▼ ▼ ▼

「一般中流家庭に憧れているんだ」

―――それは唐突に始まった。
宇佐見先生が出て行ってからすぐはあまりの衝撃に暫く寝室のドアの前で固まっていたのだが、ハッと豚汁のことを思い出して、急いで宇佐見先生のあとを追った。リビングでは、完全に意識が覚醒したと思われる宇佐見先生が腕を組んでソファに座っていた。
私はどうすればいいのか分からず、リビングの入り口の前にぼけっと突っ立っていたのだが、長い沈黙の後に宇佐見先生がこちらを横目で見て、視線で宇佐見先生の対面にあるソファに私を誘導した。

それから、冒頭である。
居た堪れない空気なのはお互い様なのか、宇佐見先生はおもむろに煙草を手に取り吸い始めてから、口を開いたのだった。

「フツーの子どもがフツーにしてきたことをフツーに再現しようとしておもちゃを中心に色々買い集めていたらああなったんだ」

ちなみにこの熊(ひと)は鈴木さん、とご丁寧にクマのぬいぐるみまで紹介してくれた。その発想自体が既に普通ではないことに彼は気付いているのだろうか、……否。
とにかく私はそういった旨に対してさしたる偏見がないことを伝えるべく、重い口を無理やり開いた。

「いえ、あの…そういった趣味があることに対して偏見はないので… その鈴木さん?も大事にしていらっしゃるんですね」

宇佐見先生はちょっとだけ目を見開いて、驚いた顔をした。また私は変なことを口走ってしまったのだろか。

「―――それで、志望校はどこなんだ?」

一瞬で素に戻った宇佐見先生は、本題を突きつける。この人は本当に唐突だ。

「M大です」
「お前の今の学力であれば余裕で受かるだろう、何故わざわざ俺に家庭教師なんて頼んだんだ」

宇佐見先生は思い切り顔を顰めて言い放った。いや、私も本当に心底そう思ってるよ。でもあなたも私も大好きな兄が、「念には念を、だぞ」と無慈悲に背中を押したのだ。本人は完全なる好意のつもりなのがつらいところなのだが。
しかし、宇佐見先生が兄の笑顔を見たいように、私だって大学に合格して喜ぶ兄の姿を見たいのだ。そして一緒に喜びを分かち合いたい。今まで面倒見てくれてありがとうって、恩返しの意味も込めて、兄の期待にめいっぱい応えたいのである。

「兄が…私の受験をすごく応援してくれていて… 私もそれに応えたいんです。兄が大好きだから、兄の喜ぶ姿が見たい。そして一緒に喜びたいんです。」

この気持ちを素直に人に話すのは初めてだった。気恥ずかしくて、少し俯く。行き場のない指先を遊ばせながら、彼の返事を待った。

「理由は分かった――― そうとなればお前の苦手な分野を徹底的に克服するぞ。どんな大学だって受かるように仕込んでやる、いいな。」
「は、はい!」

兄の喜ぶ姿を想像しているのだろうか。先ほどとは打って変わって身を乗り出して家庭教師を快諾してくれた宇佐見先生は、私が見た彼の表情の中で一番素敵な表情だった。

▼ ▼ ▼

どんな大学でも受かるようにしてやる、の宣言通り、模試だけではなく学内での成績もメキメキと伸びていた。担任からはもう少し志望校を上げても問題ないのではないか、と言われたほどだ。しかし私が師事したい教授はM大学にしかいないため、併願校のランクを少し上げることにした。

「相変わらずお前は吸収が早いな、先生である俺も鼻が高い」

相変わらず模試はA判定。模試の結果を満足気に持っているのは、現在家庭教師を買って出てくれている宇佐見先生だ。
筋金入りだと思われていた宇佐見先生の女嫌いも、たかが18歳ぽっちの小娘は対象外なのか、日が経つにつれ砕けて接してくるようになった。嫌悪丸出しで眉間に皺を寄せていた宇佐見先生の顔は暫く見ていない。今もこうして勉強に入る前に軽い雑談をしているくらいには、それなりに仲を深めた(つもりである)。

「孝浩も喜ぶだろうな。早く合格して喜ぶ孝浩の顔が見たいよ。」

宇佐見先生は、兄の話をする時は本当に幸せそうな顔をする。兄の喜びを、幸せを、自分のことのように大切に扱うのだ。兄のために費やした時間や犠牲は顧みず、報われないことも分かっていながら。
彼が兄を大事に、大事に、宝物のように接していることは知っている。でも、確認せずにはいられなかった。

「―――宇佐見先生は、お兄ちゃんのことそんなに好きですか?」

唐突な質問に驚きもせず、ソファに腰を下ろした宇佐見さんは「何だよ急に」と全く意に介していないような態度で返事をした。
「好きなの?って聞いてるんですよ」と暗に茶化すなという意味を込めて語気を強めると、苦笑しながら溜息をついてこう答えた。

「安心しなさい。言ってみれば俺の片思いだ。」

そんなこと、知っている。そんなことを聞きたいわけじゃない。

「違う、そうじゃなくて……お兄ちゃん、付き合っている女性がいるんです」

思わず口をついて出た言葉だった。私は未来(さき)まで知っている。兄と近いうち挨拶に来るであろう兄の彼女は、兄と結婚する。登場回数も少なく彼女の容姿は朧げだが、黒髪の似合う綺麗な女性だったことは覚えている。皆口を揃えて「お似合いだ」と言うだろうな、というくらい、幸せそうな二人だった。宇佐見先生の付け入る隙なんて、どこにもない。この恋ははじめからバットエンドだったのだ。

「知ってるよ」
「……」
「好きな人の傍にずっといれるってのは、友人の特権かもね」

こんなにつらい思いをしているのに?前世ではろくに恋愛をしてこなかった私ですら、十数年間の宇佐見先生の想いを自分に当てはめて考えると、どうにかなってしまいそうだった。
出会う前は、事の端末を知っているが故の単なる同情だった。宇佐見先生と関わりが濃くなっていくうちに、彼の内に秘めた想いがとても綺麗で切ないことに気付いて、どうにも居た堪れなくなってしまった。何故兄はこんなに彼の近くにいて、何も気付かないのだろう。

「宇佐見先生が、兄を本当に一途に、大切にしていることは知っています。この関係を壊すのが怖くて、つらくても良いから親友という同性の中で一番近い距離を保っていることも。でも、―――そんなの、つらすぎる」

宇佐見先生の顔を見ることができなかった。

不変を唱えたまじないが今も耳底に鳴り響いている