第三幕 松野十四松の愛惜



僕には大好きな兄弟が六人居ます。弟と兄さん五人とは同い年、そう僕たち六つ子!すごいでしょ〜!そして僕たち六つ子の上にもう一人、僕らには世界一優しい姉さんが居ます!
なまえ姉さんは、昔から僕ら兄弟に優しくて、いつでも自分のことは二の次。気が弱かった僕が兄弟の喧嘩に影で落ち込んでいると、そっと隣に寄り添って慰めてくれた。「十四松は優しいね」姉さんはいつもそう言ってくれる。今でもそうだ、なにかにつけて姉さんは頭を撫でて僕を褒めてくれる。僕は僕を優しいと言ってくれる優しい姉さんが大好きだ。

朝日と一緒に起きて、河川敷や海辺で野球の練習をして、家に帰るとお昼を過ぎていた。冷蔵庫に入れられた僕の分の朝食を食べていて気がついたけれど、家の中がしんと静まり返っている。少しだけ考えてから、とりあえず一階から順に部屋を見て回ってみた。誰も居ない。二階に行って部屋を見て、ベランダや屋根の上を見てみてもやっぱり誰も居ない。今家には僕だけのようだ。
誰も居ないと分かって、僕は一階の奥の部屋へそろりそろりと足を向けた。昔は母さんと父さんの部屋だった奥の部屋は、今はなまえ姉さんの部屋になっている。きっと訪ねたら簡単に招き入れてくれるとは思うけど、姉さんの居ない姉さんの部屋に意味があると思ったんだ。そろりと襖を開けると、中は至って簡素な四畳半だ。僕らが子供の頃から考えると、色々改築工事がされて狭くなったその部屋には窓もないし、生活感もない。まるで、物置部屋のようなそこに、姉さんは好んで暮らしていると言う。僕は狭いところが苦手なほうなので、姉さんがこんな息の詰まりそうな部屋を好んでるってことには常々疑問だった。室内に足を踏み入れ、襖を閉めてみる。どんよりとした閉鎖空間だ。照明がなければ部屋は昼間でも真っ暗だし、姉さんの私物は小さな衣装ケースと鏡がついた床置きのコスメボックス、折りたたまれた煎餅布団、壁には洗い替えも含めた三着のスーツが掛けられている。今日姉さんは仕事が休みのはずだから、仕事用の物も含めたってここにあるのが姉さんの私物の全てってことなのだろう。そう考えたら、なんだか胸がスカスカした。普通の女の人のことは分からないし、僕たちだってそんなに物を持っているほうじゃないけれど、それでも姉さんは必要最低限、いやそれ以下程度の量しか私物を持っていないように思える。

「あれ、十四松?」

後ろで襖が開いて、声を掛けられた。怒った声とかじゃなくて、いつも通りの何気ない声色。振り返ると、きょとんと首を傾げた姉さんの姿があった。

「ごめんなさい、勝手に入っちゃった」
「ふふ、いいよ気にしてないから」

部屋に入って、僕を通り過ぎた姉さんは、肩に掛けていた紙袋を畳の上に下ろした。なんだろ、姉さんの格好がいつもと違う。それに、さっきからなんだか香水みたいな甘い匂いがあの紙袋からも、姉さんの服からもしてる。なんだろう?

「ふぅー…」
「姉さん、なんか甘い匂いすんね」
「ん?え、なんの匂いかな?ケーキとか?」
「ううん、その可愛い服からも、その紙袋からもしてる、姉さん以外の甘い匂い」
「あ、お店の匂いかな。トド松と買い物して来たの。女の子の服屋さんって良い匂いするから、それかな?」
「それかも」

そういえば、今日は姉さんとトド松が出掛ける日だった。僕は朝から野球の練習に行っていたからいつ出掛けたのかは知らないけど、てっきり夜まで帰って来ないと思ってた。

「トッティは?」
「女の子からお呼び出しがあったから、行かせたの。姉と買い物より女の子と遊んでたほうが生産的でしょ?かなり渋られたけどね」

そりゃそうだろう。いくら女の子に縁のない僕らでも、大好きな姉さんと二人きりでいられる時間より優先出来るものなんてあるわけない。でも姉さんに悲しい顔もさせたくないから、仕方なくトド松は女の子のほうに行ったのだろう。あとできっと愚痴って荒れるんだと思う。銭湯行ったときにでも慰めてあげようと思った。

姉さんは、僕らがどれだけ姉さんのことを好きか分かってない。今僕が、袖で鼻を押さえてるのだって気がついてないんだと思う。僕らのことをいっぱい心配してくれるのに、自分に向けられる好意やそれに準じたものには驚くほど気がついてくれない。
ねぇ、姉さん、僕その匂い嫌いだな。

「服、増えちゃったなぁ…古いのは捨てなきゃ」
「そうだね」
「トド松に選んで買ってもらちゃったから、大切にしないと…」
「そうなんだ?」
「そうなの。もう有難いやら、申し訳ないやらだよねぇ」

ふぅん、と相槌を打ちながら、畳の上に座り込んで紙袋の中の服を取り出している姉さんに近づいた。隣に座っても、姉さんは気にせず服の整理を始めている。僕は、姉さんの頭に乗った麦藁帽子を取って横に置いた。姉さんはなにも言わない。灰色の、コートみたいに長いカーディガンを引っ張る。姉さんはやっと不思議に思ってくれたのか、首を傾げて僕を見てくれた。

「どうしたの?十四松?」
「あんね、その匂い…嫌かも」
「え?あ、お店の匂いってこと?」
「ん、…姉さんの匂いがしない」

いつもしてる姉さんの、甘くて安心する良い匂いが、今は作り物の甘い匂いに遮られて霞んでる。僕の大好きな姉さんの匂いがしないだけで、僕はこんなにも不安になる。
ぐいぐいとカーディガンを引っ張っていると、苦笑しながら姉さんはそれを脱いでくれた。

「じゃあ着替えるから、少し出てて?他の服も、洗濯すれば匂いも消えるよ」
「………」
「十四松?」

肩から曝け出された姉さんの両腕、危なげな首元、トド松の趣味の服なんだろうな。服だけなら僕も可愛くて良いと思う。匂いは…、もっと近づけば大丈夫かもしれない。
背中側から姉さんを抱きしめて、首筋に鼻をつける。回した両腕は姉さんのお腹、素肌を撫でることが出来たから、この服って上と下で分かれてるんだなと分かった。すぅ、と深く息を吸い込むと不快な甘い匂いの中に埋もれた姉さんの匂いがした。美味しそうな、いつもの匂い。

「…はぁ。ん、ちゃんと、姉さんの匂いがする」
「もう、十四松?確認終わったんなら…」
「んー、まだ…」
「んっ、ちょっと、」

首筋から、耳の裏辺りまでを鼻でなぞって深呼吸してみる。さっきよりもっと姉さんの匂いが強くなった。ぐっと抱きしめた腕に力を込めると、小さな姉さんは簡単に僕の腕の中にすっぽりと入ってしまう。可愛い。

「じゅーうーしーまーつー!もう放してってばっ」
「姉さんさ、」
「声…っ、近い…っ」
「この部屋、狭くない?」

丁度耳の裏で喋ってるから、小声でも姉さんには充分伝わってるみたいだ。今は姉さんの匂いを嗅いでいたいから、出来れば離れたくないし、姉さんの力じゃ僕を引き離すことも無理だと思う。

「ぼくずっと思ってたんだ、姉さんにはもっと広いところに居てほしいって」
「…広いところ、って?」
「んー…外?」
「あはは、十四松は私に外で寝泊りしろと…」
「違うよっ、そうじゃなくて…!」
「うわ、耳元で叫ばないでッ」
「…ごめんなさい」

そういえば耳元でした。
でも、結局僕は姉さんにどこに居てほしいんだろう。こんな閉鎖的な空間じゃなくて、もっと広いところに居てほしかった。なんだか姉さんが囚われてるみたいに思えて嫌だったんだ、僕たちには、少なくとも僕にはそんなつもりはないのに、姉さんがこんなに狭くて窓もない部屋に居て、囚われてるなんて錯覚しないか心配だった。ああ、でも、僕たちは姉さんを逃がすつもりがない。それはそうなのだけど、ああ上手く言えない。僕は、姉さんをどうしたいんだろう、姉さんにどうしてほしいんだろう。

「…なまえ姉さん」
「……十四松?」

ぎゅうぎゅうと抱きしめて、首筋にぐりぐりと顔を擦り寄せる。鼻腔いっぱい、脳みその奥まで全部姉さんの匂いで満たされて、気持ちが跳ね上がった。僕は姉さんの匂いが大好きだ、今まで嗅いだ中で一番美味しそうな匂いだから、きっとこのまま食べたら美味しいに違いないとも思う。

「ひゃあっ!?」

ぱくり、耳を口に含んで舐めてみた。美味しいわけじゃないけど、嫌な味はしない。次に首筋を舐めてみた。甘い。もう一度舐めてみる。美味しい。

「ちょ、…っ、じゅうし、まつ」

かぷり、ちょっとだけ歯を立てて、吸い付いてみた。やっぱり美味しい。がぶがぶ、美味しく味わっていたら、姉さんのお腹に回していた腕をバシバシと叩かれた。

「ぷあ、…ん?姉さん?」
「っ、十四松…っ!なに、すんの!」
「えー、だってなまえ姉さん美味しいんだもん」
「私は食べ物じゃありません!」
「んー、でも美味しいし…」
「お、美味しいからって食べれるものと食べれないものの区別はつけないと、」

ぱくり。
よく動いてる姉さんの唇が美味しそうで、かぶり付いてみた。むにゅむにゅっと柔らかくて、少し湿っていて、なにより甘い。

「っ、んん…っ」

ぱくぱく、ちゅうちゅう。
もぐもぐ出来ない代わりに、一生懸命唇と舌で味わう。こんなに甘くて美味しいものがあるなんて。きっと僕が知らないだけで、姉さんの色々はもっと美味しいんだと思う。もっと全部知りたい、もっと全部味わいたい。世の中まだまだ僕の知らないことばかりだ。世界って広い。

「っは、あ!分かった!」
「っ!?じゅ、じゅーしまつ…?」
「ぼくね!ぼくね!姉さんに世界を見せたい!」
「せ、せかい?」
「うん!ぼくは、姉さんにはもっと広いところを見てほしいし、行ってほしい!んで、そこにぼくも居たい!」

だから、僕と世界を見に行きましょう。ううん、僕が姉さんに世界を見せてあげる。

「ぼくら絶対センバツ受かるから!そうしたらなまえ姉さんにいっぱいいーっぱい色んな世界を見せてあげられると思うんだ!」

後ろから姉さんの両手を握って包み込むように抱き寄せる。確かに姉さんは僕の腕の中にすっぽり納まるくらい小さいけど、それにしたってこの部屋じゃ姉さんにとっても狭すぎると思うんだ。もっと僕は姉さんに世界を見てほしい、一緒に世界を見たい。僕の隣で、姉さんには色んなことを体験してほしい、僕が姉さんの世界を広げてあげたい。

姉さんの顔を覗きこむと、姉さんは眉を八の字にしてはにかんでいた。その笑顔が可愛くて、ついつい柔らかそうなほっぺに吸い付いてしまった。
ちゅぃっと音を立てて唇を離すと、姉さんは困った顔で僕と目を合わせた。

「十四松…、さっきからさ、その…」
「?なあに?」
「…うーん、いや…」

首を傾げると、複雑そうにぱくぱくと小さく口を動かして、黙ってしまう。つい、と目線を逸らされてしまった。ああ、もしかしてなまえ姉さんは僕がなにも分からないでこういうことしてるって思ってるのかな。僕ってそんなに純粋に見える?

「なまえ姉さん、」
「え、っわ!?」

ぐるりと姉さんの体を半回転させながら、畳の上に背中から押し倒す。いくら畳でも痛いだろうから、出来るだけ優しく横たえたけど、それでも姉さんは目を白黒させていた。戸惑った表情が可愛い。僕が上から覗き込んで、姉さんの顔の両脇に両手をついても、姉さんは黙ったままだ。

「なまえ姉さん、ぼくね、ちゃんと知ってるよ?」
「じゅ、じゅうしまつ?」
「姉さんが、女の人だってこと。ちゃんと分かってる」

甘くて美味しい唇を、もう一度味わった。


ぼくの愛惜しい姉さん


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