霞むような色彩の中に、鮮明に残る記憶がある。


うぇ、うぁああん


あそこで泣いてるのは、幼い日の私。
道端に蹲って、大声で泣きじゃくっている。
あれはまだ私が六歳の誕生日を迎える前のことだった。近所の男の子にひどい虐められ方をしたことで、私は“男性”という存在に強い嫌悪感と拒絶反応を起こすようになってしまったのだ。

街中で男性を見掛けるだけでも泣いてしまうようになり、終いには父親を怖がって、父の居る家の中では眠れなくなってしまった。
そんな私に困り果てた両親は、私を初等部から全寮制の女子校に入学させることにした。その学校は初等部から高校までのエスカレーター式、付属の大学も含めて教員も生徒も全て女性で構成された、私には天国のような学校だった。
勿論、両親も私も治す努力をしなかったわけではない。しかしカウンセリングも即効性の効果があるわけではなく、あくまで気長にとのことだった。

果たして、私の女子校入学は私に異性の居ない安寧の日々を与えると共に、私の男性恐怖症を更に悪化させることと相成ってしまう。

私の男性恐怖症は“遮断”という方法で鳴りを潜めていたのだけど、就職というものが現実的になる頃、私は自分自身の社会不適合性に頭を悩ませた。
面接や企業説明会などの折に、一般社会に占める男性の割合を目の当たりにした私は、正直半ベソどころではなかった。

そんな私が選択したのは、“逃亡”だ。その年の就活を諦め大学院に進学し、就職という関門の前から一時退却。絶対に通らなきゃいけない道なのに、愚かしくも後回しに先延ばしにした。
そしてきっちり二年後に、同じ関門を前に泣き出したい私である。愚かすぎる。
だいたい、現代社会には男性が多すぎる。そう思う女性は私の他に居ないのだろうか?Y染色体の減少だなんて信用出来ない。

今までどおり女性社会で生きていきたいと強く願い、就活に勤しんだ私。しかし就職難の今日日、私が希望して受けた会社からは軒並みお祈りメールを頂き、やっと内定を貰えた会社は、擦れた心で適当に選んだ興味も所縁も無い一般商社だった。

結局、私は男性恐怖症と併発した就活ノイローゼに終止符を打つべく、その一般商社に就職を決めた。これは私にとって大きな一歩であり、そして地獄への大躍進でもあった。

配属された部署で、新社会人としての第一歩を踏み出した私だったが、温室育ちの柔な精神は早くも脆く崩れそうになっている。

入社から半年。
男性恐怖症という意味でつらい新歓や研修を乗り越え、指導係の先輩の手からも離れた頃、まだ仕事が覚束ない新入社員の私を気遣ってか、周りの男性社員がよく私の席周りに来るようになっていた。「電話は3コール以内に取るんだよ」、「お茶汲みは偉い人から順にね」、社会人一年目の私に仕事のイロハを教えて頂けることは大変有難いことだと思う。しかしながら私にとって、それはとんでもない有難迷惑でもあった。

怯える心や引き攣る顔を隠すように、小さな相槌で切り抜けたり、曖昧に笑って躱し続けたりしていると、いつの間にか私の評判は「女子校育ちの大和撫子、奥床しい高嶺の花」そんな不本意で大仰なものになっていたらしい。
「らしい」と言うのには理由がある。実際に私が直接そう言われたわけではなく、先輩の女性社員から呼び出された際にそう聞かされたからだ。

「ちょっとチヤホヤされてるからって、調子乗ってるんじゃないわよ」

事務所とは離れた給湯室の隅で、そんなことを言われた。
もしかして、これはまさか私が「男性社員に色目を使っている」などと思われているのだろうか。そうであればそれは心の底から不本意で不愉快な評価だ。

「やめなさいよアンタたち」

驚愕と憤慨で言葉も出ずに立ち竦んでいた私のもとに、そんな声が降ってきた。それを聞いた目の前の先輩たちは鼻の上に皺を寄せ、面倒そうにこの場を離れて行く。
声のしたほうを見上げるのと同じタイミングで、「大丈夫?」と肩に柔らかな手が触れた。
視線を向けると、栗色のボブヘアーが綺麗にさらりと落ちる。私の顔を覗き込みながら首を傾げたその人は、同じ部署のおそ子先輩だった。

「ごめんね、悪い人たちじゃないんだけど」
「いいえ!あ、ありがとうございますっ」

慌てて頭を下げると、くすくすと笑われてしまった。ちょっと、恥ずかしい。
おそ子先輩は私の指導係をしてくれていた同じ部署の先輩だ。姉御肌だけど甘え上手だからか部下にも上司にも好かれていて、きっと世渡りの上手い人なのだと思う。私もこんな風になりたい、生き方のお手本にしたいと思える素敵な女性であるおそ子先輩は、私にとって憧れの存在だ。

「なまえちゃんて、勘違いされやすいわよね」
「仕方ないですよ、私のビョーキのこと知ってるのおそ子先輩だけですし…」

そう、私が抱えている致命的な問題について、上司どころか社長すらその事実を知らない。
自分が信頼を置けると判断した人にしか、自分の問題を話そうとしない私にとって、おそ子先輩は数少ないその内の一人だ。

公言したところで、周りから奇異の目に晒されるのは目に見えているし、社会が一個人に対して優しく作られていないことも私は重々承知している。
どうせ馬鹿にされるだけなのだから、自分のネガキャンなんか不必要にするべきじゃない。

「こら、」
「っ!」

無意識の暗い考えに俯いてしまうと、旋毛辺りに軽いチョップを食らってしまった。驚いて見上げると、眉を吊り上げたおそ子先輩が腰に手を当てて私を見ている。

「ビョーキって言い方は良くないよ。アンタはそれで苦しんでるんだから、自暴自棄な言い方しちゃダメ」
「おそ子先輩…」
「あっ、そうだ、なまえちゃん今日ヒマ?」
「えっ?」

突然のお誘いに首を傾げると、おそ子先輩は人懐っこくて上品な笑みを浮かべ、私にウィンクをひとつ。

「ちょっと付き合ってくれない?」


□


おそ子先輩のお誘いを断るわけもなく、実際なんの予定も無かった私は、終業後、おそ子先輩と夜の飲み屋街を歩いていた。

「あ、此処よ、ここ」

ガラリと引き戸を開けて入ったお店は、どこにでもあるちょっとオシャレな大衆居酒屋。おそ子先輩は予約をしていたようで、私たちはすぐに奥の個室へと案内される。
道中、おそ子先輩が私を振り返り意味深な笑みをくれたので、なんだろうと首を傾げていたら、その答えはどうやら襖の向こうにあったようだ。
案内してくれた店員さんをぼんやり見送っていると、おそ子先輩が開いた襖の向こう、部屋の中から声が掛けられ、誰も居ないと思っていた私は驚いてしまった。

「遅いわよ、おそ子」
「来ないからもう始めちゃうとこだったぁ」
「ごめんごめん、ちょっと仕事が長引いちゃって」
「あれ?その子だれー?」
「おそ子の同僚?」

おそ子先輩と同年代くらいの四人の女性が、掘り炬燵を囲んでいる。どうやら、先程のおそ子先輩の笑みはこういうことだったらしい。てっきり二人きりだと思っていたものだから、瞬時に反応出来ずに少し固まってしまう。
救いなのはこの場に男性が居ないことだ。

おそ子先輩はさっさと席に座ってしまい、私は入り口で立往生。投げかけられた疑問に答えようとまごまごしていたら、おそ子先輩が私を手招いたので、ご厚意に甘えてその隣へと座らせてもらった。
未だ私は彼女たちの視線を集めたまま。緊張する。

「この子は私が可愛がってる後輩、今日はこの子も一緒で良いでしょ?」
「珍しいわね、おそ子が女の子連れてくるなんて」
「ホントホント、しかも全然ブサイクじゃなーい!おそ子って可愛い系と付き合いなんかあったんだー」
「もう、カラ子も十四子もなにその言い方!私が後輩の女の子も可愛がれない女だと思ってたわけ?!」
「可愛がれないって言うか、ちょっとでも可愛い子は蹴落とす的な?」
「そうそう、そういうとこあるよねー」
「後輩の前なんだからやめてくれる!?そういうの!!」

おそ子先輩の口振りから、ここに居る人たちとの仲の良さが伝わってくる。周りに合わせて控えめに笑うと、隣に座った一際ガーリーな女性が可愛い仕草で顔を覗き込んできた。びくりとする私にお構いなく、きゅるんと大きな目をぱちぱちさせて、アヒル口の端をくいっと持ち上げる。

「ねねっ、名前は?」
「あ、え、と、みょうじ、なまえです…」
「おそ子の後輩って、会社の?」
「そうです、私この春に入社して、おそ子先輩には指導係として良くして頂いて…」
「え!おそ子って仕事の指導とか出来たの?!いがーい!」
「バカにしないでッ!!」

すいっと私からおそ子先輩に視線を移したガーリーガールさんとおそ子先輩の言い合いが始まってしまった。これがこの人たちの通常運転なのだろうか。私は苦笑いで戸惑うばかりだ。

「でもぉ、どうせ指導するなら若い男の子のほうが良かったんじゃないのぉ?」
「夜の指導も手取り足取り腰取りってか?!ガハハハ!!」
「やだぁ、カラ子下品!」
「イケメン上司と可愛い系新入社員の夜の指導…んふ!萌えるわぁ…!」
「チョロ子はすぐそうやって妄想に走る!」

大部屋の個室に、笑い声が溢れる。私が居た女子校はみんな比較的静かな人たちが多かったから、こういうノリは新鮮だし未知の領域だ。大人の女の会話って感じ。

「ごめんね、うるさくて」
「いえ、聞いてるだけでも楽しいです!いつも皆さんで飲み会してるんですか?」
「そうね、だいたいこの六人で集まって飲むことが多いかな。カラ子とは子供の頃からの仲だし、みんなそれなりに古い付き合いだから楽なのよ」
「へぇ、……あれ?六人、ですか?」
「ん?あ、ちょっと一子まだなの?」

おそ子先輩がそう声を掛けたら、部屋の襖が静かに開いた。

「あら、もうみんな集まってたの」

現れたのは、黒髪のロングヘアーにマキシ丈のワンピースを着こなしたアンニュイな雰囲気の女性。目を奪われるような美人だ。彼女が一子さんなのだろうか。

「アンタが遅刻してんのよ!」
「今日は一子の奢りー?」
「バカ言わないで、電車が遅れたのよ」
「なに、人身?」
「やだ怖ーい」
「あ、知ってる?軽い接触でも人身事故ってことになるんだって」
「え、そうなの?」
「ねぇ、この子だれ?」

この子、と私を指差した女性の物憂げな目と目が合った。
そのとき、私は今まで感じたこともない衝撃に身の内が震えて、戸惑いと困惑から無駄にきょろきょろしてしまう。今のはいったいなんだろう、考える頭も働かなくて、結局私は覚束ない視線を戻し、ただその女性を見つめることしか出来なかった。

これが、一子さんとの出会い。


In the middle of difficulty lies opportunity.

―Albert Einstein

困難の中に、機会がある。
―アルバート・アインシュタイン
(2017.01.29)


戻る 次項

ALICE+