大将が語ってくれた過去。彼女の全て。それを語り終えた彼女が礼を言って頭を上げた時、彼女を待っていたのは刀剣たちによる抱擁だった。
乱や今剣たち短刀は勿論、加州や和泉守もおんおん泣きながら大将に抱き着いた。辛い経験をしていたから…俺たちの気持ちをよく理解できたからこそ、俺たちに差し出してくれる手はいつも暖かかったのだと知り、誰もが彼女に感謝した。
が。夜も更けていた為、大将は抱擁を受けながら…
『そろそろ休みましょう。順番にお風呂に入ってきてください』
と、いつもの調子で言うものだから一部は少し拗ねた様子で口を尖らせていた。過去を語っても何も変わらない大将に安心し、でも変わらなさすぎる態度に苦笑しちまったのは俺だけではないだろう。
なんやかんや文句を言いつつも風呂を済ませ、寝床についたのは深夜を過ぎた頃のこと。隣では五虎退が小虎にまみれながらすやすやと寝息を立てている。乱も前田も、いち兄も鳴狐も(お供の狐も)もうぐっすり夢の中だというのに、俺だけはどうしても眠りにつけずにいた。もうすぐ日も登ってきちまう時間だ。
薬「(…やべぇ。こりゃ今日は寝不足確定だな…)」
むくりと起き上がり、厨に向かって一口水を飲んだ。冷たいその感覚が喉から腹に溜まっていくのがわかる。
今度こそ眠るぞと思って粟田口の部屋に戻る途中、ふと庭を見て立ち止まった。
薬「(…大将?)」
本丸で一番大きな桜の木の下で一人、その幹に身体を預けて座っている浴衣姿の彼女がいた。今夜は比較的暖かいとは言え、まだ春の夜だ。あんな格好じゃ風邪ひいちまう。
一度部屋に戻り、適当に袿を持って俺も庭へと降りた。
橋を渡り大将に近づくと、彼女も気づいたようで俺を見上げてきた。
『薬研…』
薬「こんなとこで何してんだ大将。風邪ひくぞ」
『…わざわざ持ってきてくれたんですか』
ありがとうございますと言って、大将は俺から袿を受け取って羽織った。彼女の長い髪がさらりと背中に流れる。
昼間は洋服に身を包んでいるが、大将には和服の方が似合うと思う。黒い髪だって癖もなくて綺麗だ。
なんて、俺らしくもない考えが浮かび、払拭するように彼女の隣に座って話題を振った。
薬「何してたんだ?こんな時間に」
『眠れなかったものですから。薬研はどうしたんです?』
薬「ははっ、俺も同じだ。なかなか寝付けなくてな」
『……すみません』
薬「あ、別に大将が気にする必要はねぇからな?俺が色んなこと考えちまってるだけだから」
『…なら、良いのですが…』
眠りを妨げているのは自分のせいだと言いたげな大将に、それは違うと否定した。本当に大将は悪くねぇ。大将のことを知れて、俺は満足してんだから。
口を閉ざした大将は顔を上げ、皆が寝静まっている本丸を眺めた。ここからは畑も厩もよく見える。さわりと夜風が吹き、彼女の髪を靡かせた。
『……薬研は…』
薬「ん?」
ぽつりと静かに紡がれた俺の名。その声音はいつもより少しだけ弱く感じる。
『…薬研は、"私"を知って後悔していませんか?』
薬「後悔?」
何故そんな考えに行き着くんだ?
大将が何を思ってそう訊ねたのかがわからず聞き返すと、彼女は膝に視線を落としてその心意を語った。
『初めてなんです、過去の話をしたの。真黒さんも知っていますけど、彼は政府で調べたから知っているだけで私が話したわけではありません。当時の気持ちも全部…、言葉にして語ったのはこれが初めてでした』
薬「…………」
『話す前は何も思っていませんでした。自分が体験してきたことを語るだけ…。それだけなんだと…、語ることに躊躇いはありませんでしたし、話している間も客観的に…自分のこととは思わずに、過去を思い返しながら頭に浮かんできた言葉を並べていました。でも…』
一旦言葉を区切ると、大将は胸に手を置いて目を閉じた。
『全部を話し終えて、私は急に怖くなりました。聞いてくれていたのは貴方たち刀剣男士…、私が主従契約を結んだ付喪神様たちです。主人の私がこんなにも汚れた…自分が生きるためなら権力者も契約も何でも利用する人間だと知って…、幻滅されたんじゃないかと…』
薬「大将…」
『薬研』
顔を上げ、真っ直ぐに俺を見詰めてくる大将はやはり無表情だった。
でも、その瞳の奥底にあるのは俺の好きないつもの強い輝きではなく、怖れや悲しみ…。押し込められてきた全ての負の感情。
『"私"を知りたいと言ってくれた貴方に聞きたいです。"私"を…どう思いましたか?』
さわさわと風に揺られて桜の木が音を立てた。俺の気持ちを知りたいと言いつつも、知ることを怖れている大将の心を代弁するかの如く、その音は耳障りだ。
やがてその風が吹き止んで静寂が訪れた時、不安な色を浮かべた大将の瞳を俺も真っ直ぐに見詰めて口を開いた。
薬「…正直に言うと、俺はあんたのことを知って後悔した」
『…………』
薬「話を聞く前…。初めて会った日からずっと、大将は強い人だと思ってた」
何に対しても真っ直ぐに気持ちをぶつけて、負けなんて知らない心の強い人間。
女だというのに敵に果敢に立ち向かう姿が格好良いと思い、同時に悔しくも思った。俺は男のくせに何やってんだと。
薬「あんたのように強くなるのが目標だった」
『私はそんなんじゃ…』
薬「ああ。大将だって人の子…しかも女子だ。この世じゃ男の方が強いって序列があるからな、どうしたって女はナメられ下に見られちまう。でも大将はそれさえも感じさせねぇ。あんたにそのつもりが無くとも、俺はそう感じていた」
『…………』
薬「…過去を聞いて、俺は苦しくなった」
『それは…』
薬「前任から受けたことを思い出したからじゃねぇからな?」
『…?』
薬「なんでもっと早くに…、あんたから聞き出してやれなかったんだって"後悔"した」
『!』
聞く機会はあった。昨夜だってそうだ。大将が出陣しなくなってから、大将が一人でいる時間なんて沢山あったのに、俺は聞くのを躊躇った。
辛い過去を語らせるということは、本人に自分で傷を抉らせるということだ。そう思うと無理に聞くことは出来なかった。
そっと大将の首に左手を伸ばし、彼女を縛る硬いそれに触れた。
薬「俺たちが受けた仕打ちと同じものを全て一人で背負い込んで、シロもまだ政府に人質にとられてて…。自分で着けたにしてもこんな首輪まで嵌めてるあんたを…、あんたの苦しみを、何故もっと早く知ってやれなかったんだって」
『薬研…』
薬「大将、俺はあんたを守る」
『…!』
薬「あんたも、あんたが守ってる大事なものも全部。俺は俺の刃生を掛けて守り抜くと誓う。だから…」
首輪に触れていた手を滑らせて彼女の頬に添え、右手で彼女の手を握る。僅かに震えているのは気のせいではないだろう。いくら強く見えても、彼女はまだ十八の女子なのだ。
守ってもらうのが当たり前の時期に両親を亡くし、いたぶられ汚されながらもたった一人で妹を守り続けてきた、負けず嫌いな黒猫。泥だらけになっても何度も立ち上がってきた、強い人の子。俺の大事な大将。
薬「だから…、あんたはもう、自分を閉じ込めなくて良いんだ。もっと自分を愛してやってくれよ、大将」
シロの為、母の遺言の為…。自分が生きる為だと言いながらも、言葉の裏には必ずその理由があった。自分を省みる余裕なんて無いくらい我武者羅にもがいて、酷い環境に置かれて。どうしてこんなにも真っ直ぐでいられたのかが不思議なくらいだ。
でもその真っ直ぐに見えているところも、大将が生きる為だと作り上げた盾なのだろう。敬語だって、大人や権力者にも自然に溶け込めるようにと癖づけて慣れさせてしまったに違いない。
これからは自分の為に生きてくれ、大将。
そう思った時、温かいものが大将に添えている俺の手を濡らした。
薬「!大将…」
『え…?』
そっと指先で拭った俺の手を見て大将は数回ぱちぱちと瞬きし、自分でもそれに触れて確かめる。
『……?…なんで……』
止めようと両手で擦るも止めどなく溢れてくる雫が指の隙間から頬を伝い、ぽろぽろと零れては彼女の浴衣を濡らしていく。
その涙は、変わらない表情に表れた唯一の感情。押し込めていた全ての想い。
透き通った泣き顔はどこまでも美しく、儚げで…。
綺麗だ。
薬「大将」
混乱しているのか、だんだんと乱暴に擦ろうとするその手を握って引き寄せた。
彼女はぴくっと肩を跳ねさせたが、嫌ではなかったようで押し退ける素振りはなくそのまま身を委ねている。
『どうしたんですか?』
薬「今それ言う場面じゃねぇからな」
『薬研に抱き締められるのは初めてですし、驚きました。…濡れてしまいますよ?』
薬「他の奴等はいつでもお構い無しに抱きつくもんな。大将の涙で濡れるのは大歓迎だ。声上げて泣いても良いんだぜ?大将」
『…恥ずかしいから嫌です』
とか言いつつ、大将は俺の肩に顔を埋めて静かに泣いた。抱き締め返したりせず、恐る恐る俺の服をきゅっと握ってくるところが彼女らしい。
これが今の彼女の精一杯の甘えなのだろう。双子の長女として生まれ、大人の醜い部分を見て育った彼女には頼れる者がいなかったのだ。今更になって義兄と義姉ができたところで、頼る術を彼女は知らない。
自分の力だけを頼りに、妹を守ることだけを生き甲斐に生きてきた彼女が、今はこうして俺の前で泣いてくれている。
無意識に出た涙だとしても、不謹慎にもそれを見られたことを役得だと思いながら、俺は彼女が泣き止むまで抱き締めていた。
『…ありがとう。薬研』
薬「俺っちの方こそ、ありがとな。
これからもよろしく頼むぜ、大将」
暁の空を背景に見た彼女の微笑みは
涙で濡れていながらも
前に見たそれより美しかった