かえりみちの救済者



こじんまりとした居酒屋はご機嫌な声に満ちていた。ひと月ぶりに会った硝子さんとは積もる話が尽きなかったが、本題はこれからだ。声を潜め「実はですね…」と本題に切り込むと一瞬、周囲の雑踏が耳を澄ませるように止まった気がした。

「会社員の彼と別れました」
「だと思ったよ」

呆れたように硝子さんはため息と一緒に煙を吐いた。予想してたかのような言葉に、わたしはただただ頷くと硝子さんは指を折り始める。

「ひとり、ふたり…さん…」
「わっ数えないでください!それくらいで…硝子さん!」
「まあ、ほとんどがクズだから気にすることないんじゃない」

暇つぶしのおもちゃを見つけたみたいに硝子さんは愉快げにグラスに口をつけた。わたしだって無闇に数を重ねたくなかったが現実はひどい男運だった。学生時代は"任務"を怪しまれ覚えのない浮気を疑われ、借金があったり暴力を振るわれたりエトセトラ。わたしに惹かれる男は、言葉を借りるならクズだった。

ふと、硝子さんが手を上げて店員を呼んだ。ついでに何か頼もうかなとメニュー表を開く。

「で、今回の理由は?」
「この仕事って給与はかなり良くて、かつ不定期じゃないですか」

説明するにもわたしの仕事は呪術師なんです、はいそうですかで終わるはずもなく。怪しまれた挙句に手を挙げられ別れ話に発展、今までの経験から引き止めるのも面倒だった。どこか振られる事に慣れている自分が惨めで仕方なくて、テーブルにやってきた店員に「生、中ジョッキでお願いします」と注文をする。

「残念、僕でした〜」

突如として上から降ってきた慣れ親しんだ声にメニュー表から顔を上げる。透き通る白髪に特徴的なグラサン、その下にきらめく蒼い瞳。

「…五条さんがどうして?」
「硝子にここで飲んでるけど来る?って誘われたんだ、ちょうど仕事も終わったしね」

五条さんはわたしの隣に座ると、今度こそ店員を呼んで注文をする。「で、追加はいる?」その確認にすぐ首を横に振る。五条さんの登場で頭はひどく冷静になった。これ以上飲んだら明日の任務にも支障が出るかもしれない。

「前から耳には挟んでたけど君の男運の悪さって本当だったんだ」
「この子はそんな悪くないのにな」
「硝子さん…!好き」
「ん、ありがとう」

それから話題は移ろい2杯目を飲み終えた頃、硝子さんがスマホを見ながら難しい顔をして立ち上がった。電話の向こうから申し訳なさそうな声が漏れていた。急な呼び出しなんだろう。

「行くんですね。わたしを置いて」

なんだか寂しくなってテーブルに項垂れると、隣から「ちょっと狭いよ〜」なんて声がした。

「悪いけど置いてくよ。悟、ちょっとこの子を見てやって、このままだとまた変なのに拾われる」
「分かってる」
「…そんなホイホイついていきませんよ」

そうして硝子さんが出て行った30分後、わたしと五条さんも居酒屋を後にした。自分の足取りは思ったよりしっかりしていて、長い足でさっさと駅の方へ向かう五条さんについていくのに必死だった。交差点が赤に変わり2人揃って並び、ふと下を見る。五条さんの靴ってすごくおおきいなんてぼおっと考え居たら斜め上から声がした。

「ね、噂になるほどの男運の悪さっていつからなの?」
「…在学中、他校の元彼に「男いるんだろ!」って振られてからですね。それ以降、ダメ続きで」

それまでうまくいってたと思う。お互い初めてで今では笑っちゃうくらいのぎこちない恋だった。なのに突然浮気していると疑われ別れたから、硝子先輩にえんえんと泣き縋ったのは何年経っても忘れられない。

「わたしの友達が元彼に言ったみたいだけど全然心当たりなくて、」

なんて昔の話をしているうちに信号が青になったが五条さんが進む様子はなくて、見上げると髪をかきあげる困った様子の五条さんが目に入った。

「五条さん?青、」
「……ごめん。その嘘言ったの僕なんだ」
「えっ?! な、…どっ」

思わず声を荒げると周囲の目が一気にわたし達に集まる。わたしと五条さんは先輩後輩の仲のはず。友達だとか、有りもしない話を言う必要あります?疑問符は浮かぶのにひとつも消化されない。蓄積していくそれらを口に出す事もなく、ただただ点字ブロックを見つめることしか出来なかった。視界の隅で青が点滅している。

「……10年近く時の話ですよ。なんで…いや、そんな嘘言う目的がわかんないです」
「お前のことが好きで仕方なかったの」

先ほどより近い場所で五条さんがさらりと言った。足元から目を離すと少し体をかがめ、わたしの顔を覗き込んでた。真っ黒のサングラスがライトに照らされて、きらきら光っている。──高専の時は特に仲が良かったわけではなく、七海や皆と同じように振り回されていた。他の人たちと変わらない、それは昔も今も同じ。どこにも特別や好意なんて感じなかった。

「だからとりあえず別れさせたって訳ですか」
「うん。僕の方を見るまで待とうと思ったけど、馬鹿正直に傷つくばっかりだしさ。どう?僕にしてみたら」
「……酔ってますね?」

そうであれと期待を込めて見上げるが彼は首を横に振って否定した。信号が再び青になり歩き出した五条さんの後を追いながらさっきの言葉を何度も咀嚼する。行き着く先はそういう意味で、つまりは、

「僕も長年片思い拗らせてたんだ、君の歴代彼氏よりとびきり優しくするよ」

答えを肯定するような言葉に思わず足が止まる。「ちょっと道路だよ、止まらないの」とわたしの手を掴むと足早に横断歩道を渡る。

「あの…手を離してください」
「やだ」

ぎゅう、と力がこもるものだから抵抗して腕を揺らす。突然、先輩と後輩から外れていく感覚にどうしていいか分からない。存在を意識させるように指を絡めてくる手は少し冷たくて、同じ歩調に合わせられたのに気付く。優しくすると言うのはあながち間違いじゃないんだろうなと、わたしはぼんやり思った。