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それは、ひどく静かな夜だった。
日向本家の客間。障子越しに揺れる灯が、白木の柱に淡い影を落としている。
ネジの目の前には、みょうじ家の当主とその娘――なまえ。並んで座るふたりの姿は、どこか静謐で、まるで絵画のようだった。
ネジは正座のまま、指一本動かさず、叔父にある日向ヒアシの隣に控えていた。本来であらば、父・日向ヒザシが並ぶ予定であったが、父亡き今、ネジの隣には叔父が座っている。このことも含めて、ネジは今の状況が少し気に食わなかった。
「本日は忙しい中……」
当主たちの挨拶は、丁寧かつ型どおりのものだった。これは言わば、仲人を立てず、互いの保護者の合意のみで済ませられた内訳。
一呼吸。
もう一呼吸。
やがてみょうじ家の当主――なまえの父が、口を開いた。
「……本日は、ある件で相談が。」
その言い方に、ネジはわずかに眉を寄せた。嫌な予感ではない。ただ、見えない地図に、新しい道が引かれる気配がした。
「双方の家は、古くからの繋がりがあり、現在も良好な関係を築いている。それを今後も維持していくことは、両家にとって大きな意味を持つだろう」
ヒアシが静かに頷く。
「ああ、同感だ。……続きを聞こう」
「日向ネジ様と、我が娘・なまえを――婚約という形で、結びつけることができればと。」
その言葉が落ちると、客間の空気が、ほんの少しだけ冷えたように感じられた。誰も動かない。息すらも、音を立てない。隣にいるヒアシが、ふとネジのほうを見る。
どう思う?と、そう問いかけるように。
彼は、まっすぐ前を見たまま、言葉を選んだ。
「……私に決定権があるとは、思っておりません」
「だが、意志はあるだろう。 お前はどう思っている?」
ネジは、目の端に映る少女の姿を見た。膝の上で指を重ね、微かに揺れるその白い指先。けれど、なまえの顔には、怯えや動揺はなかった。真っ直ぐに座り、静かに現実を受け止めている。そんな気配があった。
彼女の瞳と、ふと視線が交わる。
一瞬だけ、時が止まったような感覚。
ネジは、ごく小さく息を吐いた。
「……両家の意向であれば、私は従います」
静かな声だった。だが、はっきりとした言葉だった。
そして、ほんの少し遅れてなまえもまた、膝をつき直し、頭を下げた。
「私も、父の意を受け、異論はございません」
その瞬間。「婚約」という文字のない契約が、この場に結ばれた。祝辞もなければ華やかさもない。だがそこには確かに、まだ十にも満たない、拒否権のないふたりの「了承」があった。
はじまりは、恋ではなかった。だが二人の心のどこかで、何かが音を立てて、動き始めていた。年端もいかぬふたりがまだ知らない、厄介で、不確かで、やわらかな感情の始まり。
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