとった彼が、不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
小松田さんが大きな声を上げたから、何かあったのかと思ったのだろう。悪気のないその様子に肩に入っていた力が抜けた私は、何も無いのだと伝えるためににっこりと笑ってみせた。
「町に行くの」
首を傾げながら笑ってそう言うと、勘右衛門は初め、自分のした質問を忘れていたのかますますきょとんとした。それから直ぐに思い出したようで、そっか、と同じように首をこてんと傾けて笑う。
「気をつけてね」なんて言ってヒラヒラと手を振ってきたので、私も手を振り返して門をくぐった。小松田さんにお礼を言うのも、勿論忘れずに。
思い返してみても、この一連のやり取りの中に違和感なんてなかったはずだ。
「つかまえた」
背後に気配を感じた時には、そうやって肩を掴まれていた。振り返った私は、ここにいるはずのない勘右衛門をぽかんとしながら見上げるしかなかった。つかまえた、なんてまるで鬼ごっこでもしていたみたい。にこにこ笑顔の勘右衛門を見つめながら、そんな見当違いなことを考える。
「町はそっちじゃないよ、なまえ」
「……ああ、うん……」
「一緒に行こうか」
勘右衛門は、ぼうっとする私を他所に勝手に提案して、私がそれを受け入れる前に私の手をとる。びっくりして咄嗟に振り払った。勘右衛門はそれでも少しも気を悪くした様子もなく笑って、「そしたらこうしようかな」と私の腕を掴んだ。一度目に勢いよく振り払ってしまった罪悪感からだろうか、今度は振り払えなかった。私が拒まないのをこれで納得したと解釈したのか、勘右衛門はひとつ頷いて、私の腕をゆるく引いて歩き出す。
「こっちこっち。いやぁ、なまえが方向音痴だったなんて初めて知ったな、結構長い付き合いなのに」
「…どうして私がここに居るってわかったの?」
「ん?ああ、それはね、」
内緒話をするみたいに、密やかにくすくすと笑って、「なまえが街に行くって聞いて、俺も急に行きたくなって。それであとからなまえを追いかけたら、違う方向に向かってったからさ」といった勘右衛門に、私はそう、と浮かない顔で返す。頭では、どうやってこの場を逃れようか、そればかり考えていた。
そうだ。このまま勘右衛門と楽しく街に出かけて、そのまま学園に帰るだなんてそんなわけには行かない。私は、帰る気なんてなかったのだ。このままずっと、ずっとずっとまっすぐ進むつもりだったんだ。それなのに、こんなに早くに学園に帰るなんて、ましてや同級生の勘右衛門と仲良くおててつないでなんて、────そんなの絶対に有り得ない。
「か、…勘右衛門。腕、その、熱いから、ちょっと離して」
「だーめ。迷子になったら困るからね。3年生の戸松作兵衛みたいに縄で引っ張るのもいいけど、それは危ないし俺はあまりやりたくないな」
勘右衛門はそう言って、私の腕を掴み直した。私は思わず勘右衛門の表情を盗み見た。まるでうっかり外れてしまうことがないように、このままだからね、と私に言いきかせるように感じたから────私が端から街に行く気がなかったこと、ホントはばれてるんじゃないかと思って。でも、勘右衛門はどこまでも爽やかな笑顔を浮かべていて、腕を掴む手だって優しくて。それを確認して、私は、こいつはこういう奴だった、と納得する。勘右衛門は、天然でマイペース。だから、はっきり言わなきゃ、きっと勘違いしたままだ。
「勘右衛門、」
「なに?」
「私、私ね、私は……」
「なに、言いづらそうに。大事な話?」
勘右衛門は立ち止まって、私の顔をのぞき込む。その大きな瞳に、私の心の汚いところを見つけられてしまうのがたまらなく嫌で、私はするすると視線を下に逸らした。それから、力無く笑う。
「……どうだろう、大事かな。ひょっとしたら勘右衛門にとってはどうでもいいかも」
「俺でよければ聞くよ。おいしいものでも食べながら。どう?」
今日は俺のおごりで。
人のいい、実に無害そうな笑みでそう言われてしまえば、なんだか肩の力が抜けた。必死で勘右衛門から逃れようとすることが馬鹿馬鹿しく思えてきた。この純粋な優しさを振り払ってまで、今、私は遠くへ行くべきではない。そうして私は観念して、ようやく勘右衛門の隣に立って歩き始めたのだった。そんな私に、何が嬉しいのかにやにやしながらふふ、と柔らかく笑い声を漏らすこの男に、私は本当に言いたかったことの代わりに何を話そうか。本当なら今日には消えてしまうつもりだった私は空っぽで、面白い話は何も浮かばない。
190119
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