松野一松の人生を物語にしたとすれば、きっと三行で終わってしまう。

六つ子の四男として誕生。
欠陥だらけの性格と容姿で、二十余年、友達も彼女も居た気がしたけど結局なにも無し。
残念な男は、コミュ障根暗童貞のまま、その人生の幕を閉じました。

一切のめでたさ無し!山も谷も川も海も無い!モテ期の絶頂は九歳のときに一瞬来て一瞬で去って行った!無い無い尽くしの僕の人生は、案の定恵まれたものじゃなかった。

二十歳を過ぎて、六つ子兄弟揃ってニート。働く気力も無ければ、生きる気力すら怪しかった。このままずっと親の脛を齧るだけ齧って、死ぬまで惰性で生きていくのかなと本気で思っていた。兄弟たちだって、働く気ゼロのクズニート揃い。僕だけじゃないって安心感だけが、僕を松野一松として形作り生かしていたと言って過言じゃないだろう。ところが、そんな美味い話がいつまでも続くわけがなかった。
父さんが、倒れたのだ。
幸い、ただの過労ということだったが、僕らは相当なショックを受けた。もし、ここで父さんが死んでいたら?松野家唯一の稼ぎ頭である父さんが死んだら、僕らはどうやって生きていけばいいの?真っ先に考えたのは自分たちの保身だった。まったくの親不孝者である。けれど、それが僕らが考えを改める“切っ掛け”になったのは確かだ。

最初に動き出したのは、意外なことに十四松だ。父さんが倒れたことに、純粋な意味でショックを受けていたのはきっと十四松だけだったに違いない。心根の優しい奴だ。しかしこいつはおそ松兄さんと一二を争う馬鹿でもあった。十四松は突然、「医者になる」と言って医大を目指し始めたのだ。勿論うちにそんな金も無ければ、あいつにそんな頭があるとも思えなかった。初めは馬鹿にしていた僕らだったけれど、十四松はそんな僕らのことなど一切構わず、まさに一心不乱だった。学費を稼ぐと言って日雇いバイトも始めて、いったいいつ寝ているのかと思うほど、あのときのあいつは鬼気迫っていた。そうして、一年後に十四松は本当に医大に合格してしまったのだ。あれには心底驚かされた。僕だけじゃない、兄弟全員、両親も本気で驚いて、現実を疑ったほどだ。十四松は勉強に専念するため大学の寮に入った。僕ら六つ子は五人になった。

次に動き出したのは、チョロ松兄さんだ。最初はライブ会場の警備員のバイトだった。またアイドル関連かと馬鹿にしていたら、今度は警察官採用試験を受けると言い出したのだ。またライジングし始めたと、兄弟揃って生温く見守っていたのだけど、なんのミラクルか、本当に受かりやがったのだ。なにがそこまでしてあいつを突き動かしたのかは分からない。今まで大口を叩いてきた反動なのか、弟に先を越されてプライドが疼いたのか、それは分からないけれど、あいつは警察学校に行って、やっぱり寮に入った。僕ら六つ子は四人になった。

次は、トド松だった。今まで様々な格好がつくバイトを転々としていた奴が、ちゃんと稼ぎたいと言って漁船に乗ると言い出した。こいつ、ついに自分を見失ったのかと思った。でも、やってみると性に合ったというやつらしい。漁師はつらいからと帰って来たときは笑ってやったが、すぐに魚市場のバイトを始め、今では立派に魚屋をやっているらしい。朝市や競は意外と楽しい、なんて水で荒れた手を見せて笑うのだ。こっちは、笑えない。稼ぎもしっかりしたからだろう、トド松は一人暮らしを始めてしまった。僕ら六つ子は三人になった。

次に動き出したのはクソ松だ。トド松が魚なら、と安易に八百屋で働くことにしたらしい。安易過ぎる。さすがクソ松。しかし、あいつの歯の浮くようなクサくてイタい台詞が奥様たちに大層ウケたらしい。あの馬鹿なところも、愛嬌だと可愛がられていて反吐が出た。優しいってところは否定しないが、それ以上の欠点がひどすぎるだろう。なのに、アイツはどんどん周りの人たちに気に入られて、挙句に八百屋の店長の娘さんとの縁談が進んで、結婚することになったらしい。今のところ、うちで一番の勝ち組かもしれない。僕ら六つ子は二人になってしまった。

おそ松兄さんは、変わらずクズニート。思うところは色々あるようだったけど、そういうのを仕舞いこむようになった。思ったことはすぐ口に出すタイプだと思っていただけに、なんだか一緒に居るのが気まずくて仕方なくなった。だから、今度は僕が家を出た。おそ松兄さん一人を松野家に残した。

家を出たからといって、当てがあるはずもない。夢も金も宿も無い。才能も無ければ、容姿にも性格にも難がある。そんな男が、いったい今後の人生どうやって生きていけば良いって言うんだ。暫くの間は、宿無し職無しで過ごしてみたが、人間にも限界がある。泣く泣く一度実家に帰ろうとしたら、玄関からおそ松兄さんが出て来るところだった。鉢合わせないよう咄嗟に隠れた僕が見たものは、スーツ姿でどこかに赴いて行くおそ松兄さんの背中だった。

ああ、なんだ、結局、クズは僕一人だけだった。

僕は、本当になにも無くしてしまった。兄弟も、帰る家も、少しだけはあった未来の希望なんてものも。クズな僕には、なにひとつ残らなかった。
そんな僕が選んだのは、あの世への就職だ。天国でも地獄でも浄土でもなんでもいい。こんなつらくて苦しい世界から逃げ出せるなら、どこだって良かった。
ロープ一本持って、山に入る。そういえば可愛がっていた虎や猫たちがそのままだ。最期に会いに行こう。そう思ってあいつらのところを目指した。虎は檻の中。可哀想に、最近は飯をやるのを失念していた。ああ、じゃあそうだ、僕をやろう。
それが一番良い考えだと思ったし、本望だとも思った。可愛いこいつらに、なにも無い僕が返せるものと言ったら、我が身しかない。こんな美味くもなさそうな男一人で申し訳なくも思ったが、無いよりはきっとマシなはずだ。

檻を開けて、虎を見た。ぎらぎらと餓えた目が僕を捕らえ、視線を逸らさない。可愛いこいつらは、僕の言うことが分かる。僕は最期の頼みをすることにした。

「ごめんな、ぼくはもうお前らにあげられるものを持ってないんだ。だから、最期にぼくをあげようと思う。でも、これからはひっそりと生きて欲しい。動物園に潜り込んだって良い。ぼくを八つ裂きにしようと食おうとそれは構わない。けど、他の人間に危害を加えちゃだめだ。お前が殺されちゃうから」

虎は、頷いた。やはり、頭の良い奴なのだ。周りの猫たちにも同じようなことを言って、僕は僕の人生の幕を下ろす決意をした。
悲しいとか、寂しいとか、思わなかったわけじゃない。泣かなかったわけじゃない。でも、本当に僕にはなにも無くて、僕はそれを受け入れるしかなかったのだ。最期に考えたのは、…もう一度だけでも良いから、なまえちゃんに会いたかったな、ということだけだった。僕が風邪を引いて、数日会えない間に消えてしまった僕の初恋の女の子。結婚の約束もしたんだ。子供の約束だと笑われるかもしれないけれど、僕は本気だった。心残りは、彼女のことだけだ。

虎の前に座ると、ゆっくりと近づいて来た。
僕は、痛みを待った。
けれど、いくら待ってもそれが来やしない。そっと目を開くと、虎も猫たちも居なくなっていた。僕は、あいつらにも見限られたのだ。なにも無い僕にはやはりなにも残らない。ああ、いや、残ったのは、虚無だけだった。
僕のあいつらのご飯になるっていう最期の望みも叶えられず、檻の中に独りきり残された。このまま、寝ているだけで死ぬんじゃないかと思った。そういえば自分の飯だって最後に食べたのがいつだったかも憶えていない。餓えて死ぬか、衰弱死するか、もしかしたらあいつらが戻って来て僕を食べてくれるかもしれない。どれにしろ、僕の未来は決まっていた。

気づくと僕は寝ていたらしい。いや、それか腹が減りすぎて気絶していたのかもしれない。ざりざりと顔を生暖かなもので擦られて、堪らず目を開けて見ると、目の前にはゴロゴロと喉を鳴らして僕を見下ろす虎や猫たちの姿があった。なんだ、やっと僕を食いに来たのか、そう思った。虎に胸倉を噛まれて、無理やり体を起き上がらせられ、僕は目を疑った。僕の足元には、生の魚やあけびなんかの木の実がごろごろと転がっていたのだ。周りを見回すと、得意げだったり心配げにする虎と猫たちの姿。

涙が溢れた。

こいつらは、死ぬことしか考えていなかった僕を、生かそうとしてくれている。人間こんなに泣けるものなのかと思うほど、僕は泣いた。嗚咽が混じろうと、しゃくりあげようともう関係無かった。僕は、生きねばならない。今がどん底なら、あとはなにをしたって上がるだけなのだ。


僕は恥を忍んで、一人暮らしのトド松を訪ね、風呂と金を貸してもらった。土下座して頼み込み、暫くはトド松の部屋に住まわせてもらい、バイトでもなんでも良いから探し回ることになった。でも、それもなかなか上手くいかない。二十歳も半ばを過ぎたコミュ障に、世間は思ったよりも冷たかった。世間の冷たい風に当たると、どうしたって僕は卑屈になった。ああ、いいよなぁ、ぱやぱや遊んでばっかいられる学生や、ちょっと顔が良けりゃちやほやされて人生上手くいってる奴らは。

治らない猫背のせいで、下ばかり向いていた。その頃には輪郭を隠すくらいに髪が伸びていて、少し邪魔くさいほどだった。でも、髪を切る金すらない。トド松に切ってと頼んだら坊主にされそうだし、自分で切れるほど器用じゃない。まぁ、髪なんかはどうでもいい。切実に欲していたのは、働き口だった。

「ねぇ、君さ」
「…は?」

突然、変なセールスマン風の男に声を掛けられて脂汗が出た。他人と話すことに恐怖心すら覚えていた僕に、まさか向こうから誰かが話しかけてくるとは思ってもみなかったのだ。なんだ、詐欺か、セールスか、どっちにしろ僕に金は無い。

「もしかして、家出?」
「……は?」
「ああ、ごめんね、僕怪しい者じゃないっていうか。まぁその、家出ならちょっとくらいだったら支援出来るかなぁと思って」

ニコニコと嘘だらけの笑みを向けられて、ぞわりとした。なに言ってんのコイツ。

「…いや、家、あるんで(おれのじゃないけど)」
「あ、そうなんだ。そっか、ごめんね急に」
「……支援はしてほしいけど」

心からの言葉だった。マジ、支援はしてほしい。僕は貧困甚だしいのだ。しかし、こんな奴も世の中に居るんだな、と思った。家出した奴に声掛けて、支援したいなんて。奇特な奴だ。

「あっ、そう?んじゃあさ、ほら…、一万とかで、どう?」
「…あ?どう、って」
「ああ、ホテル代は別でちゃんと出すよ。君、処女?だったら、もう少し出しても良いんだけど」
「……………は?」

え、処女?いや、童貞ですけど。
そこで、僕は視線を上げてみた。そこは俗に言うラブホ街。呆然と見上げて、先程までの男との会話を思い返し、
吐いた。
男の悲鳴など、それどころではない。僕は一目散に逃げ出して、なんとかトド松の家に逃げ帰ることが出来た。

「おかえり、一松兄さ…えっ!?ちょ、口にゲロついてんだけど、なにしてきたの!?」
「いや、うぐ、ごめ、聞かないで…」

また吐きそうになってトイレに駆け込む。それから三十分ほどかけて胃の中を胃液まで綺麗に空っぽにして、ふらふらとしたまま洗面所に向かった。鏡に映る顔はひどいものだ。いや、しかし、あのとき僕は間違いなく女に間違えられていた。なぜだ。この長く伸びてしまった髪のせいか。低い身長のせいか。栄養失調で痩せ細ってしまったこの体のせいか。それともあの男が相当趣味が悪かったのか。うぐ、考えただけでも吐き気がぶり返す。

気をなんとか取り直して、まじまじと鏡を見る。今まで気持ち悪くて自分の顔なんかじっくりと見たことが無かったが、女に間違われる容姿をしているとは思えない。髭はあまり生えないし、肌荒れというほどの肌荒れもないけれど、それにしたって。
考えに考え抜いて、僕はひとつ試してみることにした。
トド松の部屋にあった女性向けの雑誌を読み漁って、百円ショップで化粧品を揃えて、覚束ない手つきでなんとか試行錯誤し、自分の顔に化粧を施してみた。最初は鏡を見てバケモノかと思ったけれど、回数を重ねていくごとに慣れてきて、なんとか見られるものに作り上げることが出来るようになった。幸いなことに、トド松は職業柄早朝から家に居ない。決行の日、こんな姿を弟に見られるなんて耐えられないと思いながら、僕は家を出た。

不自然じゃない程度に施した化粧、体型を隠すようにだぼっと着たパーカーと、足が細く見えるデニムパンツ。伸ばしっぱなしの髪は、そのまま。僕は、その格好でバイトの面接に赴いたのだ。男だとバレたとしても、それは今後二度と会うかも分からない他人だ。痛くも痒くもない。せめてもの悪あがきで、名前は「一子」と記入しておいた。我ながら安易過ぎる。
声は高めを意識して、僕の思う女性らしい仕草というやつも意識した。なにもかもちぐはぐで、笑えるような仕上がりだったけれど、意外にも不審には思われなかったらしい。そして奇跡が起こった。僕は、そのバイトに受かったのだ。世の中はおかしい。本気でそう思った。
でも、仕事は仕事だ。有難く働かせてもらうことにした。無論、バイト中はずっと女装しなければならないのだけど。バイトを始めて暫く経つと、化粧にも話し方にも立ち居振る舞いにも慣れて来て、「一子さん」と呼ばれて振り向くこともスムーズに出来るようになっていた。
重い物は同じバイトの男が持ってくれるし、店長が廃棄で出た惣菜やデザートをこっそりと持たせてくれたりする。きっとこれは、僕が男であったなら味わうことの出来なかった待遇なのだと思った。

女性限定サービス、女性専用車両、レディースデー、レディファースト、思えばこの世の中は女という性別に甚く優しく出来ていた。それが、男尊女卑の歴史があるからだとしても、今でも社会的地位は低いなんて言われているとしても、僕からすれば、二十代半ばの男がフリーターなのと、二十代半ばの女がフリーターなのとでは、世間の目が違うことがありありと分かるのだ。男ならば定職について当然、なんでこの年齢でバイトなのか、男なら夢や意味を求められる。女なら、ただ生きるためという理由で許される。それは、世間からどうせ女は結婚するから、稼ぎが不安定でも良いと思われているからなのかもしれない。それも立派な差別だし、女性からすれば腹立たしいものがあるだろう。でも、僕はそれを利用して生きられているのだから、そんなのはどうだっていい。
男だと冷たかった世間の目が、女になるだけで柔らかなものになる。松野一松はただのクズニートだった。でも、一子は、フリーターながらもきちんと働く社会人なのだ。

僕は、松野一松ではなく、一子としての人生を選択した。それは、生きるため、そしてなにも無いクズニート松野一松という男と決別するためでもあった。

それからの人生は、面白いほど好転した。
安定して稼げるようになり、トド松の家を出て、ボロアパートでも自分の部屋を借りられるようになった。トド松への借金も返し終わる頃、六つ子全員が働き始めたと知ったチョロ松兄さんが、みんなに「今までの分を両親に少しずつでも返していこう」と提案し、毎月少ない額だが、父さんと母さんの老後に向けた貯金が出来るようになった。一子として知り合ったバイト仲間や、一緒に定期的につるめるような友達も出来た。一松の僕に無かったものを、一子は全部持っていた。
兄弟に今の自分のことを話すのは抵抗があったけれど、久しぶりに会おうと言われてしまうと、化粧や格好はどうにかなっても髪の長さだけは誤魔化せず、仕方なくありのままを話すことになった。当然ながら気持ち悪がられたが、それを認めてやるのも家族だと言ったのはおそ松兄さんだった。あいつ、就職してから少しマシな性格になったのかもしれない。…いや、おそ松兄さんは、昔から家族意識の強いほうだったかもしれないな。

そんなこんなで、僕は一子として第二の人生を歩んでいた。勿論、このままじゃ結婚どころか彼女なんてものとも縁遠くなってしまうけれど、それでも僕は生きることを選んだ。もう、あんなクズには戻りたくなかった。虎にも猫たちにも心配を掛けてしまうようなクズには、絶対に。
ああ、あいつらはあいつらで楽しくやっているようだ。たまに様子を見に行くと、元気に山奥で暮らしている。僕にとっては大切な命の恩人たちだ。今後も見守っていきたい。

一子としての人生は順風満帆。馴染みの五人と飲みに行ったり、旅行に行ったり、ガールズトークとやらも平然と出来るようになっていた。男であることは、意外にも一度も疑われたことがない。
このまま、僕は僕を殺して、一子として一生を終えるんだと思っていた。それで良いとも思った。だって、一松に無いものを、溢れるように持っている一子であるだけで、僕は幸せなのだ。それ以上に、いったいなにを望むっていうんだ。

そう思っていた。
あの日までは。

いつものメンバーで居酒屋で飲むことになっていた。バイトは定時で上がれたのに、電車が遅延し、集合時間に少し遅れて行ったのだ。そこに、見知らぬ女の子が居た。どこか見覚えのあるような、でもきっと知らない女の子。まぁ僕には、彼女が誰であろうと関係無かった。彼女が誰であろうと、僕はただ一子でいるだけだ。

「ねぇ、この子だれ?」

だから、それも形式的な質問だった。特に興味は無いけれど、普通はこういうことを聞くものだという、ただのテンプレート。でも、その子と目が合った瞬間。僕は、一子であることを一瞬で後悔していた。
身の内から震えるような衝撃。電気が走るというのは、きっとこういうことを言うのだと実感出来るほどのもので、目が離せなくなっていた。
彼女のことを知りたい。それはもう形式的なものではなく、本能的な内なる叫びに近いものがあった。

彼女の名前を聞いて、僕は二度目の衝撃を受けた。それは、どこか絶望と色が似ていたことを憶えている。目の前が真っ暗になって、言葉が出て来ない。きっと、一人きりだったなら、みっともなく泣き出していたんじゃないかと思う。
だって、彼女は、なまえちゃんは僕の初恋の女の子本人だったのだから。
死を覚悟した間際に、たったひとつ心残りになった会いたかった人。あのとき、どうして突然消えてしまったのか、今までいったいどうしていたのか、聞きたいことは山程にあった。だけど、僕はもう松野一松ではなく、別人である一子なのだ。そんなこと、聞けるわけもない。
それに、話を聞いていると、なまえちゃんは僕の知らない間に“男性恐怖症”になっていたらしい。だったら尚更、僕は名乗り出ることは出来ない。そこで、僕は自分でも最低だと思う悪しき考えが浮かんでしまった。
そのまま、なまえちゃんの男性恐怖症が治らなければ、なまえちゃんは僕以外の男と付き合うことも結婚することもないのだ、と。

「その男性恐怖症って治さなきゃ駄目なの?…男なんて、数ある塵の一つよ。ただのゴミ。関わる必要なんてないわ」

それは僕の本心でもあった。男なんてものはただのゴミクズだ。女であれるなら、女であるほうが得なのだ。それは、僕自身への否定だ。けれど、もうそれが板についてしまっていた。僕は、男を否定することで僕自身を否定する。こんなクズ要らないと、自分を貶める。それが、僕にとっての生きる術だった。

そこから、なぜかとんとん拍子に物事が進んで、驚いたことに、女であるはずの一子と、なまえちゃんが付き合えることになったのだ。確かに他の男と付き合ってほしくないとは思ったけれど、まさか一子である僕と付き合ってくれるなんて本当に奇跡だ。いや、なまえちゃんは僕とじゃなく、私と付き合ってくれている。それを忘れてはいけない。堪え切れなくてキスしてしまったときは、正直やりすぎたと思った。しかし、なまえちゃんの唇は中毒性を孕んでいて、抗えずに何度もしてしまった。本気で抗う気なんか無かったのかもしれない。

僕はいつでも、なまえちゃんに逃げ道を与えていたつもりだった。いつでも離れてくれて良い、気持ちの赴くままに強制はしたくない。そんな心とは裏腹に、僕はどうしてもなまえちゃんを手放せなかった。本当のことを知られれば嫌われる、なまえちゃんを悲しませると分かっていながら、それでも僕は、なまえちゃんが可愛くて大好きで愛おしくて仕方なかった。
一子でいるために、なまえちゃんを欺き続けなければならなかった僕だけれど、なまえちゃんへ伝えた愛に一切の偽りは無かったんだ。この僕が愛を語るなんて、どうかしてる。ああ、どうなってもいいくらいに、大好きなんだ。

一松であることを伝えられなかったのは、単純に怖かったからだ。男性恐怖症のなまえちゃんの近くに居られなくなるし、第一に僕はなんらかの理由で幼少期の頃、既になまえちゃんに嫌われたものだと思っていた。それに、松野一松の人生で良いことなど一つも無かったからだ。一子で上手くいくことも、一松じゃ上手くいかなくなる。僕は、一松に戻ることが怖かった。またなまえちゃんを失うことが怖かったんだ。

今更、松野一松という男を誰が受け入れてくれるっていうんだ。僕にとって、僕自身が最大のコンプレックスだった。

そして、温泉旅行の日。
僕は、彼女が僕から離れて行きたいということを分かっていながら、なんとか繋ぎ止めようと必死だった。でも、彼女の話を聞いて、僕はなまえちゃんを繋ぎ止めることなど出来なかった。僕の記憶には無いけれど、なまえちゃんが男性恐怖症になる原因を作ったのは、紛れもなく僕自身だったのだ。僕は、一松であるばかりに彼女の人生まで壊していたのだ。その後に知る事実などは、過程でしかない。原因は一松で、結果はご覧のとおり。嫌われても、憎まれても、それは当然のことだ。

本当は一子である私だって、なまえに好きなんて言ってもらえる資格は無い。
私は、一子であっても一松であっても、なまえちゃんを幸せには出来ないのだ。


Life is not fair; get used to it.

―Bill Gates

人生は公平ではない。そのことに慣れよう。
―ビル・ゲイツ
(2017.03.20)


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