まだ名前のない花




「こまったさん」


特別大きな声だった訳でもありません。遠くの賑やかな子供たちの声に紛れてしまいそうなほどの声量でしたが、その声はしっかりと事務員の小松田さんの耳に届きました。
彼は箒を動かす手を止めて、あたりをきょろきょろと見渡します。そうしてすぐに、縁側に佇みこちらをじっと見つめる1人のくのたまを発見したのでした。


「あっなまえちゃん。今僕のことこまったさんって呼んだ?」

「呼んでませんよ、こまったさん」

「ほらぁ〜!やっぱり呼んだ!僕の名前はこまったさんじゃなくて、小松田秀作です!」

「こまったしゅうしょく」

「小松田秀作!」


目をキッと怒らせながら小松田さんがそう言うと、なまえと呼ばれた少女はつーんと感じ悪く顔を逸らしました。
事務員の小松田さんは、人がいいことで有名です。彼はへっぽこですが、人がよくて憎めない、そんな人間性もあってこそ忍術学園の事務員をしています。だから、そんな優しい彼にこんな態度をとる少女を見て、何があったのかとびっくりするかもしれませんが、彼女はいつもこうなのです。それも、小松田さんの前でだけ。彼女はくのたまの中でも上級生にあたる歳で、愛想というものもとっくに覚えているはずなのですが、小松田さんの前ではいつだって不機嫌でした。それから、とっても悪戯っ子でした。
こうして彼を"こまったさん"と呼んでみたり、いつの間に彼の髪にピンク色の派手なリボンをまいたり、"こまったさん"と書かれた紙を背中に貼ったり、寝坊した小松田さんの顔に落描きしたり(これは小松田さんの自業自得ですが)、くっつき虫をたくさん背中に投げつけたり、吉野先生のお茶を渋めのものと入れ替えたり。

これだけのことをしているのですから、彼女は悪戯が好きなのだと、小松田さんを困らせるのが楽しくてしょうがないのだと想像するかもしれません。
しかし彼女は、困っている小松田さんを見て、他のいたずらっ子のように笑ったりしません。ただ、じっと見ているのです。そうして小松田さんが怒ると、つーんと顔を逸らします。
愛想皆無の少女の顔をしばらく見つめていた小松田さんは、唐突にあ、と言った後、「ねぇ、なまえちゃんは、」と何事かを言いかけました。その時でした。
なまえの頭がゴン!とすごい音を立てたのは。


「いっっ……たぁぁ……!」

「コラ!なまえさん、小松田くんを困らせるんじゃありません!」

「や、山本シナ先生……」


小松田さんが、なまえの頭に鉄拳を落としたその人の名を呼べば、彼女、山本シナ先生は小松田さんの方を見て困った顔をしました。それから、「ごめんなさいね、うちの生徒が……気を悪くしないでちょうだいね」とそう言って、行きますよ、となまえを引きずって行ってしまいました。

ぽつん、と1人取り残された小松田さんは、最後まで言えなかった言葉を心の中で反復し、ふう、とひとつ息を吐きました。


「また言えなかったなあ……」


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時は1か月前に遡ります。
その日は、一年は組の実技担当である山田伝蔵先生のご子息、利吉さんが忍術学園を訪れていました。彼は小松田さんの憧れのフリーのプロ忍者です。
彼が入門表にサインをしているとき。それを見守っていた小松田さんの頭巾が、突然はらりと解けて地面に落ちました。


「わっ!えっ?ええっ?どうして突然頭巾が……」


そう慌てた小松田さんを、利吉さんは呆れたように見つめます。それから小松田さんのすぐ後ろ、忍術学園の塀の上を指差しました。


「彼女だよ、小松田くん」

「え…?ああっ!!なまえちゃん!!」


塀の上でこちらの様子をうかがっていたらしいなまえの姿を見て、小松田さんはキッと目を怒らせました。
小松田さんは誤魔化せても、プロである利吉さんの目は誤魔化せません。それはそうなのですが、それでもなまえはあっさり自分の仕業だとバレてしまったことに思わず目を丸くさせました。
その様子を見て、じぶんでやったくせに!と小松田さんの頬はますます膨れていきます。それから拳を上に突き上げて、抗議するように彼女に向かって言いました。


「降りてきなさ〜い!」

「小松田さん、怒っているでしょう?怒られるの嫌だから嫌です」

「怒ってます!僕だって怒ります!また悪戯して……今日という今日はゆるしませーん!」


本当は小松田さんも塀をのぼって追いかけたかったのですが、なまえが利吉さんの方をちらりと見て「こんにちは」と礼儀正しく挨拶をしたものですから、彼も再び利吉さんの方に気がいってしまい……その隙になまえは音もなく塀の上から消えてしまいました。


「あー!また逃げられた!もう!」

「彼女、いつもああなの?」

「そうなんです!聞いてくださいよ利吉さん!なまえちゃん、いつも僕にだけああやって意地悪をしてくるんです」

「へえ……年下の女の子にやられっぱなしっていうのはまた……」


そう言って肩を竦めた利吉さんでしたが、小松田さんが気にしているのはそこではありません。よって、利吉さんの言いたいことは小松田さんの耳には届きませんでした。

以前、山本シナ先生が話していました。なまえは決して悪い子ではなく、忍術学園の立派なよいこなのだと。勉強だって真面目にするし、下級生の面倒もちゃあんと見ます。先生やほかの生徒に対して、このようなイタズラをしたことはありません。くのいち教室の生徒にしては珍しく、忍たまに対しても、積極的にからかうような事はしてこなかったといいます。
そんな彼女が、自分にだけ悪戯をする。小松田さんが気にしていたのはそこでした。


「僕、やっぱり嫌われてるのかなぁ」

「…………」


しばしの沈黙の後、ズコー!と利吉さんはズッコケました。ノリのいい男です。しかし小松田さんは真剣なので、突然ずっこけた利吉さんを不思議そうに見つめました。


「だって、僕のこと嫌いだから僕にいじわるをするんでしょう」

「君、彼女に嫌われるようなことしたの?」

「したつもりはないですけど……」


それなのに……と小松田さんはどんどんしょんぼりしていきます。めんどくさいな、と利吉さんが思い始めた頃には、小松田さんは利吉さんのことを頼りきった目で見つめていました。利吉さんはもう一度、本当にめんどくさいな、と思いため息まで吐きました。


「はあ……気になるのなら、本人に直接聞いてみるといいんじゃない」


利吉さんは、走り去った彼女を思い出し、そう言いました。投げやりで言ったわけではありません。寧ろ、あの不器用なくのたまのためにチャンスをやろうと。あとはなるようになるだろうと。それくらいの気持ちでした。
いつでも真っ直ぐな小松田さんは、利吉さんの言葉にぱぁと顔を明るくさせ、それもそうですね!とにっこりしたのでした。



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明くる日。シナ先生に叱られたにもかかわらず、懲りずに小松田さんに悪戯を仕掛けたなまえを、とうとう小松田さんは捕まえました。
がちりと彼女が固まったのは肩に触れたほんの一瞬のこと。小松田さんが彼女の顔を覗き込む頃には、彼女はいつもの不機嫌な顔でした。


「もう!どうしてなまえちゃんは僕にばかりイタズラするの!」

「してませんよ」


つーん、と顔を逸らしたなまえに、小松田さんは更にぷんぷんと怒り、膨れっ面で言い返しました。


「し、て、ま、す〜!絶対してます!こんなに僕のことばかり追いかけ回して…………あっ、そうだった!なまえちゃん!」

「へ」

「ねえ、なまえちゃん。なまえちゃんってやっぱり僕のこと……」


両肩に手を置かれ、逃げられない状況でそう問いかけられたなまえは、それはもうどきりとしました。それから、質問の内容にすぐに勘づきました。
────バレてしまった。いやだ、恥ずかしい。まだ言えない。違うって言おう。小松田さんのこと、別に、なんとも思ってないって。いたずらが面白いだけって、他のくのたまの娘みたく、そう言おう。言うしかない。
そう思ったなまえは少し息を吸って、いつでもそう言える準備をしたのですが。小松田さんの質問は、なまえの予想する“すきなの?”でも、利吉さんに入れ知恵された“きらいなの?”でもありませんでした。


「僕のこと…………倒そうとしてるでしょう!」

「……………………はっ?」


なが〜い沈黙の後、素っ頓狂な声を上げたなまえに、小松田さんは追い打ちをかけるように真剣な顔で言いました。


「僕のことやっつけたいくらいに嫌いなの?」

「ちっ…ちっがぁ〜〜〜う!!!」


なまえはそう叫んだ後、直ぐにはっとしました。あれ。小松田さんは今なんと言っただろう。倒そうだなんてわけのわからないことを言われたから、そちらにばかり気がいってしまったけれど。
嫌い?って聞かれて、大きな声で、全力で違うって言ってしまった。これじゃあ、これじゃあまるで、


「ふぅん……そっか。僕のこと嫌いじゃなかったんだ」

「あの、えっと、ちが……!」

「…僕、怒られてばかりだし、困らせることの方が多いから。よく考えたら僕のこと困らせるの、なまえちゃんくらいだからなぁ。」


嫌われてないなら、いいやあ。

ふにゃり。小松田さんは、さっきまで怒っていたことも忘れて、もう柔らかく笑っていました。
なまえはそれをぽかんと見つめていました。それから突然、その大きな猫目からぽろりと大粒の涙をこぼしました。正面でそれを見ていた小松田さんはもちろんぎょ、としました。


「わぁ!?なまえちゃん!?ど、どうして泣いて……!た、たいへんだぁ……!!」

「…めんなさい、ごめんなさい」

「え?」


ごめんなさい。小松田さん。
わたし、まだ意気地無しで、こんなにもやさしい貴方に言いたいことも言えないままだけれど。いつか絶対、絶対に……

嗚咽混じりで、辛うじてききとれたのはそこまででした。
小松田さんは、その後本当に泣きはじめてしまった彼女を座らせて、よしよしと撫でながら、1人考えました。
どうしてこんなことになったんだっけ。なんだかよく分からないけれど、なまえちゃんて、歳もひとつかふたつくらいしか変わらないのにこうして見ると小さいんだなぁ。
なんて、なまえが聞いたら怒りそうですが、小松田さんは呑気にそんなことを思いました。




次の日、なまえは小松田さんの前に姿を現しませんでした。
しかし、小松田さんが掃除を終えふと視線を落とすと、腰紐の間に、一輪の花が。
小松田さんはそれを太陽にかざし眺めると、一人ふふふ、と笑いました。


「なまえちゃん、お花、ありがとねぇ」


自分を困らせてばかりの少女は、やはり、案外可愛い1人の女の子なのでした。
小松田さんがどこに向かって言うでもなくお礼を言えば、後ろの茂みが、かすかに揺れました。

200304

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