日向ネジの苦難





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 日向ネジは、みょうじなまえのことを好いている。

 それは、雷鳴のように激しいものではなく、ひと雨ごとに育つ芽のような、静かで確かなものだった。いつからだとか、なにがきっかけだったとか、そういった明確なものはネジにはない。ふたりの関係に「婚約者」という名前が付かなくとも、きっとネジはなまえに恋慕する。そういう確信があった。

 しかし、なまえはどうだろうか。ネジは考える。自身が思う「触れたい」と、彼女が思う「触れたい」。少し違うような気がした。

 婚約が決まってから、彼女は日向ネジが住む屋敷に越してきた。彼女とネジが共に住み始めて、かれこれもう数年は経つだろうか。衣食住を好いた女と共にするとは、彼女とすれ違う度に、話す度に、触れ合う度に欲しくて堪らなくなるということだった。

「ネジ様、ここ、結ってもらってもいいですか?」

 昼下がり、縁側に座ったまま振り返るなまえは、迷いのない笑顔だった。膝には櫛。ほどけかけた黒髪を自分で押さえながら、当然のようにネジを頼ってくる。そんなふうに「信頼」してくれるのは、ありがたいことである。……本来ならば。
 ネジは小さく息を吐いた。無言のまま膝を折り、彼女の背後に座る。

「ああ」

 彼女の髪に手を触れると、指先に熱が宿った。柔らかい。香がする。それだけで、意識のどこかが警鐘を鳴らす。

「いつもありがとうございます。ネジ様は、とても丁寧だから」

 嬉しそうに笑う声が、耳に心地よく届く。その無邪気さが、時に罪だと思う。
 彼女は、ただの“信頼”で自分に触れてくる。隣を歩くときも、袖をそっとつかむ。疲れていると、遠慮なく寄りかかる。不安なときは、まっすぐな瞳で助けを求めてくる。

 すべてに意味はない。日向ネジとは、なまえにとって「信頼できる婚約者」。それが“当然”なのだ。

 だが、ネジは少し違った。彼女のその笑顔が、肌の温もりが、言葉が、ただの信頼で済ませられなくなっている自分がいる。
 結い終わった髪を、そっと撫でる。

「……これでいいか」
「ありがとうございます」

 振り返ったなまえの頬が、ほんの少し近い。唇が、目が、すぐそこにある。そのまま手を伸ばせば、触れられる距離だった。

 だがネジは、微動だにしなかった。
 いや、できなかった。できないまま、楽しそうに鈴のような聞き馴染みの良い声をからからと鳴らす彼なまえを見つめる。

(……これ以上踏み込んでは、いけない)


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-終焉-





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