惨めだな。そう自分に囁けば、少しだけ胸に痛みが灯った。
視界が開けているおかげか、足場に困ることはなくひょいひょいと進んでいけている。
身軽なこの身は、大した労働をしたという自覚もなくあっさりと家の屋根に上りついた。
首を巡らすと、平凡な住宅街が目にうつる。
「……クフフ」
ごろごろ、と喉が鳴るも、その声は六道骸の他無らない。
梅雨が始まるか始まらないか。先週までは雨続きだったことを考えると、天候が不安定という意味でもはや梅雨入りしているのだろう。
僅かに湿気が多く含む空気は、しかしこの体にとって毒にも薬にもなりはしない。
無意識に休む体制に入ろうと足を下ろすと、視界の隅の見慣れない物体がゆらりと動いた。
並盛町は、今日も平和である。
憎らしいほどのこの平凡さが変わる日はなく、着々と非日常へ身を投じることとなる沢田綱吉ファミリーを取り残すかのようだ。
骸はといえば、昔から平凡などとは打って変わった生活をしているため論外となる。
そういう点をいえば、この並森町に住んでいないのは当たり前のような気がしてきた。
最初からここに住んでいれば、きっと、
「にゃあ」
思わず自嘲すると、その思考と全く噛み合わない声が口から漏れた。
この馬鹿げた口調は何も骸の趣味ではなく、文字通り骸の体のせいだ。今現在の骸は人間ではない。
何かといえば、野良猫だ。
動物に憑依するということも何パターンか成功しているとはいえ、猫は初見の部類に当たる。
まさかこれほど軽やかに動いて、しかも視界が夜に特化しているとは思いもよらなかった。
おかげで昼間の今はどこか違和感が残る視界となっている。自分の活動時間は今ではないと訴えているかのようだ、そんなもの知った事ではないが。
ふと、小さな三角の耳が狙ったエモノを捉えた。
きーん、こーん、かーん、こー
チャイムだ。
遠く離れた場所での音なのに鮮明に聞こえるのは、猫が人間よりも耳が良いという立証になっている。
その場で大きく伸びをすると、この体は気持ち良さそうに良くしなった。
この野良猫の体を喜ばせるために憑依しているわけではないのだが、驚いたことに人間よりも無意識上の意識が残っているようだ。
再び足を動かすと、重力を感じさせない動きで屋根の上を飛び移る。
いわゆるお家育ちはこんなに野生に馴染まないだろう、野良の雑種だから動きやすい体をしているのか、その検証も是非今度やってみたいものだ。
難なく屋根を十数個渡りきったその場所は、今まさに人間がわらわらと動いていた。
「今日って半額じゃね?ラッキー!」
「でさー、先生が言い出したっていうのに結局さ」
「おい待ってってば!ちょ、こら!」
様々な声が飛び交い、耳の中が飽和状態となりつつある。
学校の先ほどのチャイムは下校を意味していたようで、校舎から吐き出されるように大勢の生徒が帰路についていた。
夏服に新調されたばかりの制服が、陽に白く映えているように見える。
まともなものを何も考えていないようなそんな雰囲気を、冷めた目で見つめながらも目を動かす。
骸は、人を探していた。
「…………」
見つけた。
今日は沢田綱吉のグループと一緒に帰ってはおらず、そのまま帰路につこうとしている。
一瞬だけ振り返ったのが校舎の時計だったことから、予定があるという意味に繋がった。
早歩きで帰っていくその姿に、ふらりと猫の姿が揺れる。
道路までの高さは、およそ四メートル。
「にゃ」
簡単だ。下りればいい。
昼間から夕方に移り行く陽の光が、道路に動物の姿を浮かばせる。
何の支障も無かったかのように、この体は地面へと着地した。
探していた人は前を歩いている。長い髪が柔らかい風に乗って揺れているのが、妙に懐かしく思える。
校門から出てきたばかりの生徒が、突如として降ってきた猫を不審そうに見つめていた。
ふらりふらりと、尾を揺らす。
「…………」
呼びかけてみたらどうだろう。
あの人の名を呼べば、恐らく僕に気付くのではないのだろうか。
試してみようと思うことは、骸には出来ないことだった。
その早歩きで進んでいく姿を、四本足で追いかけた。
湿気が多いのに紫外線も強いこの季節、アスファルトはじりじりと熱を補充している。
今日は、自ら決めたこの行動を、やめるわけにはいかなかった。
そっと横に並ぶと、その人を見上げる。
目が合った。
「え、……猫?」
何故その言葉が真っ先に出てきたのか、もしかしたら疑問に思う程度には猫あらざる気配を感じたのか。
それすらも聞けないもどかしさを感じながらも、こうして再び会えたことに胸の痛みが浮上する。
何も変わっていなかった。
初めて会った日から何も変わっていないーー瀬川千柚璃だった。
にゃあ、と一鳴きすると、不思議そうに覗いてくる。
「どこかの飼い猫なの?」
「み」
「こ、困ったなぁ……」
考え込むように、千柚璃は眉根を寄せる。
用事と飼い主探し、どちらを取るべきかというところだろうか。骸は尾を少し揺らしてみる。
少しだけ嬉しく思えたことに、胸中にぽつんと黒点が穿たれるような思いだった。
こんな姿で会うことに意味があるのかと言われれば、何も無いのかもしれないのに。
くふ。変な声が口から漏れる。
「……んー、飼い主の家が近くなったら自然とこの子も分かるのかな」
暖かい腕が、小さな骸を拾い上げた。
結局は骸と一緒に居ることを了承したのか、ふわりと笑みをくれる。
まるで人間と接するように笑顔を見せた千柚璃に、骸は何とも言えぬむずがゆさを覚えた。
梅雨入りしてるとは思えない、透きぬける快晴の日のこと。
作成時期:09,6/8[7:53]