両手首に湿布を貼ってもらい、念のためと包帯で固定されている間。一子さんは、ゆっくりと今までのことを話してくれた。
一松くんが、どうして豹変したのかも、ファミレスでの話と繋ぎ合わせればすぐに理解することが出来た。知らなかったけれど、一松くんは六つ子で、一松くんが風邪で寝込んでいる間に一松くんと顔がそっくりの兄弟たちが私に嫌がらせをしていたということだ。私に、一松くんを盗られると思ったらしい。そういった気持ちを理解出来ないわけじゃない。やり方はやはり納得出来ないし、あのトラウマを忘れることは出来ないけれど、それでも話を聞いて、理解を示すくらいのことは出来る。
それから、一松くんがどうして一子さんになったのかも、分かった。この話をするとき、一子さんはずっと私の顔を見なかった。一子さんは何度も一松くんを否定して、戻りたくないと言っていたけど、本心はきっと逆なのだ。本位で一子さんになったわけじゃない、本当なら一松くんとしてちゃんとした人生を歩みたかった。でも、タイミングや運が悪く、一子さんとしてでしか一松くんは生きる術を見つけられなかった。それが、彼のコンプレックスなのだろう。

「…包帯、きつくない?」
「…はい、大丈夫です…」
「ん、じゃあちゃんと病院には行くのよ?」
「はい、ありがとうございます」
「……、………」
「……………」

気まずさから、私たちは無言になった。薄い壁の向こうから外の車の音や、隣の部屋からテレビの音なんかも聞こえてくるけれど、私たちの間には、沈黙がふてぶてしく居座っていた。
なにか話さなければ、けれど、なにを。
言わなきゃいけないことなんか、数え切れないほどある気がするのに、そのひとつも頭に浮かんでこない。一子さんも同じなのか、気まずそうに俯きがちで視線を逸らすだけ。
これでは、いけない。そう思って顔を上げる。一子さんにも顔を上げてもらえるように、白く細い手を力任せにぎゅっと掴んだ。思ったとおり、驚いた顔の一子さんが手を見て、それから私の顔を見てくれた。

「…いち、…まつ、くん」

迷ったけれど、私はその名前を選択した。一松くんの目が見るからに揺れる。

「……なまえ、ちゃん…」
「子供の、頃のことは、…一松くんのせいじゃないです」
「……………」
「わた、わたしは、」
「…なまえ、無理しなくていいのよ。手、震えてるわ」

一松くんは、簡単に一子さんの殻に籠もってしまう。それは、私にとっては有難いことなのかもしれないけれど、一子さんにとって、一松くんにとっては、それではいけないと思った。
相手が男性と思うだけで、こんなに簡単に震えてしまうなんて、私はなんて情けない。

「無理してません、…私は、一松くんと、話しがしたいんです…」
「……うん、分かった。…なに?」
「………私、は、…一松くんが、だめなんて、思いません…」
「……………」
「私の知る一松くんは…、優しくて、面倒見が良くて…、素敵な、人です…」
「…ごめん、なまえちゃん。そう言ってくれるのに、本当はただのクズで、ごめん」
「違います!クズなんて、言っちゃだめですよ…っ、私のほうこそ、私が、あのとき、逃げなければ…今は変わってたかもしれない、のに」
「どうだろうね、結局ぼくはこうなってたかも」
「それはそれで、…一子さんとして生きていてくれて…良かった」

私の今があるのも、全部一子さんが居てくれたからだ。男性恐怖症になったからこそ、一子さんに出会えた。裏を返せば、私たちは例えどんな形だろうと巡り会っていたということだと思う。
これは、奇跡ではない。きっと、これが運命なのだと思う。

「…一子さんが、一松くんを否定するなら、私が、一松くんを認めてあげます…」

強く、目を瞑る。怖い、けれど、違う。この恐怖は普通の恐怖と毛色が違う。それが理解出来ても、説明は出来なかった。
掴んだ手を手繰って、指を絡めた。触れているのは、よく知る一子さんのものなのだけど、これは同時に一松くんのものでもあるのだ。それを、理解して、受け止めなければと思った。
目を瞑っていると、一子さんの存在を遠くに感じる。

「一松くん、…な、なにか喋ってください…」
「…え、なにかって言われても…」

一子さんの声じゃない、低い男の人の声。これが、一松くんの声だ。同じ声帯で、よくこんなに違う声が出るものだ。一松くんて実は声優さんとかになれば良かったのでは。

「なまえちゃん…?」
「ひっ」

頬に指が触れて、つい悲鳴が出てしまった。すぐに引っ込んだ手を、勘だけで掴む。視覚情報以外、全部が一松くんになってきた。感触も声も、呼吸も、一子さんと同じようで、違う。

「…無理しなくていいよ」
「無理、してません…」
「手、震えてる。声も」
「震えてません…っ!」
「…っくく、そう?」
「は、い」
「…ねぇ、ぼくからも触ったら、怒る…?」
「…………どうぞ」

一松くんの両手が離れて、その手で頬を包み込まれた。

「なまえちゃん…」
「は、はい…」
「なまえちゃんの気持ちは嬉しいし、…なまえちゃんが優しいのは知ってるけど」

一子さんと同じ仕草、同じ優しさで撫でられ安心してしまうけど、一松くんの声を聞くだけで体は瞬時に硬直してしまう。我が身ながら融通が利かなくて、辟易する。

「これは…、勘違いするよ。…そんで、嫌に、なる」

ハッとして、目を開いた。見慣れた一子さんの顔が近い。でも、一子さんは見たこともないつらそうな表情で、その頬には幾筋も水の走った跡があった。また、新たに零れ落ちるのを見て、咄嗟にその柔らかな頬に両手を這わせた。指で拭うけれど、緩慢な瞬きで次々と溢れてしまう。

「…私のこと、嫌いになりましたか…?」
「ばか、なんでそうなんの…」
「だって…」
「ぼくのこと嫌いになんのは、なまえちゃんのほうでしょ?」

嫌い、なんて。考えたこともない。
私は、いつだって一松くんが、一子さんが好きだからこそつらかったのだ。好きすぎて、おかしくなるくらいには、好きだった。それは恨みの感情にも似ていたと思うし、好きにならなければとも考えた。
けれど、嫌いにはなれなかった。

「…今でも、好きですよ」
「っ……、なまえ、ちゃん…」
「一子さんのことも、…多分、一松くんのことも…、忘れられないんです」
「じゃあ、…じゃあさ」

一子さんの顔が、触れそうなくらいに近づいて、少し逃げ腰になる。でも、優しく頬を撫でられると、力が抜けてしまった。

「一子としてでも良いから、また、ぼくと付き合ってくれませんか」

低い声に、脳天を射抜かれる。怖くて、逃げ出したい。だって、一子さんに言われたときよりも、ずっと心臓が震えて、ずっと泣きそうになってしまう。

「…一松くんにも、ゆっくり、慣れていくから、…お願いします…」

震えが止まらない。感情がまとまらなくて、はらはらと勝手に落ちた。一子さんか一松くんが喉で笑う。

「ね…、キス、していい…?」
「そっ、それは、まだ…一子さんじゃないと、嫌、です…」
「っく、はは、そう…、なまえ…、いいかしら?」
「い、いちこさ…ッん」

抱き寄せられる腕は、やっぱり力強くて、くらくらする。一子さんのときからずっと感じていた、一松くんの片鱗に頭が沸騰しそうになる。
私はまだ、一子さんと一松くんの二人を統合しきれなくて混乱しているけれど、それもいつか考えることがないくらい、この人をただ愛してあげたい。

「なまえ、…ありがとう」

一子さんの腕に抱き締められながら、この人からはもう逃げないと、決意した。


□


「一子さん、だめですよー?冷凍食品ばっかり食べてちゃ」
「そうは言ったって、私料理出来ないもの。それに、最近の冷食ってバランスも悪くないのよ?」

僕の部屋で、なまえちゃんが台所に立っている姿を、後ろから眺める。前までは考えられなかった光景だ。眼福にも程がある。

「そんなだから、細いんですよ。ちょっとは肉つきよくしないと」
「あら、それはなまえに言われたくないんだけど?」

後ろから腰を抱き寄せると、少し赤くなった顔で睨まれた。なまえちゃんは最近、こういうちょっとした反抗を多く見せるようになった。こういうのは、二人の関係が進展したように感じられて嬉しい。

「邪魔なので、手伝わないなら離れててください」
「冷たいのね」
「一子さんも、料理を覚えるべきですよ」
「ふふ、なまえが作ってくれるなら良いじゃない」
「よくないです!私だって働いてるんだから、こういうのは平等にしないと…」
「…なんだか、新婚夫婦の会話みたいよね?」
「…ッそ、そういうこと言わないでください!私も自分で言っててそう思ったんですから!指摘しなくて結構です!」

ぷい、とそっぽを向く姿が可愛くて仕方ない。こんなのチョロ松兄さんが好きな二次元の世界の住人だけの仕草だと思ってたし、実際に見たらクソ寒いとか思ってたけど、訂正します。ク…ッッソ可愛い。
ぎゅうっと先程より強く抱き締めると、僕の腕の中になまえちゃんはすっぽりと納まってしまう。ああ、もう、どうしてやろうか。

「ちょ、ちょっと、一子さん!身動き取れないです…!」
「んー…、いいじゃん、もうちょっとこのままでいようよ」
「ぎゃあ!!いっいいいいっいきっなり、一松くんになるのは、やめてって、言ったじゃないですか…っ!」
「なまえちゃんが、可愛いからつい」
「ごめんなさいごめんなさい!やめて、離して!」

二十年間も養われたなまえちゃんの男性恐怖症が、そんな簡単に治るわけもなく。付き合っているとはいえ、やっぱり一松の僕にはまだ慣れていないようで、こうすると全力で抵抗されてしまう。でも、顔を見ると真っ赤になって涙目になるのが可愛すぎて、僕はこれがやめられない。

「なに、まだ怖い?」
「こ、こわい…っ!やだやだっ、ごめんなさいごめんなさいっ!まだっ、む、むり、なの…っ!」
「でも、ほら、荒療治っていうのもあるし」
「ほんと、勘弁してください…!!」

ぷるぷる震えながら、頭から煙が出るんじゃないかってくらい顔を真っ赤にして、終いには泣き出す。あんまりいじめすぎると、暫く口を利いてもらえなくなるから、程ほどでやめてあげないと。

「いっいちまつ、くんは、わた、わたしを、バラバラにする気ですか…ッ!?」
「…は、バラバラ?なにそれ?」
「だ、だから!このままこんなことされ続けたら、私…っ、恥ずかしさで爆発してバラバラになっちゃう…!」
「……………は、」

なにそれ。

「なまえ、知ってる?」
「ふぁっ、い、一子さぁん…っ!」
「そういうの、殺し文句っていうんだよ?」
「えっ、いま、どっち…っ」

返事は無視して、甘い唇にかぶりついた。

なまえちゃんがこんな状態だから、残念ながら僕はまだ新品のままだけれど。でも、まぁこれからの人生、先は長いんだし、ゆっくりじっくり追い詰めてやろうと思います。
僕らを待っているのは、“三人”での幸せな未来に違いないのだから。


Love the life you live. Live the life you love.

―Bob Marley

自分の生きる人生を愛せ。
自分の愛する人生を生きろ。
―ボブ・マーリー
(2017.03.20)


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