▼ ▼ ▼
初対面の印象が(お互い)最悪であった邂逅イベントから早数日、私は今“地球の丸みに沿って建てられているかのような高級住宅(ハイグレードマンション)”の目の前に立っている。右手に豚汁をぶら下げて。
あの衝撃的な出会いの後、兄に模試の結果を見せたらそれはもう想像通りの喜び方で喜んでくれた。しかし受験とは油断ならないもので、どんなに模試の成績が良く合格圏内でも何かの拍子につるっと滑ってしまうこともある。大事な大事な妹の大学受験という名の大一番、不安は限りなくゼロにしたいのだろう。兄は、「これからも勉強を頑張りなさい」と告げた後に、悪夢のような提案をした。
皆さまのご想像通りである。私は結局、宇佐見先生(長いので略す)に勉強を見てもらうことになったのだ。
全ての事情を知っている私からすれば、兄のやっていることは鬼畜の所業である。
兄は知らないであろうが、宇佐見先生は幼少期の複雑な家庭環境から女という生きものを信用していない。“高橋孝浩の妹”という立場を差っ引いたら絶対にこの話はなかったことにされているだろう。
そもそも彼は懐に入れた人間にはとことん甘いが、そうでない人間は男女問わず容赦ない。確実に“そうでない人間”枠の一人である私を自分のプライベートスペースに招くなど、苦痛以外の何者でもないのだ。宇佐見先生、兄を許して。多分無条件で許してるだろうけど。
兄は原作通り、彼の不器用な愛情表現にはさっぱり気付いていないようだった。もう無理。つらい。
あれだけ過密なスキンシップをしておきながら、肝心な自分の気持ちは告げられず、しかし好きな人のためならばほぼ初対面の女を自宅に招き入れる、という精神的苦痛すら受け入れてしまう。う〜ん、尊い。尊みが強すぎて涙が出てきた。
こちらも一腐女子として何とかしてあげたい気持ちはあるのだが、兄は結婚するのだ。苦労した兄の幸せに水を差すことはできないし、彼だって望まないだろう。本当に報われない。
萌えと同情が入り混じった複雑な気持ちになりながらも、前世と今世共にキャチッキャチのド庶民である私は何とか高級マンションの一室の前までやってきたのである。
「(確か1話では寝室で仮眠をとっていてチャイムに出れなくて勝手に部屋に入るんだっけ…)」
ここは漫画の世界であって、漫画の世界ではない。紛うことなき現実なのだ。もしチャイムを押さずに部屋に入ってデフォ状態の宇佐見先生と遭遇してしまった場合の損失が計り知れない。宇佐見先生のことだから兄の評価を落とすことはないだろうが、元々“そうでない人間”枠の私の印象は地に堕ちるであろう。試験まで気まずいのは嫌なので、それだけは何としてでも避けたい。
こんなしょうもないことで手が震えている。チャイムを押すだけだぞ私。深呼吸だ、深呼吸。ヒッヒッフー、ヒッヒッフー。よし、押すぞ。
ピンポーン
出ない。もう一度。ピンポーン。……出ない。3回押しても……出ない。よし、これは原作通りの展開で間違いないようだ。
一応小さい声で「お邪魔しま〜す…」と声を掛けてから、宇佐見先生の縄張りへ一歩足を踏み入れる。
「ほぁ〜〜〜 リビング広すぎワロタ〜〜〜」
長い廊下を抜けると、一人で生活するには広すぎるリビングがどんと構えていた。あまりの広さに、失礼なこととは分かっていながらもキョロキョロと辺りを見渡してしまう。こうして見ると必要最低限のものしか置いておらず、モデルルームのようだった。
とりあえず豚汁をテーブルに置くと、目に入ったのは宇佐見秋彦大先生の待望の新作である「空中深海」と、例の“秋川弥生”の作品、「ロマンスは生徒会室で」だった。
実は今世でも腐女子を捨てきれなかった私は、今生きているこの世界が「純情ロマンチカ」であると知って真っ先に秋川弥生先生の作品を読んだ。さすが直森賞受賞作家、ストーリーや設定自体は王道でありながら、ラブシーンの切な甘い表現力はさすがのもので、一気に全シリーズを読み終えてしまった。ちなみに「ロマンスは生徒会で」はファンの間では待ちに待った秋川弥生先生の最新作であり、私はつい一昨日読み終えたばかりで、内ではまだ熱く燻っている。語りたい。延々と。
「(私はこれからどの行動をとればいいのだろう…)」
さすがに「兄をBL小説のモデルにされ激怒し殴り込みに行く」という体力と気力はない。というか「ロマンスは生徒会で」は近年稀に見る名作だった。文句のつけどころがない。彼に何か言うことがあるとすれば、「感情が高ぶってしまい屋上で孝浩を抱いてしまった秋彦の心情描写がアツすぎて本当に良かったです」くらいである。
しかし「勝手に入ってていい」とお達しがあるにしろ、家主に顔も出さずリビングに居座っているのは気が引ける。形だけでも挨拶はしておこう。
▼ ▼ ▼
コンコン。ひとまずノック。思った通り反応はなかった。玄関に入った時と同じように小声で「お邪魔します」と告げてから、刺激しないように息をひそめて魔境、じゃなかった、宇佐見先生の寝室へ足を踏み入れた。
「…………」
ドンドコドン、シャンシャン、シュッシュッポッポ。右から順に太鼓を叩くクマのおもちゃ、音楽を鳴らしながら踊る子猫のおもちゃ、機関車のミニ模型プラ○ールである。圧巻。
足の踏み場もないほど散乱したおもちゃを右から左へ眺めたあと、部屋の中心で異様な存在感を放っているダブルベッドを見た。そこにはつい先ほどまで死んだように寝ていた宇佐見先生がこちらを睨み付けていた。隣で寝ているクマのぬいぐるみが霞む。これは素直にヤバイ、と直感が告げていた。
「(な、何か言わないと…!)あ、あの!!今日からお世話になります、高橋むつみと申します!よろしくお願いします!「ロマンスは生徒で」すごく好きです!ファンです!!感情が高ぶってしまい屋上で孝浩を抱いてしまった秋彦の心情描写がアツすぎて本当に良かったで、違、えっと、お邪魔してすみません!!!!」
捲し立てるように用件を叫んだ後、勢いよく頭を下げる。怖すぎて顔を直視したくなかったからだ。しばらくの沈黙。
すると、のそのそ、と衣擦れの音がして、彼がベッドから降りたことが分かった。そのまま足音が私の方へと近付き、視界の淵で彼の足先が見えたところで立ち止まる。何が起こるのか見えない不安から顔を勢いよく上げると、視界いっぱいに宇佐見先生の顔があった。左側には宇佐見先生の腕が進行を妨げるかの如く伸びており、いわゆる“壁ドン”の状態になっていた。
「え、近……!?」
「見たのか」
青白い隈をこさえて不健康極まりない顔を顰めながら、ただ一言そう言い放った。
見た、とは、アレだろうか。「ロマンスは生徒会で」のことだろうか。
「は、ハイ……見ました、けど……」
あまりの威圧感に喉の奥が震えた。震えながら何とか発した声は、ちゃんと言葉になったようで、宇佐見先生はそれを聞いた後に深い溜息を吐いた。
「名前」
「え?」
「―――作中の名前を見て、何も思わなかったのか」
こ、ここで突っ込まれるとは思わなかったぞ〜!?
作品に登場した攻めと受けの名前は、確かに目の前にいる宇佐見さんと兄だった。しかしこちらとしては作品は作品であり、それ以上でもそれ以下でもない。登場人物がたまたま兄と名前が被っていたところで、こんな偶然もあるんだな程度だ。それが殺人鬼の役であったり、相次いで不幸に見舞われる役であれば多少思うことはあれど、それにいちいちクレームを入れるのも馬鹿馬鹿しい。しかも私からしてみればてめーらも作品の一部だったんだよばかやろうという話で、兄と宇佐見先生の過度なスキンシップは事情を知っているだけにハラハラものだったわけで、それに比べれば屁でもない。
幸い兄はこういった作品とは無縁で天地がひっくり返っても手に取ることはないから、私が口を滑らせなければバレる心配もない。
宇佐見さんは「気持ち悪くはないのか」という意図で聞いているのだろうが、前世と今世を合わせて腐女子歴ウン十年の私からすれば何のこっちゃという感じだ。
愛の形は人それぞれ。性別の違いなんか屁でもない。異種間の焦ったさと切なさを知らないのか。社会や理性と葛藤しながら愛を貫く姿は美しい―――と、脱線してしまったが、とにかく私は何が言いたいのかというと、秋川弥生先生の大ファンだということだ。
「いえ、…… 愛の形は人それぞれですから」
連日徹夜をしていたことが察せられる深い隈で凄みを増していた宇佐見先生は、フンと鼻を鳴らして寝室を後にした。
え、何か不味いこと言っちゃったかな。
数日ぶりの再会は、やはり嵐のようだった。
愛の魔物を手なずけたい